やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社



 う蝕(虫歯)は,古い昔より今日に至るまで,歯の硬組織を侵すことによりわれわれの健康を脅かしてきたやっかいな病気である.長くその原因がわからず手のほどこしようがなかった.しかし,19世紀後半になって,その発病への細菌の関与が強く疑われ,今世紀半ば以降その実体が急速に明らかにされてきた.その研究の過程で,う蝕を誘発する特定の少数の菌種が判明し,しかもその発病要因として,個人個人の食生活のスタイルがう蝕の発生に大きな影響を及ぼすことが明らかになってきた.
 う蝕の発生にかかわる要因を解明すべく,これまでに膨大な研究成果が蓄積され,最近に至ってようやくいくつかの具体的な物質がう蝕予防に役立つことが示されるようになった.本書は主として我が国で開発されたさまざまなタイプのう蝕予防に寄与する物質-これには甘味糖質から酵素阻害剤まで幅広いが-を中心にして,この分野での最近の成果をまとめたモノグラフである.
 本書ではまずう蝕学についてこれまでに明らかにされてきた基礎的および臨床的知見について概説を試みた.そのうえで,どのような手順でう蝕予防を目指した物質の開発が行われ,それらにどのような効果が期待できるかについて,可能なかぎり科学的正確さを維持しつつ記載するよう努めた.本書の今ひとつの特徴は,モノを作りだす側の技術者・研究者の積極的な参加を求めたことである.当然,伝統的な歯科医学の枠外の専門家ということになるが,これらの寄稿者の論述を受けて,科学的にそれらの作用について歯科医学の立場から検討する側とが連絡をとりつつ最終的に各章をまとめていった.こうしてできあがった本書は,まだまだ意をつくしているとはいい難いが,この種の新しい試みが,歯科医学関係者のみならず,食品科学や栄養士,その他幅広い読者諸賢に受けいれられれば幸いである.
 1995年12月 編者ら

はじめに

 う蝕(虫歯,dentalcaries)は,歯という人体で最も硬い組織に発生する極めてユニークな病気である.ほとんどすべての日本人が一生のうちに少なくとも一度は経験し,約半数の歯がう蝕を原因として抜去されている.その痛みが激烈であるだけでなく,治療に用いる器具の発生する特有のノイズと疼痛ゆえに,老若を問わず人々に最もうとまれている病気のひとつかもしれない.
 その原因については,古くから多くの説が唱えられてきた.しかし一般には,う蝕あるいは歯の痛みがムシ(worm) により引き起こされるという説が最も広く信じられていた.一方で,砂糖(スクロース)の摂取がう蝕の発生をもたらすことも経験的に知られていた.う蝕の原因が科学的に明らかにされたのは,20 世紀の後半,1960 年代に入ってからのことである.強い酸産生能と耐酸性ゆえに,それまでう蝕の原因菌と目されていた乳酸桿菌には実験動物にう蝕を誘発する能力がなく,ミュータンスレンサ球菌(mutansstreptococci)と総称される一連の口腔レンサ球菌(ヒト口腔からはStreptococcusmutansとStreptococcussobrinusの2菌種が分離される)が,実験動物にう蝕を特異的に誘発することが明らかにされた.
 このミュータンスレンサ球菌の病原因子を特定する一連の研究過程において,ミュータンスレンサ球菌がスクロースを実に巧妙に利用してう蝕を発生させることが明らかにされた.第一に,これらの菌はスクロースを代謝して極めて強い酸を産生する.第二に,これらの菌は複数のグルコシルトランスフェラーゼ(GTase) を産生して,これらの酵素の作用によりスクロースから水に不溶性で,強力な付着性を有するグルカン(グルコースのポリマー;glucan)を合成する.この非水溶性で粘着性グルカンはミュータンスレンサ球菌を歯面に付着させ,歯面に定着させる足掛かりを与えることになる.
 歯面を生息の場としたミュータンスレンサ球菌は,さらに成育と増殖をとげつつ,多種の口腔内細菌との会合により菌塊を形成する.この菌塊が成長し,歯面を覆うと肉眼的にも認められるプラーク(dentalplaque; 歯垢)となる.プラークを構成する細菌が糖質を代謝してできた酸がプラーク内部に蓄積し,pHが低下すると,エナメル質の脱灰(demineralization) が徐々に始まる.
 このようにう蝕は,ミュータンスレンサ球菌の感染に始まり,いくつかのステップを経てはじめて発生する病気である.このことは,う蝕発生の過程のどこかを阻止すれば,理論的にはこの病気を予防できることになる.思い付くままに枚挙してみると,
 1.ミュータンスレンサ球菌の感染防止と増殖阻害(口腔清掃・スクロース摂取の抑制・抗菌剤),
 2.スクロースに代わる甘味糖,
 3.GTase阻害剤,
 4.グルカン分解酵素(デキストラナーゼ),
 5.プラークの除去(口腔清掃),
 6.エナメル質の耐酸性強化(フッ素),
 など,古典的な口腔清掃からミュータンスレンサ球菌に対するさまざまな阻害剤まで,多彩なう蝕予防法が考えだされている.これらのうち,スクロース代用糖と GTase阻害剤は食品としてあるいは食品への添加物として利用できる.
 このモノグラフは,日本で開発されたう蝕予防にかかわる物質について,歯科医学の立場からだけでなく,食品科学の立場からも取り上げて,それらの優れた点だけでなく,それらが抱える問題点や限界について考察し,今後の展望について論じたものである.う蝕予防のために大学等の研究者のみならず,食品関連企業の研究者による貢献がいかに大きいかが御理解いただけよう.
 (大嶋 隆)
はじめに……(大嶋 隆)1

