やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

●はじめに
 医療の安全性に対する社会の関心は非常に高く,医療事故の公開,報告は時代の趨勢となりつつあります.すでに平成16年10月からは医療法の施行規則の一部改正が行われ,致命的あるいは重大な後遺症を生じた医療事故については報告が義務づけられました.また,改正によって医療事故の概念は,従来の過失あるいは過誤によって生じた事象の範疇にとどまらず,医療行為に関連した健康障害も含むとされ,その定義が非常に広いものとなりました.こうした医療事故概念の変更は国際的な学術標準にあわせたものですが,予測が可能なもの,不可能なものを問わず,手術や治療で起こった合併症までも医療事故のなかに含まれ,報告義務が生じることになります.従来の考え方によれば,医療者側のミスによって生じた事象だけが医療事故と考えられてきましたが,この考えは医療事故概念の国際標準化によって変えていかなければならなくなりました.一言で言えば,この改正はわが国の医療人に対して早急な意識改革と対応を迫るものといえるでしょう.
 近年まで歯科における安全管理に対する関心は,医科に比べれば致命的な事故の発生率が少ないことから決して高くはありませんでした.現在では各歯科大学・歯学部の病院に安全管理を司る部署が設けられてはおりますが,一般の歯科医院を含めた歯科界全体としては,その対策は緒についたばかりで,実際にはさまざまなインシデント(救急車で運ばれるような事例も含めて)が無数に起こっております.インシデントのなかでもヒヤリ・ハット(ニアミス)の多発は重大な事故の前兆といってもよく,早急な安全管理体制の整備,充実が求められているといえます.
 また,歯科での卒後臨床研修の必修化に伴い,研修時の医療事故の発生をいかに防止するか,歯科医療の安全管理をいかに図るかは,重大な課題であり,卒後研修を行う施設では規模の大小を問わず,安全管理体制を整備しなければなりません.加えて,歯科医療の安全管理については本来,卒前の教育できちんと学んでおく必要があります.しかしながら,今日まで歯科医療の安全管理に関する卒前,卒後の教育はほとんどなされてこなかったのが実情であります.今後は歯科医療に必要な知識と技術の習得と同時に,安全管理に関する知識・技能を身につけなければなりません.それには書物によって基礎知識を学び,日常の臨床に生かしていくことが一番の近道であるわけですが,医療安全の成書は医科版が多く,歯科医療の安全管理に関する成書は少ないのが現状です.したがいまして,歯科の臨床現場にも応用しにくい点や,内容が学術的な面に傾きがちで読みにくいといった点も見受けられました.そこで,歯科での安全管理をできるだけわかりやすく,日頃の歯科臨床で起きやすい事象とその原因分析と対処法についてわかりやすく記述した書籍の企画を思い立ったわけでございます.
 第1編の総論では,医療安全を学ぶうえで理解しておかなければならない事項を7章にわけてまとめました.第1章では,医療安全に関連した用語について解説してありますが,本書では平成17年3月にまとまりました最新の定義に準じております.また,他の章についても前述いたしました平成16年10月からの医療法の一部改正などを反映させた記述に努めました.
 第2編は,日常の歯科医療で発生しているインシデントのなかから,発生の頻度が多いものや発生した場合の影響の大きいものなどを想定事例としてあげて,どのような場合にヒヤリ・ハット(ニアミス)や有害事象(アクシデント)が起こるのかをわかりやすくまとめました.また,想定事例とあわせて,原因分析と再発防止策も記載し,日常の診療に役立つよう配慮いたしました.
 歯科医療における安全管理は,先にも述べましたように始まったばかりであり,常に安全な医療の提供を心がけて日夜向上に努めていかねばなりません.本書が日常歯科臨床の事故防止に役立ち,歯科医療の安全管理の一助になればと願っております.
 最後に,本書編集にあたってお忙しいなかご執筆いただきました先生方ならびに本書企画時に安全管理についてのアンケートにご回答いただきました各大学の先生方にこの場をかりてお礼申し上げたく存じます.
