やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社



 歯科治療の主題は,今までは,いかに咀嚼させるかに終始してきたといえる.口腔の機能や下顎運動等々は,その目的が常に咀嚼することに向いていた.それゆえ,日常の臨床も,歯牙欠損部には補綴物を装着して咀嚼効率をあげることを求めて,齲蝕の歯はインレーやクラウンで修復し,歯のないところにはブリッジやパーシャルデンチャーを装着することが,なんの戸惑いもなくきわめて当然のこととして行われてきた.欠損部の補綴は,可撤性の義歯から歯根膜により近い,より動かないかたちの補綴へと進んできた.とにかく,歯科医療は,咀嚼するということについては,長い歴史のなかで確実に進歩してきた.
 8020運動は,80歳で20本の自分の歯で噛もうというスローガンである.そのことになんの異論もない.しかし,もしこのスローガンが単なる数合わせのスローガンであるとしたら,いささかの疑問を感じる.歯の数がたくさんあることが健康で幸福であり,歯の数が少ないことが不健康で不幸である,という方程式は必ずしも成り立たず,その人の健康や幸福感は,残された歯の数と必ずしも一致するものではないと考えるからである.もし歯の残り数で健康度や幸福感を決めるところに立てば,歯が抜けることは即悪であり,歯周病は悪の元凶であり,口腔清掃がうまくできない人はダメな人ということになってしまう.それは現代の学校や社会での落ちこぼれ論といかにも似ている.
 歯周病の原因が単に炎症だけではないことは周知の事実である.私は,歯周病は顎関節症の裏返しだと常々思っている.それは力によって歯は脱落するという数々の臨床的事実と一致する.歯にかかる力は一生の間に変化し続ける下顎位の変遷でもある.その意味から,歯の脱落はその人の失敗でもなく,歯科医学が負わされている生理的な部分をもち,自然の現象として許容せざるをえないものであると考えている.
 咀嚼にかかる時間は,朝昼晩と3回の食事時間を合わせても1日30分ほどであろう.食物を咀嚼しているときは食塊が介在しているゆえに上下の歯牙は対咬していない.24時間から30分余をひいた23時間余は咀嚼に関わっていない時間である.すなわち,口腔や歯牙の,物を噛むための時間は1日のうち,きわめて少ないというあたりまえの事実である.もし歯科治療の主目的が咀嚼にあるとするなら,歯科医療は実に少ないところに集約してきたことになる.残りの物を咬んでいない時間についての歯科の役割は不鮮明であった.
 しかし歯科が最も歯科たる部分は,残された物を咬まない23時間余りにあると考える.時間だけでいえば咀嚼に要する時間の割合は1日のうち1/48,それ以外の時間は47/48である.後者の時間のなかでの咬合がきわめて大きな意味をもつ.物を咬んでいない時間の上下歯牙の対咬関係や下顎運動を咬合という言葉に置き換えれば,この咬合が人の体の自律神経や脈管系,内分泌系等と深く関わることになり,睡眠時間も含めた23時間余りの咬合の安定がその人の健康と深く関わることになる.そしてその安定は30分間の咀嚼することと密接につながりをもつ.たとえば,「咬みにくい」という臨床での事実は,30分に問題があるのではなく,23時間余りの咬まない時間帯での咬合の不安定にすでに問題は始まっている.そのことは,有歯顎のみならず無歯顎についても同様のことがいえる.
 歯周病も顎関節症もこの咬合ときりはなして考察することはできない.1個のインレー,1個のクラウンは,この23時間余りの咬合の安定に直接影響を与える.歯科医が一つの補綴処置を誤ることで,まさにガタガタと倒れていくあのドミノの連鎖反応のように,その被害は全身へと広がっていく.そのことにおいて1個の歯冠修復のもつ意味は大きいのである.1本の歯牙は28本のなかの1本であり,また口腔は体のなかの口腔である.1本の歯牙のもつ意味は全身との関係において説明されなくてはならない.その意味から臨床医は1本の歯牙の命を大切にしたい.
 技術としての補綴治療に十分な努力と研鑚が必要なことはいうまでもない.そして,歯科が咀嚼のみではなく,もう一つの重大な役割を全身に対してもっているという,いわば Mssng Lnk(失われた環)としての医療の場を確認するためには,もう一度1個のインレーへの考察から始めなければならないという連関をもっていると考えている.
 1996年5月25日 續 肇彦
ブラキシズムとクレンチング
咬合性外傷と顎関節症および歯周病の関係
case 1 上顎右側部の10年間の変化
case 2 延長ブリッジと咬合性外傷
case 3 挺出した8を支台歯としたブリッジ
case 4 6,8の咬頭干渉はありうるか
case 5 対咬する88がなく88が挺出していた症例
case 6 前方型,後方型の二つのブラキシズムとクレンチング
case 7 8の挺出と右偏側咀嚼の定着による同側頚腕症候群の発症
case 8 8の挺出と反対側の肩こり
case 9 8の挺出が日中のブラキシズムの原因
case 10 下顎位の健康は歯周症対策
case 11 左側臼歯部の歯周病と咀嚼障害