Preface(本書のねらい)
高齢化が高度に進行した日本では,病院や施設,在宅で多くの患者が摂食嚥下障害に苦しんでいると同時に,関わる医療者や介護者も難渋している現実がある.
日本における高齢者の嚥下障害は,脳卒中の診断や治療を中心に発展してきた一面がある.脳卒中発症直後で意識障害がない軽症の患者のうち51%に嚥下障害が発現し,最初の2週間で27%と約半数が改善し,6カ月後には9.1%(このうち新規発生が2.3%)と,自然経過で大部分が改善していくという報告があり(Stroke,12(4):188-193,1997.),急性期では全身状態の改善を待ちながら廃用や合併症を予防することが1つの対応であった.その一方,意識障害があったり,嚥下障害が自然に治らない重症の患者に対しては,急性期を脱すれば早期から回復期で自宅復帰を目指し「機能回復を目的とした訓練」を中心とした対応を行った.このように自然に治り,訓練により改善できた患者に関わりながら,嚥下障害に関する多くの研究が進歩してきた.
しかし一方で,人口構造の高齢化と並行して加齢による生理的な機能低下や廃用症候群,進行性の神経変性疾患,高次脳機能障害,認知症,薬剤の副作用,サルコペニア,食事介助技術などが複合的に障壁となっている,嚥下機能だけではなく先行期と準備期の問題も多く含む摂食嚥下障害が増加し,自然経過を待ったり,嚥下機能の「機能回復を目的とした訓練」では治らない患者層が増えてきた.
そしてこれらの摂食嚥下障害では,
「治る」
「治せる(訓練・治療・支援などが奏功して改善できる,リスクをコントロールしながら食べさせることができる)」
「治らない(訓練・治療などでは改善が困難)」
部分が複合しており,cure(治す)だけではなくcare(支援する)を含めた対応が求められる.そしてこの対応の質と結果は,そこに関わる医療者の知識や経験,技術に大きく左右されることになる.
国際生活機能分類(ICF)によれば,障害は,「心身機能・構造障害」,「活動制限」,「参加制約」の3つのレベルに分けてとらえられている.たとえば歯が欠損したことによる心身機能・構造障害を義歯によって対応したり,硬いものが食べられない活動制限を調理法によって,外食に出られないという参加制約を嚥下食対応レストランで,というように,どのレベルの「治せる」を目指すのか,求める目標についても,患者・家族とともに考える必要がある.
また近年,医療においてはEBM(evidence-based medicine)が重視されるようになったが,この手順の「Step 4:情報の患者への適用」では,エビデンス,専門家の知識と経験,患者の価値観,患者の病状と環境などの要素を総合的に判断して治療方針を決めることが求められている.そしてこのStep 4を補完する概念として,物語と対話を重視するNBM(narrative-based medicine)や,患者と医療者の価値を重視するVBP(value-based practice)などが提唱されている.
これを摂食嚥下障害治療に当てはめて考えてみると,専門家の知識と経験,技術も十分でない状況の中で,少ないエビデンスで診断を行い,患者の価値観が十分に反映されない治療方針の決定がなされていることもあるのではないだろうか.「治せる」「治せない」の考え方も,医療者の視点からだけではなくICFやEBMに基づき,さらにNBMやVBPに十分に配慮することが必要だろう.
日本の現状を見てみると誤嚥性肺炎によって毎日約117人(年間42,746人)が亡くなっている.また食べ物による窒息死は毎日約11.5人(年間4,193人)であり,交通事故死(年間3,718人)より多いという驚くべき状況である(2020年人口動態統計確定数).そこには,
・誤嚥による発熱や誤嚥性肺炎が起こる
・食べさせて窒息させる
・食べられるのに食べさせることができない,食べさせない
─ややもすると,身体状況が悪化してADLやQOLを著しく低下させたり,死の危険にさらされてしまったり,患者や家族の立場から見れば虐待ともとられかねない,本来とは真逆な状況が生まれる可能性すらある医療現場が存在するかもしれない.近年は摂食嚥下障害における倫理の問題も議論されるようになった.
摂食嚥下障害の治療は比較的新しい分野であり,対応できる医療者が少なく,世界的に見ても治療に関するガイドラインもない.臨床現場では少ないエビデンスに基づき手探りで治療にあたっているというのが現状であろう.背景,複合疾患もさまざまであり,原因も対応も複雑化した摂食嚥下障害に対し,
・どこを治せて,どう治すのか?
・どこが治せなくて,どう対応したらよいのか?
