やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

監修者序文
 九州大学大学院 歯学研究院 歯科麻酔学分野
 教授 横山武志
 この素晴らしい一杉 岳氏の書籍の監修を依頼されたことは,本当に光栄です.
 本書は,図や写真が豊富で非常にわかりやすくなっています.くわえて,他の成書にはあまり記載されていない麻酔管理のテクニックなども数多く提示されています.そのなかには私が彼に伝えたものもあり,九州大学病院で一緒に仕事をした日々が懐かしく思い出されました.
 一杉氏は日本大学歯学部を卒業した後,聖路加国際病院で研修を受けた当時,院長の日野原重明先生から「医師と医学という共通言語で話ができるようになりなさい」と指導されたそうです.
 知識不足から多くの医師と十分なコミュニケーションが取れなかった当時の彼は,良い医療者になるためにきちんと医学を学ぶ必要を感じたといいます.その思いから,大学に戻り歯科麻酔学の大学院に入学しました.彼にとっては不本意な件によって一時的に麻酔から離れて,口腔外科で研鑽を積むことになりました.しかし,彼の心の奥底にあったものは麻酔への思いだったようです.
 私が九州大学に赴任した時,一緒に働いてほしいと伝えると,彼は「麻酔には忘れ物があるので,ぜひお願いします」と言ってくれました.
 初めて九州大学病院で一緒に麻酔をした日のことも忘れられません.彼が静脈路を確保し,私が患者にプロポフォールとロクロニウムを投与しました.そこで彼はおもむろにマスク換気を始めたのですが,いざ挿管しようとして喉頭鏡を忘れたのに気づき,私にマスク換気を任せて,走って準備室に取りに行きました.立派な麻酔科医に成長した今の一杉氏からはとても考えられない,大慌ての様子を昨日のことのように思い出します.
 麻酔とは直接関係ないものの,彼が発した言葉で忘れられないものがあります.
 彼はトライアスロンの選手でアイアンマンレースにもよく参加していました.その彼に「マラソンはしないのですか」と私が尋ねると,「私は短距離のレースはあまり好きではないので」と答えました.フルマラソンを“短距離のレース”だと言えるのは,彼ならではと思います.思い返すと,海外の学会に一緒に参加した時も,私の留学先だったアイオワ大学を一緒に訪ねたときも,時間を見つけては走っていました.
 10年ほど前に一杉氏が医局を離れたことがあります.この時は留学を希望した彼に頼まれて,私がフライブルグ大学の高名なシュメルザイゼン教授宛に紹介状を書きました.そこは頭頸部外科の教室でしたが,彼は一生懸命頑張って,ドイツの歯科医師免許(開業医許可証)まで取得しました.日本人では二人目の快挙だそうです.そのままドイツで開業すれば左うちわでポルシェにも乗れたと思うのですが,留学後はまた九大に戻ってきてくれました.
 私は,「老いた患者さんは親と思い,同年代は兄弟と思い,幼い患者さんは子供と思って麻酔管理しよう」というモットーを掲げて,九州大学病院で臨床に従事してきました.
 一杉氏はこの私の言葉を守って医療者として誠実に勤務してくれました.臨床に貢献できる研究活動にもいつも精力的でした.現在は離れてしまいましたが,彼と過ごせた時間は,私にとっていつまでも大切な宝物です.
 冒頭でも述べたとおり,本書に掲載されている症例のなかには,他の施設ではあまり扱っていないような稀な症例やハイリスク症例が数多く紹介されています.一方で,マニュアル通りの解説書というわけではなく,口腔外科のキャリアもある一杉氏ならではの視点から独自に解説されている箇所も多く,読み応えがあると思います.医師,歯科医師にかかわらず,頭頸部手術の周術期管理に従事する医療者であれば,非常に役立つ内容に仕上がっています.