 平成17年6月
 海野雅浩
 小谷順一郎
 渋井尚武
 森崎市治郎
第1編 基礎から学ぶ安全管理
 第1章 医療事故とは
  1.医療事故の概念―――――――――――――――海野雅浩・一戸達也
   わが国における医療事故の考え方
   用語の定義
   インシデント
   有害事象
   ヒヤリ・ハット
   医療過誤と医事紛争
  2.医療事故の原因―――――――――――――――――――――海野雅浩
 第2章 医療安全対策とは
  1.歯科での医療事故の現状――――――――――興地隆史・一戸達也
   医療事故の生じる背景
   歯科医療の特異性
   インシデントの代表的な事例
  2.安全で質の高い歯科医療―――――――――――――――――興地隆史
   個人から組織へ
   情報の共有
   人はエラーを犯すもの
 第3章 事故ゼロへの取り組み……森崎市治郎
  1.リスクマネジメントとリスクマネジャー
   リスクマネジメント
   リスクマネジャー
  2.意識改革―責任追及から原因追求へ
  3.システムアプローチ
   医療安全管理のシステムづくり
   医療安全の監視体制
   医療安全のための職員研修
  4.医療事故防止マニュアル
  5.インシデントの報告制度
   院内での報告制度
   院外への報告制度
 第4章 事故発生時・事故発生後の対応……小谷順一郎
  1.危険の回避
   リスクの回避
   リスクの軽減
  2.救急処置・蘇生
   状況の把握と対処
   プライマリーABCDサーベイとセカンダリーABCDサーベイ
  3.報告ルート
   院内の報告ルート
   院外への報告ルート
  4.事故発生後の対応
   基本姿勢
   医療事故発生時になすべきこと
 第5章 感染事故防止ガイドライン……祇園白信仁・伊藤公一
  1.院内感染とは
  2.院内感染管理の基本
  3.外来院内感染で注意すべき疾患
   ウイルス肝炎
   HIV感染症
  4.感染対策の実践
   手洗い
   手袋の着用
   マスクの着用
   ガウンあるいはプラスチックエプロンの着用
   滅菌と消毒
 第6章 インフォームドコンセント・接遇……渋井尚武
  1.インフォームドコンセント
   定義
   インフォームドコンセントの重要性
   個人の判断能力
   説明書と同意書
  2.患者中心の医療
   情報の開示
   情報開示のあり方
   医師・歯科医師の債務
  3.接遇
   接遇の基本
   接遇のチェック項目
   医療面接時の対応
 第7章 研修医制度と安全対策
  1.卒前の教育―――――――――――――――――――――――黒ア紀正
   歯学教育モデル・コア・カリキュラム
   共用試験
  2.卒後の教育―――――――――――――――――――――――住友雅人
   医療安全のための体制
第2編 事例で学ぶ安全対策
 第1章 外来治療
  1.誤飲・誤嚥―――――――――――――――――――――――三輪全三
   メタルインレーの誤飲
   バーの誤嚥
   抜去歯の誤飲
  2.部位の間違い――――――――――――――――――――――三輪全三
   抜歯部位の間違い
   治療部位の間違い
  3.軟組織の損傷――――――――――――――――――――――森崎市治郎
   ダイヤモンドポイントによる窩洞形成中の損傷
   加熱したプラガーによる熱傷
   エレベータによる口峡部の粘膜の損傷
   プライマーによる上唇粘膜の白変と剥脱
  4.装置や器具の破損――――――――――――――――――――森崎市治郎
   歯周ポケット掻爬時のキュレットの破折
   矯正装置の破断
   根管治療時におけるファイルの破折
   コントラアングルハンドピースの口腔内落下
  5.取り残し――――――――――――――――――――――――菅谷 彰
   抜歯窩での綿球の取り残し
   縫合糸の取り残し
  6.迷入―――――――――――――――――――――――――菅谷 彰
   手用スケーラーの破損・迷入
   リーマー,ファイルの根管外への迷入
   印象材の迷入
   歯の迷入
   縫合針の迷入
  7.誤薬―――――――――――――――――――――――――菅谷 彰
   処方の誤り
   消毒時における薬剤濃度の誤り
  8.局所麻酔による偶発症――――――――――――――――――菅谷 彰
   注射針による刺傷
   浸潤麻酔後の咬傷
   浸潤麻酔による神経損傷
  9.鎮静法による偶発症―――――――――――――――――――小谷順一郎