・今後どのように悪くなっていき,そのとき何をするべきなのか?
─このような視点から摂食嚥下障害を見つめ直し,すべてを治せるわけではなくても,治せないことに医療者はどう立ち向かっていくのか─「まだできることがあるはずだ!」という医療者を応援したい.またこれらの状況を医療者側だけでなく,できるだけ患者・家族にも理解を深めてもらうことが必要であろう.
本書が臨床現場での一助となることを願ってやまない.
2022年9月
編集委員(順不同)
藤本篤士(代表) 野原幹司 小山珠美 金沢英哲 武井典子
高齢化が高度に進行した日本では,病院や施設,在宅で多くの患者が摂食嚥下障害に苦しんでいると同時に,関わる医療者や介護者も難渋している現実がある.
日本における高齢者の嚥下障害は,脳卒中の診断や治療を中心に発展してきた一面がある.脳卒中発症直後で意識障害がない軽症の患者のうち51%に嚥下障害が発現し,最初の2週間で27%と約半数が改善し,6カ月後には9.1%(このうち新規発生が2.3%)と,自然経過で大部分が改善していくという報告があり(Stroke,12(4):188-193,1997.),急性期では全身状態の改善を待ちながら廃用や合併症を予防することが1つの対応であった.その一方,意識障害があったり,嚥下障害が自然に治らない重症の患者に対しては,急性期を脱すれば早期から回復期で自宅復帰を目指し「機能回復を目的とした訓練」を中心とした対応を行った.このように自然に治り,訓練により改善できた患者に関わりながら,嚥下障害に関する多くの研究が進歩してきた.
しかし一方で,人口構造の高齢化と並行して加齢による生理的な機能低下や廃用症候群,進行性の神経変性疾患,高次脳機能障害,認知症,薬剤の副作用,サルコペニア,食事介助技術などが複合的に障壁となっている,嚥下機能だけではなく先行期と準備期の問題も多く含む摂食嚥下障害が増加し,自然経過を待ったり,嚥下機能の「機能回復を目的とした訓練」では治らない患者層が増えてきた.
そしてこれらの摂食嚥下障害では,
「治る」
「治せる(訓練・治療・支援などが奏功して改善できる,リスクをコントロールしながら食べさせることができる)」
「治らない(訓練・治療などでは改善が困難)」
部分が複合しており,cure(治す)だけではなくcare(支援する)を含めた対応が求められる.そしてこの対応の質と結果は,そこに関わる医療者の知識や経験,技術に大きく左右されることになる.
国際生活機能分類(ICF)によれば,障害は,「心身機能・構造障害」,「活動制限」,「参加制約」の3つのレベルに分けてとらえられている.たとえば歯が欠損したことによる心身機能・構造障害を義歯によって対応したり,硬いものが食べられない活動制限を調理法によって,外食に出られないという参加制約を嚥下食対応レストランで,というように,どのレベルの「治せる」を目指すのか,求める目標についても,患者・家族とともに考える必要がある.
また近年,医療においてはEBM(evidence-based medicine)が重視されるようになったが,この手順の「Step 4:情報の患者への適用」では,エビデンス,専門家の知識と経験,患者の価値観,患者の病状と環境などの要素を総合的に判断して治療方針を決めることが求められている.そしてこのStep 4を補完する概念として,物語と対話を重視するNBM(narrative-based medicine)や,患者と医療者の価値を重視するVBP(value-based practice)などが提唱されている.
これを摂食嚥下障害治療に当てはめて考えてみると,専門家の知識と経験,技術も十分でない状況の中で,少ないエビデンスで診断を行い,患者の価値観が十分に反映されない治療方針の決定がなされていることもあるのではないだろうか.「治せる」「治せない」の考え方も,医療者の視点からだけではなくICFやEBMに基づき,さらにNBMやVBPに十分に配慮することが必要だろう.
日本の現状を見てみると誤嚥性肺炎によって毎日約117人(年間42,746人)が亡くなっている.また食べ物による窒息死は毎日約11.5人(年間4,193人)であり,交通事故死(年間3,718人)より多いという驚くべき状況である(2020年人口動態統計確定数).そこには,
・誤嚥による発熱や誤嚥性肺炎が起こる
・食べさせて窒息させる
・食べられるのに食べさせることができない,食べさせない
─ややもすると,身体状況が悪化してADLやQOLを著しく低下させたり,死の危険にさらされてしまったり,患者や家族の立場から見れば虐待ともとられかねない,本来とは真逆な状況が生まれる可能性すらある医療現場が存在するかもしれない.近年は摂食嚥下障害における倫理の問題も議論されるようになった.