 一杉氏は口腔外科医としてのキャリアも持ち,多くの難症例を経験してきました.それだけでなく,プライベートで打ち込むトライアスロン以上に長い,人生というレースでさまざまな困難を乗り越えてきたタフな人物でもあります.本書は,そんな現在トップランナーとして走り続ける著者が,より臨床に貢献したいという強い想いを持って執筆しています.そして,その気持ちが溢れた素晴らしい書籍に仕上がっています.麻酔科医だけでなく,手術や麻酔に関わる多くの方にぜひ読んでいただきたい一冊です.
 監修者序文
Case1 二次癌(舌癌) 手術時に肺転移を見出せなかった慢性移植片対宿主病患者
Case2 声帯癒着 喉頭内視鏡検査で声帯癒着が見逃されたため挿管および気道管理に苦慮した症例
 AnotherCaseA 中間顎について
 Column a 頭頸部麻酔に関連深い特殊な器具など
 Column b ファイバースコープ挿管時のこつ「鼻腔は2つ」「視野は吸引で確保される」
Case3 多脾症候群(単心房単心室) 重度心奇形(単心房単心室症)を伴う多脾症候群患児の全身麻酔下歯科治療経験
 AnotherCaseA 気管・気管支軟化症
 AnotherCaseB 気管孔の管理
 AnotherCaseC 気管孔,気管切開後に対する徒手換気時の注意
Case4 内頸動脈狭窄症 頸部手術の閉創操作により脳血流低下を認めた患者
 Column c 各種計測機器の利用
 Column d オトガイ(頤)下引き抜き法(submental route for tracheal intubation)
 Column e Tongue stitch(舌の牽引について)
Case5 Pelizaeus-Merzbacher病 ペルツェウス・メルツバッハ病患者の埋伏智歯抜歯術における全身麻酔
 Column f 気道(防御)反射 麻酔科医にとっては憎い敵であるが,本来は守り神
 Column g 気喉頭痙攣─鬼を起こさず,神に静かに見守られたい
 Column h 経鼻挿管時に役立つ方法
 Column i 経鼻ファイバー挿管時にチューブ内をファイバーが進まない時のコツ
 Column j Awake(有意識下)挿管は表面麻酔がポイント
Case6 Aicardi症候群 女児への全身麻酔
 AnotherCaseA Kabuki Syndromeに対するAicardi(有意識)+経鼻ファイバー挿管
 AnotherCaseB 気管支攣縮
 Column k 顎矯正手術時の血管損傷の危険性について
 Column l 経鼻ブラインド挿管のすすめ
 Column m 急な開口器の操作による血圧上昇やバッキングについて
Case7 ヌーナン症候群 肥大型心筋症とてんかんを伴った患者の全身麻酔経験
 Column n RAEチューブ入れ替え後の注意点
 Column o 徐痛の経験的なこつ
Case8 下顎骨Paget病 開口不能を伴う患者の全身麻酔経験
 AnotherCaseA 固定が重要! そして術者との共通認識も重要!
 AnotherCaseB 仮骨延長術・創外固定装置を装着した症例
 AnotherCaseC 本当に巨舌?
 Column p 気管切開術後早期は気管切開チューブの逸脱・迷入が生じやすく,正しい再挿入は困難
Case9 成人レット症候群 無呼吸発作と貪気を伴う患者の麻酔経験
 Column q 異常絞扼反射(嘔吐反射)の軽減に浸潤麻酔が有効
 Column r 異物の咥え転倒に伴う口腔内外傷
 Column s 出血時の気道確保の対応『挿管成功率=確実な視野の確保率』
Case10 Dandy-Walker症候群 学童後期男児への静脈内鎮静と繰り返し全身麻酔経験
 AnotherCaseA 仰臥位になれないと思われる患者において徒手換気をした症例
 AnotherCaseB 経鼻ファイバー挿管
 Column t 歯科の鎮静(精神鎮静法)について 頭頸部麻酔において独自の診療として発展
 Column u 頸部手術に起因した気道閉塞に係る死亡事例の分析

 大切なことは“文章で記録に残すこと”~結語に代えて~