やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに

 生身の人間を対象とする医療という職業においては,何が正しくて何が間違いかはっきり断定できない局面に遭遇することがある.また,矛盾に満ちた選択をせまられることも少なくない.答えは必ず1つではないかもしれないし,求める答えがない場合さえあるかもしれない.たとえそんな難しい問いや選択でなくとも,私たちは毎日のように仕事のうえで様々の問いに答えたり,選択する必要にせまられることが多い.そのようなとき,何を基準に答えを探すかと問われれば「医の倫理」と言うほかはないであろう.「医の倫理」は,人間の尊厳や生死の問題を語るときだけに用いる言葉ではない.私たちが歯科といえども医療の枠組みの中で生きてゆく以上,いつの場合も私たちの選択の基準や価値の判断基準や行動は「医の倫理」によって規範されているのだと考えなくてはならない.実際のところ,今の歯科医療界に真正面から「医の倫理」をもち出しては,少々気恥ずかしい気持ちもするし,ダサイと失笑を買いそうな気がする.しかしながら,やはり私たちの規範が「医の倫理」であることは動かしがたい.そして歯科医療の置かれている立場が複雑であればあるほど,そして問題解決の糸口をどうにかしてみつけようとするならば,やはり私たちは「医の倫理」にこだわりつづける必要があるのではないかと考える.
 私たちのような一般開業医が,自分の良心に背くことなく患者の利益となる歯科医療を展開するために,多くの情報を取捨選択し,整理するだけでも気の遠くなるような作業である.本書がどこまでそうした要望に答えられるのか,多少の逡巡の思いはあるのだが,私たちがこれまで見聞きし,経験したことをべ一スに「医の倫理」を縦糸に,「科学と診断」を横糸にして一般開業医が知りうべき事柄とその理論的背景,そしてこれから目指す歯科医療の方向性と実践について,主に「う蝕」をとおして語りたい.
 これまで読者の皆さんは歯科医療の常識とされていることや,自分自身の日常臨床に一度でも疑問をもったことがあるだろうか.自分が行った医療行為が本当に患者の利益となり得たのか真剣に考えたことがあるだろうか.もちろん,このようなことを毎度,毎度考え込んでいては身がもたない.しかし,私たち医療人には常にこの姿勢は大切なのである.
 科学の進歩は常識を非常識に変えてしまう力をもち,価値観を一瞬のうちに変えてしまう力をもっている.このため,私たちは常に自分自身の行動や選択において「これでよいのか」という疑問や問いかけをもつ必要があり,たえずそうした疑問や問いかけの答えを探す努力を惜しんではならないのだと思う.
 本書は,現在の歯科医療システムを堅持したいと願っている方には実際のところあまり役に立つ本ではないだろう.しかし,多くの人々にとって真に利益ある医療を行うという姿勢をもって歯科医療に取り組もうと考えるのであれば,そのような方々にとって何らかの示唆を与えることができるかもしれない.多少の困難は避けて通れないであろうが,安易な道の先に喜びはみつけられないだろう.さらに,もう少し踏み込んで言及するならば,科学的姿勢をもたず旧態然とした修復処置のみに目を奪われている歯科医師は,近い将来多くの患者に見捨てられることを覚悟しなければならないと私たちは考えている.
 現在の日本の歯科医療は大きな過渡期を迎えている.そしてその変革の波は,おそらく歯科界内部から起こるというより,その外側から津波のように大きくなった波が,歯科界を飲み込んでしまうような変革の仕方をするのではないかと危倶している.
 う蝕は予防でき,初期であれば自然治癒可能な疾患である.修復処置によっては治癒しないということを私たちは心に刻んで日々の臨床に取り組む姿勢を明確にしなければならない.
 熊谷 崇