摂食嚥下障害の治療は比較的新しい分野であり,対応できる医療者が少なく,世界的に見ても治療に関するガイドラインもない.臨床現場では少ないエビデンスに基づき手探りで治療にあたっているというのが現状であろう.背景,複合疾患もさまざまであり,原因も対応も複雑化した摂食嚥下障害に対し,
・どこを治せて,どう治すのか?
・どこが治せなくて,どう対応したらよいのか?
・今後どのように悪くなっていき,そのとき何をするべきなのか?
─このような視点から摂食嚥下障害を見つめ直し,すべてを治せるわけではなくても,治せないことに医療者はどう立ち向かっていくのか─「まだできることがあるはずだ!」という医療者を応援したい.またこれらの状況を医療者側だけでなく,できるだけ患者・家族にも理解を深めてもらうことが必要であろう.
本書が臨床現場での一助となることを願ってやまない.
2022年9月
編集委員(順不同)
藤本篤士(代表) 野原幹司 小山珠美 金沢英哲 武井典子
Preface
Part 1 どこまで「治せる」? 「治せない」摂食嚥下障害に何ができる?―いま臨床現場で起こっていること,そしてこれからは?
(藤本篤士,野原幹司,小山珠美,金沢英哲,武井典子)
Intruduction 「食べさせる」「食べさせない」の視点を考える―本書の企画にあたって
Problem 1 本当に「もう口から食べられない」のか?―摂食嚥下障害患者における非経口摂取選択の多発をめぐって
Problem 2 重度摂食嚥下障害患者に対する「誤嚥防止手術」という選択―最後の砦として熟慮が必要な手術適応
Problem 3 患者をトータルでとらえているか―最もよく行われている間接訓練について考える
More Problems 摂食嚥下障害の医療・ケア現場におけるさまざまな課題―「治せる」人に食べさせていない現状の解決に向けて
Part 2 さまざまな臨床症状と対応
I 食事へのアプローチを進めていくための前提条件
I-1 患者の医学的な位置づけの理解─心身の医学的視点から(金沢英哲)
I-2 口腔環境(武井典子,藤本篤士)
I-3 姿勢(椅子,車椅子,ベッド)(竹市美加)
I-4 食事介助技術(金 志純,小山珠美)
I-5 食物形態(佐藤作喜子)
II 症状・病態とアプローチ
II-1 覚醒が不良(低下)(金沢英哲)
II-2 食べたがらない(剱持君代)
II-3 むせる(野原幹司)
II-4 薬をたくさん服用している─摂食嚥下の機能的視点から(金沢英哲)
II-5 食べるとすぐ発熱する(前田圭介)
II-6 食べると肺炎を繰り返す(高畠英昭)
II-7 食べると呼吸が乱れる(井上登太)
II-8 食べると胃腸の調子が悪い(金谷潤子)
II-9 口腔乾燥がなかなか改善しない(大野友久)
II-10 噛まない・噛めない(佐々生康宏)
II-11 食塊形成できない(深津ひかり)
II-12 なかなか飲み込まない 1.咀嚼の視点から(藤本篤士)
II-13 なかなか飲み込まない 2.認知症と神経変性疾患の視点から(若杉葉子)
II-14 食物が口に残る(一瀬浩隆)
II-15 義歯を装着してくれない(藤本篤士)
II-16 口腔癌術後で食べにくい(中島純子)
II-17 食事に時間がかかる(金子信子)
II-18 食べこぼしが多い(小谷泰子)
II-19 姿勢が安定しない(不良姿勢)(北出貴則)
II-20 食事動作(捕食)がうまくできない(鈴木祐花子,榊原智佳子,北出知也)
II-21 十分な栄養が摂れない(橋瑞保)
II-22 嚥下に関する手術について(金沢英哲)
Part 3 事例紹介
1 「もう食べられない」と言われたが,食べられるようになった90歳代の症例(小山珠美)
2 手術により摂食嚥下障害を治せた症例(金沢英哲)
3 手術適応とならず対症療法により対応した症例(金沢英哲)
4 発熱により施設から病院への入退院を繰り返した90歳代の症例(小山珠美)
5 間接訓練である程度までは治ったが,それだけでは食べられず投薬変更によって食べられるようになった症例(野原幹司)
6 食べたい願いに寄り添い看取りを行った症例(竹市美加)
COLUMN
1 多職種カンファレンスによる意思決定支援(岡本圭史)
2 患者家族の思い─(1) 経口摂取ゼロを限りなくゼロに近づけるための支援(山下ゆかり)
3 患者家族の思い─(2) 在宅で食べるアプローチを困難にしているもの(榎本淳子)
4 とろみの功罪(金沢英哲)
5 いいじゃん,それで(野原幹司)
6 なかなか歯科には頼めない?(武井典子,吉田直美)
7 多職種連携の一員となる歯科衛生士の卒前教育について(吉田直美)
8 臨床倫理とそのジレンマの“気づき”(金沢英哲)
Index
Part 1 どこまで「治せる」? 「治せない」摂食嚥下障害に何ができる?―いま臨床現場で起こっていること,そしてこれからは?