   鎮静法時の上気道閉塞
   笑気吸入鎮静時の過換気発作
   静脈内鎮静法後の自転車事故
  10.全身状態悪化――――――――――――――――――――――小谷順一郎
   局所麻酔によるアナフィラキシーショック
   抜歯後の感染性心内膜炎
  11.患者対応(介助)―――――――――――――――――――――渋井尚武
   不適切な抑制具の使用
   恐怖体験による精神的外傷
   ドクターハラスメント
  12.歯科材料の取り扱い――――――――――――――――――渋井尚武
   充填材の色調の違い
   合着材の味や臭い
   印象材の硬化遅延
   石膏への気泡の混入
   義歯材料の硬化時間の誤判断
   インプラント適用の誤り
   根管充填材の選択ミス
   ブラケット撤去時の破折
  13.衣服の汚染・損傷―――――――――――――北川 昇・川和忠治
   歯垢染色剤による衣服の汚染
   消毒剤による衣服の汚染・損傷
   印象材による衣服の汚染
   ワックスによる衣服の汚染
  14.機器の誤操作―――――――――――――――北川 昇・川和忠治
   光照射器の照射時間不足
   タービンヘッドの点検不備
  15.レーザー治療―――――――――――――――北川 昇・川和忠治
   防護用眼鏡の未装着
   レーザーの誤照射
  16.技工物――――――――――――――――――北川 昇・川和忠治
   作業用模型の血液付着
   作業用模型の破折
   指示書の確認ミス
 第2章 薬剤……土屋文人
  1.誤処方
   オーダリングシステムでの医薬品誤選択
   剤形の指定し忘れによる剤形違い
   同一ブランド名での記号違い
   医薬品の濃度と含有量
  2.誤調剤
   規格違いの誤調剤
   同種薬の誤調剤
   注射剤の溶解液
  3.持参薬
   持参した薬と服用の有無
   持参薬と薬袋
  4.保管・管理,医薬品情報
   医薬品保管の温度規定と投与忘れ
   添付文書の改訂
 第3章 手術・麻酔……深山治久
  1.患者誤認
   患者さんの取り違い
  2.体位
   布鉗子による外傷
  3.全身麻酔
   二酸化炭素吸収剤の充填忘れ
  4.器材・器具の取り残し,破損
   鉗子の破折
   ガーゼの取り残し
   ドライバーの破折
  5.輸血・輸液
   輸血パックの取り違え
   輸液回路のはずれ
   輸液のつなぎ間違い
 第4章 検査・放射線……井上 孝・才藤純一
  1.血液検査
   尖端恐怖症患者への対応
   血液による衣服の汚染
   点滴している腕での採血
  2.生理検査
   12誘導心電図検査時の電極間違い
   運動負荷心電図検査中の転倒
  3.病理検体
   病理検体の取り違え
  4.エックス線検査
   口頭指示にての撮影部位の間違い
   造影剤によるアナフィラキシーショック
   恐怖によるMRI撮影の中断
 第5章 病棟……夏目長門・野口俊英
  1.転倒・転落
   車いす移乗時の転倒
   廊下での転倒
   術後せん妄によるベッドからの転落
   小児病室での転倒
  2.病院食
   異物混入
   食中毒
   禁食・禁水の不徹底
 第6章 感染事故……祇園白信仁・伊藤公一
  1.針刺し事故
   後片づけ時の針刺し事故
  2.MRSA感染事故
   MRSA感染患者処置時の血液曝露
  3.肝炎ウイルス感染事故
   B型肝炎患者処置時の血液曝露
 第7章 病院管理ほか……馬場一美・稲田 穣・宮本智行
  1.接遇
   初診患者への配慮不足
   診療中の私語に対する不快感
  2.書類管理
   カルテ搬送の間違い
   会計の遅延
  3.守秘義務
   もめごと後の連絡先開示要求
  4.その他
   いわれのないクレーム・脅迫

・コラム
 歯科病院におけるインシデントの内容……三輪全三
 個人情報保護と情報の漏洩防止……渋井尚武
 誤飲と誤嚥……三輪全三
 不良製品の破損……森崎市治郎
 笑気吸入鎮静器におけるフールプルーフ……稲田 穣
 患者さんを傷つける言葉・態度……渋井尚武
 飛行機事故と医療事故……海野雅浩
 最高裁判決と添付文書……土屋文人
 クリニカルパス……小谷順一郎
 米国におけるリスクマネジメント……三輪全三
 医事紛争……稲田 穣
 事故報告のIT化……森崎市治郎
 患者取り違え事故……稲田 穣
 SHEL,4M-4E,トライポッド理論……森崎市治郎

・参考文献・参考サイト
・索引