 過去数十年にわたって歯科の専門家が直面してきた大きな問題は,う蝕の病因とその予防であった.工業化された国々のほとんどにおいて,以前はう蝕の罹患率は非常に高く,事実上すべての人が少なくともある程度はう蝕に罹患していた.しかしながら,破壊された歯質を充填材で置き換えただけでは,新しいう蝕が生じるリスクが高いため,真の改善は決して得られるものではないということが,はっきりしてきた.そして,徐々にプラーク,フッ化物,砂糖の役割,唾液など,予防に関する知見が得られるようになり,多くの国々で,総合的な予防プログラムや口腔健康の教育プログラムが実施され,口腔の健康が改善された.しかしながら,それでもある人々は高いう蝕活動性を示した.そこで個人のう蝕のリスクを予測するためのさらに高度なプログラムの必要性が認識されるようになった.このような研究が強化され,個人のリスクファクターを分析するいくつかの方法が開発され,専門家が利用できるようになった.これが先進諸国におけ骰。日の状況である.すなわち,いくつかの臨床的な闥iや方法が利用可能である,しかし「最も有効にこれらを使用する方法は?」「データの評価の仕方は?」「どのような予防的行動をとるべきか?」などの重要な疑問が残されている.しかし歯科疾患の多因子性のために,これらの疑問に,いつもはっきりと答えることは必ずしも容易ではない.
 このような背景を考えたとき,此度熊谷崇先生が著した“C1inicalCariology'’は素晴らしい業績である.この本は日本や他の多くの国々にとってまさにふさわしい時期に出版されると言える.私は熊谷崇先生と数年前に初めてお会いする機会があり,熊谷先生のう蝕疾患の病因に対する理解や解釈の仕方,そしてそのような情報をはっきりとしたメッセージや行動プログラムに変える行動力に深く感銘を受けた.熊谷崇先生の診療室を訪れる機会を得たとき,患者のための医療に対する先生のアプローチが国際的に模範となるべき質の高いものであるということを確信した.そのため,現在熊谷崇先生が彼の仲間と共有している知識を私たちすべてに与え彼の経験から学ぶ機会を提供して下さることは非常に意義深いことだと考える.膨大な臨床データを築き上げ,この重要な本を完成させた時間とその努力に対して,私は熊谷崇先生に心から感謝を申し上げるとともに,この時期にこのような本を出版する出版社の賢明さに敬意を表する.本書が成功を収め,現在および将来の患者が,今日提供できる最も優れた歯科医療を受ける機会を得ることになることを望んでいる.
 Douglas Bratthall
はじめに

1.う蝕の治療とその目標
 1-1 歯科医療の常識を再検討する
 1-2 予防/治療/修復処置
 1-3 診療室の役割一プロセスに対する治療
 1-4 う蝕のプロセスに対する治療で変わる診療室
 1-5 カリエスフリーの永久歯列をつくる
 1-6 う蝕とは揺れ動く流動的なプロセス
 1-7 う蝕治療のターゲット
 1-8 細菌と宿主のエコシステム
 1-9 疾病と口腔内細菌叢の変化
 1-10 病変部のエコシステム
 1-11 家族単位のエコシステムのとらえ方
 1-12 ライフステージとう蝕のリスク
 1-13 う蝕のない小児
 1-14 う蝕のない若年者
 1-15 う蝕のない成人
 1-16 う蝕のない高齢者
 1-17 カリエスフリーの条件

2.見えないカリエスリスク
 2-1 プラークの蓄積とう蝕活動性
 2-2 う蝕の原因菌とその感染
 2-3 う蝕になる部位,ならない部位
 2-4 唾液の役割
 2-5 唾液の分泌
 2-6 唾液の分泌障害
 2-7 薬剤による唾液分泌抑制の問題
 2-8 唾液の緩衝作用とその個体差
 2-9 脱灰と再石灰化のメカニズム
 2-10 再石灰化と縁上・縁下の歯石の形成
 2-11 唾液の流れと部位特異性
 2-12 耳下腺開口部と上顎大臼歯のリスク
 2-13 乳幼児の上顎前歯部唇面のリスク
 2-14 高齢者の歯頸部のリスク
 2-15 歯質とう蝕
 2-16 歯根露出と根面う蝕
 2-17 飲食の頻度
 2-18 家族と食生活
 2-19 家族からわかるリスク
 2-20 家族としてのリスク