(藤本篤士,野原幹司,小山珠美,金沢英哲,武井典子)
Intruduction 「食べさせる」「食べさせない」の視点を考える―本書の企画にあたって
Problem 1 本当に「もう口から食べられない」のか?―摂食嚥下障害患者における非経口摂取選択の多発をめぐって
Problem 2 重度摂食嚥下障害患者に対する「誤嚥防止手術」という選択―最後の砦として熟慮が必要な手術適応
Problem 3 患者をトータルでとらえているか―最もよく行われている間接訓練について考える
More Problems 摂食嚥下障害の医療・ケア現場におけるさまざまな課題―「治せる」人に食べさせていない現状の解決に向けて
Part 2 さまざまな臨床症状と対応
I 食事へのアプローチを進めていくための前提条件
I-1 患者の医学的な位置づけの理解─心身の医学的視点から(金沢英哲)
I-2 口腔環境(武井典子,藤本篤士)
I-3 姿勢(椅子,車椅子,ベッド)(竹市美加)
I-4 食事介助技術(金 志純,小山珠美)
I-5 食物形態(佐藤作喜子)
II 症状・病態とアプローチ
II-1 覚醒が不良(低下)(金沢英哲)
II-2 食べたがらない(剱持君代)
II-3 むせる(野原幹司)
II-4 薬をたくさん服用している─摂食嚥下の機能的視点から(金沢英哲)
II-5 食べるとすぐ発熱する(前田圭介)
II-6 食べると肺炎を繰り返す(高畠英昭)
II-7 食べると呼吸が乱れる(井上登太)
II-8 食べると胃腸の調子が悪い(金谷潤子)
II-9 口腔乾燥がなかなか改善しない(大野友久)
II-10 噛まない・噛めない(佐々生康宏)
II-11 食塊形成できない(深津ひかり)
II-12 なかなか飲み込まない 1.咀嚼の視点から(藤本篤士)
II-13 なかなか飲み込まない 2.認知症と神経変性疾患の視点から(若杉葉子)
II-14 食物が口に残る(一瀬浩隆)
II-15 義歯を装着してくれない(藤本篤士)
II-16 口腔癌術後で食べにくい(中島純子)
II-17 食事に時間がかかる(金子信子)
II-18 食べこぼしが多い(小谷泰子)
II-19 姿勢が安定しない(不良姿勢)(北出貴則)
II-20 食事動作(捕食)がうまくできない(鈴木祐花子,榊原智佳子,北出知也)
II-21 十分な栄養が摂れない(橋瑞保)
II-22 嚥下に関する手術について(金沢英哲)
Part 3 事例紹介
1 「もう食べられない」と言われたが,食べられるようになった90歳代の症例(小山珠美)
2 手術により摂食嚥下障害を治せた症例(金沢英哲)
3 手術適応とならず対症療法により対応した症例(金沢英哲)
4 発熱により施設から病院への入退院を繰り返した90歳代の症例(小山珠美)
5 間接訓練である程度までは治ったが,それだけでは食べられず投薬変更によって食べられるようになった症例(野原幹司)
6 食べたい願いに寄り添い看取りを行った症例(竹市美加)
COLUMN
1 多職種カンファレンスによる意思決定支援(岡本圭史)
2 患者家族の思い─(1) 経口摂取ゼロを限りなくゼロに近づけるための支援(山下ゆかり)
3 患者家族の思い─(2) 在宅で食べるアプローチを困難にしているもの(榎本淳子)
4 とろみの功罪(金沢英哲)
5 いいじゃん,それで(野原幹司)
6 なかなか歯科には頼めない?(武井典子,吉田直美)
7 多職種連携の一員となる歯科衛生士の卒前教育について(吉田直美)
8 臨床倫理とそのジレンマの“気づき”(金沢英哲)
Index