1章 う蝕とは/3
 1.う蝕の臨床と疫学……(安福美昭)4
   1.歯の一生とう蝕……4
   2.歴史にみるう蝕……7
   3.う蝕の臨床……8
   4.う蝕の疫学……11
 2.う蝕の病因……(大嶋 隆)22
   1.Millerのう蝕病因論……22
   2.う蝕の病原因子……22
   3.う蝕と食生活……32
   4.まとめ……35
 3.う蝕の予防……(森崎市治郎)39
   1.歯質の強化……40
   2.プラークコントロール……44
   3.シュガーコントロール……48
   4.免疫学的アプローチ……49
   5.治療室での予防処置……51
2章 う蝕予防作用の検定/57
 1.う蝕誘発能とその抑制効果の検定法……(大嶋 隆)58
   1.invitro試験……58
   2.動物試験……64
   3.ヒト試験……72
   4.おわりに……74
3章 スクロース/77
 1.スクロース……(西尾弘二)78
   1.スクロースと関連語の定義……78
   2.砂糖の歴史……80
   3.砂糖の製造法……84
   4.計測・計量単位……89
   5.砂糖の消費量について……91
   6.スクロースの利用……94
4章 う蝕の予防をめざした甘味糖質の開発と応用/97
 I オリゴ糖類 ……98
  I・1 カップリングシュガー……(竹内 叶)98
   1.製造方法……98
   2.化学的・物理的特性……99
   3.生物学的特性(宿主,微生物による分解と利用)……101
   4.安全性……102
   5.食品産業への利用……103
   6.カップリングシュガーの分析方法……105
  I・2 カップリングシュガーとう蝕……(大嶋 隆)110
   1.実験動物におけるう蝕とカップリングシュガー……110
  I・3 イソマルトオリゴ糖……(弥武経也)112
   1.生成反応と製造方法……112
   2.製品の食品加工特性(物理的・化学的特性)……114
   3.消化性および整腸作用……118
   4.製品の安全性……118
   5.製品の応用例……119
   6.まとめ……121
  I・4 イソマルトオリゴ糖とう蝕……(大嶋 隆)122
   1.酸産生能……122
   2.非水溶性グルカン合成能……123
   3.平滑面付着能……123
   4.実験動物におけるう蝕とイソマルトオリゴ糖……123
  I・5 パノースオリゴ糖……(中久喜輝夫)125
   1.パノースの生成反応とパノースシロップの製造方法……125
   2.パノースシロップに含まれるパノースの構造確認……127
   3.パノースシロップの物理的・化学的特性……127
   4.パノースシロップの生理機能特性……130
   5.パノースシロップの安全性……131
   6.パノースシロップの利用……132
  I・6 パノースオリゴ糖とう蝕……(大嶋 隆)133
   1.酸産生能……133
   2.非水溶性グルカン合成能……134
   3.平滑面付着能……135
   4.実験動物におけるう蝕とパノースオリゴ糖……136
 II スクロースの構造異性体……139
  II・1 スクロースの構造異性体……(中島良和)139
   1.パラチノースとトレハルロースの生産……140
   2.パラチノースとトレハルロースの特性……145
   3.パラチノース・トレハルロース製品の特性と用途……147
   4.パラチノースオリゴ糖……149
