やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに
 医療の現場では,診断や治療方針の決定とは別に,倫理的判断が求められる場面が少なからず存在する.患者の意思と家族の希望が一致しない場合,医学的に可能な治療と患者にとって望ましい結果が乖離する場合など,臨床のさまざまな局面において,医療者は倫理的な問題に直面する.
 こうした倫理的問題への対応について,多くの医療者は「判断の基準がわかりにくい」「経験則に頼らざるを得ない」といった印象を持っているかもしれない.本書『ケースから学ぶ臨床倫理推論』は,臨床現場で生じる倫理的問題に対して,どのように考え,どのように判断していくのかを,具体的なケースを通して示すことを目的として企画されたものである.
 本書の内容は,編著者が東京大学医学部附属病院患者相談・臨床倫理センターにおいて,約20年にわたり臨床倫理コンサルテーションに従事してきた経験を基盤としている.編著者が同センターを離れるタイミングにあたり,これまで日常診療のなかで実際に医療者から寄せられてきた相談を振り返り,その経験を一定の形として整理・共有することを目的として,本書は企画された.そうした実践の積み重ねのなかで浮かび上がってきたのは,倫理的問題そのものの難しさに加えて,「どこから考え始めればよいのかがわからない」という戸惑いであった.
 本書は,倫理的判断における「正解」を提示することを目的としたものではない.また,倫理的問題に対して機械的に当てはめることのできる「正解の型」を示すものでもない.むしろ本書が意図しているのは,臨床現場で倫理的問題に直面した際に,思考が行き詰まったり,論点が錯綜したりすることを防ぐための,思考を迷子にしないための地図を提示することである.
 そのため本書では,倫理的問題を含むケースに対して,どのような点に着目し,どのような順序で検討を進め,どのような理由で一定の方針に至ったのかを,可能なかぎり明示することを重視している.結論のみを示すのではなく,そこに至る思考の過程を共有することによって,読者が自身の臨床現場において応用可能な視点を得ることを目指している.
 このような構成は,米国における臨床倫理コンサルタントのトレーニングの考え方にも通じるものである.米国では,座学による教育だけでなく,臨床の場において経験を有する臨床倫理コンサルタントに同行し,その思考や判断の過程を学ぶシャドウイングが重視されている.本書もこれに倣い,臨床倫理コンサルタントなどの専門家,あるいは臨床倫理コンサルテーションや臨床倫理委員会において実践経験を有する執筆者による臨床倫理推論の過程を,読者が間接的に参照し,理解できるよう構成している.
 各章で取り上げるケースは,バラエティに富んだ倫理的問題を含んでいるだけでなく,臨床現場において医療者が比較的頻繁に直面するであろう倫理的問題を意識し,一定の観点から分類・整理したうえで構成されている.それぞれのケースについて,臨床倫理推論における規範的な観点からの検討が行われており,倫理的問題を倫理理論に基づいて分析するだけでなく,関連する医学的情報をふまえたうえで,一概にこれが正しいと言えないようなケースに対しても,最終的な方針と具体的な介入のあり方までが示されている点が,本書の特徴である.
 本書が,臨床現場で倫理的問題に直面した際に,状況を整理し,他者と議論しながら判断を進めていくための一助となれば幸いである.
 2026年7月
 瀧本禎之
 はじめに(瀧本禎之)

総論:推論の方法論と考え方
 (瀧本禎之)
応招義務
 (勝碕静香)
 Keywords 応招義務,迷惑行為,診療拒否
高齢者虐待(医療ネグレクト)
 (楠瀬まゆみ)
 Keywords 高齢者虐待,医療ネグレクト,意思決定能力,倫理の四原則
サイコオンコロジー
 (菅野康二)
 Keywords サイコオンコロジー,治療拒否,自律尊重,積極的責務
事前指示
 過去の意向をどこまで尊重すべきか
 (田代志門)
 Keywords 事前指示,有効性と適用可能性,意思の推定
守秘義務のケース
 (野口善令)
 Keywords 守秘義務,プライバシー権,守秘義務の解除,相対的義務
モラルディストレス:医療現場における倫理的苦悩
 (永井真理子)
 Keywords 倫理的葛藤,医療管理,医療資源,感染症対策,終末期医療
良心的拒否
 (新井奈々)
 Keywords 海外渡航移植,診療拒否,良心的拒否
身体拘束
 (松村由美)
 Keywords 基本的人権,高齢者,せん妄
LGBTQ患者への対応
 (新井奈々)
 Keywords セクシュアリティ,セクシャルマイノリティ,LGBTQ,ノンバイナリー,医療アクセス
家族の意向が患者の治療方針に影響を及ぼすケース
 (瀬戸山晃一)
 Keywords 協働的意思決定(SDM),パターナリズム,ナラティヴ
先天性疾患を有した新生児の手術
 (加部一彦)
 Keywords ダウン症,出生前診断,代理意思決定,医療ネグレクト,対話
親による定期接種のワクチン拒否
 (福原里恵)
 Keywords ワクチン躊躇,VPD,代理意思決定
自殺企図患者
 (金田浩由紀)
 Keywords 治療拒否,質的無益性,一貫性の検討
人工透析の中止
 (三浦靖彦)
 Keywords 透析終了,事前指示,アドバンス・ケア・プランニング,保存的腎臓療法(CKM)
終末期の患者への対応
 ―緩和的抜管,人工呼吸器の中止
 (竹下 啓)
 Keywords 治療中止,緩和的抜管,人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン
終末期でない場合の人工呼吸器の中止
 (門岡康弘)
 Keywords 治療拒否,ALS(筋萎縮性側索硬化症),人工呼吸器,意思決定支援
人工栄養の差し控え・中止
 (浅井 篤)
 Keywords 人工栄養,重症意識障害,生命維持措置の中止,最善の利益,診療のゴール
リスクの高い治療の要求
 (勝碕静香)
 Keywords 無益性,無危害原則,善行原則,手続的正義
判断能力の低下が疑われる患者の意向
 (勝碕静香)
 Keywords 判断能力と同意能力,自律尊重,MacCAT-T,無益性
子どもの自己決定をいかに尊重するか
 (笹月桃子)
 Keywords 子ども,自己決定能力,協働意思決定
善行を果たせるか
 (長尾式子)
 Keywords 認知症の患者,身よりのない患者,患者の権利,尊厳,最善の利益
小児の輸血拒否
 ―15歳未満の場合
 (掛江直子)
 Keywords 信仰,輸血拒否,新生児,代諾,医療ネグレクト
小児の輸血拒否
 ―15歳以上18歳未満の場合
 (楠瀬まゆみ)
 Keywords 未成年,輸血拒否,意思決定への関与,治療に関する決定権
緩和的鎮静のケース
 (今長谷尚史)
 Keywords 倫理的妥当性,相応性,意図,持続的鎮静,間欠的鎮静
緩和医療におけるモルヒネによる呼吸抑制:緩和医療死
 (山﨑宏人)
 Keywords 緩和ケア,WHO方式がん疼痛療法,倫理四原則,二重結果の原則(PDE),共有意思決定(SDM)
総論:臨床倫理の歴史と臨床倫理コンサルテーションの展開
 (新井奈々)