やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに
 この書籍は,歯科クリニック運営を成功に導く黄金の法則を記述したものではありません.独立開業に必要なクリニック設計・開業場所・資金調達方法・ホームページ活用法・集患などは,ほかに良書がありますので,ぜひそちらをご購読ください.あくまでプロの歯科医師として,どのような経験を積み,後悔し,試行錯誤してきたのか,そして今後どのように年齢を重ねていったら自分が後悔せずにすむのか,という内容になっています.私はいま,全力で歯科を楽しめています.もし生まれ変わったとしても,歯科医療に就きたいと心から思っています.その想いに共感していただけるようであれば,温かく優しい気持ちでこの書籍を読み進めていただければうれしく思います.
 本書の展開として,まずは私自身が歯科クリニックの院長として,「スタッフ,主に勤務医(代診)とどのように向き合うのか」というテーマから始めていくことにしましょう.
 先ほども触れましたが,世のなかには多くの書籍やセミナーが存在しています.その多くは,開業・経営・集患・スタッフ教育・治療技法など,いわゆる「仕事の仕方」を示してくれています.そしてほとんどの院長先生も,勤務医を迎えるとすぐに「仕事の仕方」を教えようとするのではないでしょうか.仕事を早くできるようになってほしいのですから,当然のことだと思います.早く仕事ができるようになって売上をあげてほしいというのは,経営者としては当然の考えです.「一年目は赤字,二年目でトントン,三年目から元を取る」といった表現も耳にしたことがあります.
 自らが歩んできた時代を振り返ってみますと,「技術は盗むもの」と考えるのが一般的でした.職人の世界ではありがちなことですが,「歯の削り方? 抜髄の仕方? 保険請求? そんなことは自分の目で見て肌で感じて覚えなさい」というのが当たり前の時代でした.ところが,その感覚はかなり変わってきているように思います.むしろ,昨今の若い歯科医師は,「向き合って教えてもらうこと」を就職の第一条件としています.実際,求人に応募して来られた先生との面接の際,「勉強を教えてくれるところを探しています!」というコメントがあまりにも多いのです.つまり,勤務医はまずは歯科治療がうまくなることを強く希望します.それは至極当然で,むしろ良いことです.多くの場合,院長先生はそれに応えるために「仕事の仕方」を教え始めます.そして勤務医も「仕事の仕方」を積極的に覚えます.
 しかし,それではあまりうまくいかないこともわかってきました.なぜ,「仕事の仕方」を最初に教えてはうまくいかないのか,まずはその理由から考えてみることにしましょう.
 昨今では,多くの地域で歯科医院が乱立しています.そして,すべての歯科クリニックが例外なくそれぞれの理念・哲学や歩んできた歴史をもっています.真面目に臨床に向き合って,患者さんが増え,勤務医の採用を検討し始めます.ところが,真面目に勤務医のことを考えようとする院長ほど,勤務医との間にわかりあえない「溝」があることに気づき,新たな採用を諦めてしまいます.
 そして,「何年もかけて苦労して築き上げた自分と患者さんとの関係性を,勤務医やスタッフの言動によって崩されたくない」というのが,創設者としての本音だと気づきます.「自分の考えを理解してくれない勤務医とは仕事をしたくない!」という気持ちも,そこから生まれてしまいます.
 この「溝」は単純に,開業医か勤務医かという立場の違いから生まれるものだと私は思います.そもそも採用時の両者の目的は違っていますので,この「溝」は,短時間で簡単に埋まることはありません.院長が十数年,もしくはそれ以上かけて築き上げた実践智を,わずか数カ月や数年で習得することは通常不可能です.まずは,院長の本音が,あくまでも創設者としてのものであることを素直に認めなくてはなりません.同時に,勤務医との「溝」があることについて,勤務医には罪がないことも知っておきましょう.なぜなら勤務医は,純粋に「仕事の仕方」,すなわち歯科治療がうまくなることを希望しているだけだからです.