3.リスク診断と疾病プロセスの治療
 3-1 リスク診断と治療
 3-2 どのような検査が必要か
 3-3 いつ検査をするか
 3-4 患者自身のリスクを表すレーダーチャート
 3-5 健康ノート-カルテを患者に渡す
 3-6 口腔内規格写真撮影
 3-7 エコシステムとプラークコントロール
 3-8 歯科診療所の役割と患者の役割
 3-9 Mutans streptococciが定着した場合
 3-10 Lactobacilliの改善が意味するもの
 3-11 フッ化物の応用
 3-12 唾液の問題とその改善
 3-13 咀嚼刺激と唾液分泌
 3-14 唾液分泌障害(薬物副作用)の改善
 3-15 慢性腎不全の患者の問題
 3-16 上顎大臼歯のリスク診断
 3-17 根面う蝕の部位特異性
 3-18 初期う蝕の診査における探針使用の問題
 3-19 抗う蝕性甘味料・再石灰化促進食品の利用
 3-20 飲食頻度の改善とダイエットクロック
 3-21 総合的なリスク診断
 3-22 矯正治療に伴うリスクをコントロールする
 3-23 長期的視野に立ったリスクのコントロール

4.カリエスリスクの診査法
 4-1 臨床診査とサリバテストとリスク診断
 4-2 個体の平均的リスクとリスク診断
 4-3 サリバテストの検査手順
 4-4 唾液量・唾液緩衝能検査の手順
 4-5 唾液緩衝能の判定
 4-6 Mutans strptococciと1actobacilli検査の背景
 4-7 Mutans streptococci検査の手順
 4-8 コロニー数の判定
 4-9 Mutans streptococciのコロニー
 4-10 Lactobacilli検査の手順
 4-11 Lactobacil1i検査の判定
 4-12 Lactobaci11iのコロニー
 4-13 カンジダ菌の検査の手順
 4-14 カンジダ菌の検査の判定

5.う蝕の診断と治療
 5-1 初期う蝕の診断と処置
 5-2 リスク診断のない修復の弊害
 5-3 再治療の悪循環
 5-4 家族単位の診療が診断を助ける
 5-5 エナメル質う蝕と脱灰・再石灰化
 5-6 カリエスオブザベーション
 5-7 学校歯科の役割
 5-8 学校歯科におけるC0
 5-9 隣接面う蝕の診断
 5-10 オブザベーションとフッ化物の利用
 5-11 エナメル質の石灰化不全
 5-12 フィッシャーシーラントの適応
 5-13 萌出途中の永久歯に対するシーラント
 5-14 小窩裂溝の診査とシーラントの術式
 5-15 象牙質う蝕治療の考え方
 5-16 裂溝う蝕の処置手順
 5-17 初期象牙質う蝕の処置
 5-18 象牙質う蝕のオブザベーション
 5-19 進行した象牙質う蝕の処置
 5-20 象牙質う蝕に対する抗菌療法

6.歯質を保存し保護する修復方法
 6-1 二次う蝕の原因
 6-2 修復の基本的な考え方
 6-3 窩洞形成の原則の見直し
 6-4 できるだけ歯質を保存するために
 6-5 接着修復の考え方と手順
 6-6 裂溝う蝕のコンポジットレジン充填
 6-7 裂溝コンポジットレジン充填の手順
 6-8 象牙質う蝕のアマルガム充填
 6-9 隣接面う蝕の充填
 6-10 トンネリングの手順(コンポジットレジン)
 6-11 第一大臼歯近心のう窩の充填
 6-12 前歯隣接面コンポジットレジン充填(光重合)
 6-13 歯頸部・前歯隣接面う蝕のレジン充填
 6-14 インレーの適応
 6-15 コンポジットレジン・インレーの手順
 6-16 深い象牙質う蝕のコンポジットレジン充填
 6-17 コンポジットレジン修復関連器具

7.メインテナンスのあり方
 7-1 まず,カリエスリスクを知る
 7-2 ハイリスクの子どものプロセスの治療
 7-3 プロセスの治療と学校歯科保健
 7-4 幼児に対する治療本位の診療がつくる恐怖
 7-5 オブザベーションと修復の時期
 7-6 全身状態とリスクの変化
 7-7 生活環境とリスクの変化
 7-8 家族単位の経過観察と健康管理
 7-9 コンピュータによる患者データの管理
 7-10 診療の評価のためのデータ管理

8.リスク判定の科学的背景(Brathall)
 8-1 う蝕予防において特定の細菌に的を絞る根拠
 8-2 唾液の標本採取一それは何を示すのか?
 8-3 う窩の予知一長期研究
 8-4 う蝕の説明と的を絞った行動のためのモデル
 8-5 う蝕活動性とカリエスリスクを減少させる対策

参考文献
おわりに