  II・2 スクロース構造異性体とう蝕……(大嶋 隆)154
   1.パラチノースおよびトレハルロースとう蝕……154
   2.パラチノースシロップとう蝕……158
   3.パラチノースオリゴ糖とう蝕……161
   4.まとめ……163
 III 糖アルコール類……166
  III・1 マルチトール……(北島 徹)166
   1.マルチトールの製造……167
   2.マルチトールの化学的・物理的特性……167
   3.マルチトールの生理学的特性……168
   4.食品産業への利用……171
  III・2 パラチニット……(中島良和)174
   1.生成反応……174
   2.生成物の物理学的特性……174
   3.製造方法と製品規格……175
   4.甘味特性……177
   5.物理化学的特性……177
   6.生理学的特性……179
   7.安全性……180
   8.世界的な評価……180
   9.利用技術……180
  III・3 糖アルコールの非う蝕原性……(大嶋 隆)182
   1.マルチトールとう蝕……182
   2.パラチニットとう蝕……184
   3.まとめ……185
5章 新開発甘味糖質の全身的作用/189
 1.体内での分解と利用……(奥 恒行)190
   1.消化吸収される甘味糖質の代謝……190
   2.消化吸収されない難消化性甘味糖質の分解……191
   3.易吸収・非代謝性甘味糖質の代謝……194
 2.低エネルギーと肥満抑制効果……(奥 恒行)199
   1.消化吸収されない甘味糖質の運命……199    2.難消化性甘味糖質の有効エネルギー量……199
   3.難消化性甘味糖質とインスリン分泌……201
   4.難消化性甘味糖質の副作用……202
 3.腸内フローラに対する作用……(辨野義己)205
   1.ヒトの腸内フローラにおけるBifidobacteriumの意義……205
   2.オリゴ糖の保健促進効果……209
6章 グルカン合成阻害物質の開発と応用/217
 I 半発酵茶ポリフェノール……218
  I・1 ウーロン茶ポリフェノール……(田中隆治)218
   1.茶の効用……218
   2.ウーロン茶ポリフェノールのグルコシルトランスフェラーゼ(GTase)阻害作用……222
   3.ペルオキシダーゼによるカテキン重合体の生成……223
   4.ウーロン茶抽出物の製造……224
   5.ウーロン茶抽出物の特性および安全性……226
   6.ウーロン茶抽出物の利用・応用……228
  I・2 半発酵茶ポリフェノールのう蝕抑制作用……(大嶋 隆)229
 II 卵黄抗体……236
  II・1 卵黄抗体とその作用……(大西重樹)236
   1.う蝕免疫……236
   2.う蝕免疫用の抗原の選択……237
   3.非水溶性グルカンを合成する菌体結合型グルコシルトランスフェラーゼの発見と分離……238
   4.卵黄IgG抗体とは……239
   5.S.mutansビルレンス因子に対する卵黄抗体の作製……241
   6.卵黄IgG抗体のS.mutansビルレンス因子に対する作用……243
   7.ラット実験系における卵黄IgG抗体のう蝕抑制効果……244
   8.卵黄IgG抗体の安全性および安定性……246
   9.卵黄IgG抗体の大量調製方法の確立……247
   10.おわりに……249

おわりに……(浜田茂幸)253
索引……259