 しかし,残念ながら,いったん「仕事の仕方」を勉強し始めると,この先もずっと「仕事の仕方」を追求していく傾向が強くなります.なぜなら,その追求によって知的好奇心が満たされ,自分の治療がうまくなってきていると実感できるからです.そうなると,最も大切な「歯科医師としての在りかた」を考えるという機会を失う傾向が強くなり,患者ではなく,治療内容だけを追求するようになってしまいます.そうなると,院長と勤務医との間にある「溝」は深まる一方になります.
 ある時期,それに気づいた私は,二つのマインド・セット(考え方の変換)をすることにしました.
 一つめは,「師弟関係というのは,弟子が師匠を超えること」が大前提だと考えるようにしました.「私が歯科医師になってから時間と労力をかけて学んだことを,勤務医に的確に伝えよう.そして,勤務医が一人の歯科医師として,同時に一人の「人」として当院で成長し,可能な限り早く,多くの患者を幸せにできる歯科医師になってもらおう」という想いをもつことにしたのです.
 二つめは,「人生をかけて開業した院長の本音を,順を追って論理的に勤務医に伝えていこう」と決めました.勤務医の多くは,いずれは開業を目指します.ともすれば,一部の恵まれた環境の先生を除いて,ほとんどの先生が多額の借金をして開業することになるでしょう.開業も歯科医院経営も,厳しい時代と言われて久しいです.そして,ひとたび開業したら,雇用しているスタッフ全員の生活を守る必要が出てきます.自らの命をかけて,歯科医院を運営していくことになるわけです.そこで初めて,勤務医時代とは違う大きな気持ちの変化が生まれてきます.「開業こそ一番の勉強.開業しなければわからない」といわれる理由がここにあるのではないかと思います.
 「歯科医師としての在りかた」とは,歯科医師としての基本になるところで,歯科医師である前に一人の「人」として患者さんに認めてもらうための基礎になります.人格が主に幼少期に決まってしまうのと同じで,勤務医という歯科医師としての幼少期に,「歯科医師としての在りかた」を考える時期がとても重要だと私は考えています.「人生の必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」(河出文庫)という有名な書籍があります.著者はロバート・フルガム牧師ですが,まさに勤務医時代というのは,この幼稚園と同じ時期と考えていいのではないでしょうか?
 人間,どう生きるか,
 どのようにふるまい,どんな気持ちで日々送ればいいか,
 本当に知っていなくてはならないことを,私は全部残らず幼稚園で教わった.
 人生の知恵は大学院という山のてっぺんにあるのではなく,
 日曜学校の砂場に埋まっていたのである.
 わたしはそこで何を学んだろうか.
  何でもみんなで分け合うこと.
  ずるをしないこと.
  人をぶたないこと.
  使ったものはかならずもとのところに戻すこと.
  ちらかしたら自分で後片づけをすること.
  人のものに手を出さないこと.
  誰かを傷つけたら,ごめんなさい,ということ.
  食事の前には手を洗うこと.
  トイレに行ったらちゃんと水を流すこと.
  釣り合いの取れた生活をすること.
  毎日,少し勉強し,少し考え,少し絵を描き,
  歌い,踊り,遊び,そして,少し働くこと.
  毎日かならず昼寝をすること.
  おもてに出るときは車に気をつけ,手をつないで,はなればなれにならないようにすること
  不思議だな,と思う気持ちを大切にすること.
 どんな砂場(歯科医院)で誰(院長)と学ぶのか?が,これからの歯科医師人生を決定するといっても過言ではないのです.
 自ら診療できる患者数には限界があります.つまり,「歯科医師としての在りかた」と,技術「仕事の仕方」を同時に教育指導することによって,最適な治療を享受できる患者さんを増やしていくことが可能になります.それこそが,一人の歯科医師ができうる社会貢献の形なのだと私自身が理解できるようになったのです.
 では,どのように勤務医の先生に「歯科医師としての在りかた」を伝えていくのかについて,話を進めていくことにしましょう.
はじめに
すべては患者さんから学んだ(1) 患者さんたちが歯科医院に求めるものとは
すべては患者さんから学んだ(2) 歯科医院に「人」を求めてくる患者さん
センスは知識の集積である(前編)
主役は歯科医師
  コラム 著者自己紹介(1)幼少期から歯学部入学まで
日比谷歯科医院で働くときのルール
  コラム 著者自己紹介(2)歯学部入学〜開業(師との出会い)
日比谷歯科医院 クレド85箇条
 01 ミラーを絶対に歯に当てない
 02 エアーのかけ方だけで印象が変わる
 03 グローブの着脱
 04 痛かったら左手を…
 05 物を落としたら
 06 グローブでむやみに触らない
 07 治療前後はマスクを外して
 08 些細なことでも声かけを
 09 適度な実況中継
 10 可視化して説明を
 11 装着前後は目で確認
 12 失敗としない
 13 インシデント・アクシデントへの対応
 14 むやみに患者さんにたずねない
 15 すべてにおいてHOWの前にWHY
 16 診断(病態→予備→確定→設計→予測)
 17 患者さんにとって大切なものを知る
 18 不慣れは禁忌
 19 抜歯が善のときもある
 20 予後不安な歯の「ほしょう」と管理
 21 理由をすべて事前に伝える
 22 コミュニケーション・シート
  コラム 歯科の将来は本当に厳しいのか?
 23 患者プロファイリング
 24 患者さんの社会的背景を知る
 25 5つの「みる」
 26 伝える力とプレゼンス
 27 きく(聞く・聴く・訊く)力
 28 あなた<わたし
 29 情熱と想いを伝える
 30 言葉に心があるか
 31 NGワード
 32 わからないときこそ言い切る
 33 ネーム・コーリング
 34 グッドニュース
 35 問診はコーチング
 36 患者さんとの位置関係
 37 表情を読む
 38 資料はLiveを
 39 オーダーメイドの医療
 40 「入れ歯」「歯周病」などの声の大きさに注意
 41 セカンドオピニオンを紹介する
  コラム セカンドオピニオン
 42 治療内容を理解してもらう
 43 治療費の事前説明
  コラム 歯科治療の費用に対するイメージ
 44 「交渉学」の知識を使う
 45 感情のタイミングを読む
 46 隙をつくるための「共通の会話」
  コラム 仮封は誰の仕事?
 47 所作にも配慮を(動き,歩き方,足音)
 48 背中で語る
 49 常に患者さんにみられている
  コラム プロフェッショナルの容姿
 50 患者さんから離れるとき
 51 メインテナンス患者への対応
 52 すべての治療は非日常
 53 つとめて患者さんと同じ視点をもつ
 54 患者さんの貴重な時間に配慮する
 55 外科処置後の心配り
 56 歯科医院の選択基準
 57 「過程」も大事
 58 「えこひいき」という戦略
 59 2回目の壁
 60 スタッフの言うことを素直に聞く
 61 よいチームの証
 62 スタッフを信頼し評価する
 63 アシスタントのアシストをする
 64 カルテは詳しくきれいに
 65 学ぶことに休みはない
 66 コストを知る
 67 疑似院長体験
  コラム 勤務か開業か? 開業したら稼げるのか?
 68 歯科以外の考えを取り入れる
 69 歯科医師の常識≠患者の常識
 70 患者さんの意識ステージを分類する
 71 言葉が与えるイメージ
 72 人間関係=人柄×接触回数(時間)
 73 理論なき実践は暴力,実践なき理論は無力
 74 プロフェッション
 75 歯科技工士との関係
 76 師と仲間の重要性
 77 できないことはかまわない.知らないふりは罪である
 78 術後の不確実性を理解する
 79 理想の歯科医師像をイメージする
 80 人は求めたモノしか手に入らない
 81 外発的動機づけ<内発的動機づけ
 82 情報リテラシー
 83 常に疑問
 84 カラーバス効果
 85 72時間の壁
センスは知識の集積である(後編)
  コラム センスについての例え話
日比谷歯科医院の歴史(1) 開業〜2年目:苦悩の日々(2005〜2007年)
日比谷歯科医院の歴史(2) 3〜4年目:2つめの出会い(2008〜2009年)
日比谷歯科医院の歴史(3) 5〜8年目:3つめの出会い(2010〜2013年)
日比谷歯科医院の歴史(4) 9年目〜現在:4つめの出会い(2014年〜)
おわりに

 監修を終えて(井基普)