やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

序章 補弱の思想

 これまでの歯科臨床は,たとえば,「補綴=破れた所などをおぎないつづること(広辞苑)」からもわかるように,失われた機能や審美性の回復が目的であった. 保存治療や歯周治療あるいは矯正治療にしても,治療の目的は失われた歯や歯列や歯周組織の欠損の修復,および機能や審美性の改善にある.
 このように,すでに失われた健康の回復を目的とした歯科臨床は,つねに健康な状態をモデルとしているので,勢いその根底をなすフィロソフィーとしては,「弱点や不足を補って強くすること=補強(広辞苑)」を目的とし,善とする補強の歯科医学とならざるをえない. しかし,これからも従来のような補強の歯科臨床中心で,人生80年という長期におよぶ歯と歯周組織の保存を達成できるのだろうか? 補強の歯科医学の限界を知り,少しでも長く歯と歯周組織の保存を図るために,ほんとうの意味の補強について考える必要がある.
 1 生物の修復能力 植物は,茎だけあるいは根だけを残しておけば,再び成長して根や茎や葉や花となって,元とまったく変わらない姿に再生することができる. 動物にはこれほどの再生能力はないが,人間ですら胃を半分以上切除してもある程度の回復は可能である. つまり生物は生あるかぎり,失われたり,傷ついた部分を自分で修復する能力を備えている. このような,自らが,自らの故障・欠損を発見し,それらを自己修復できるような性質,すなわち“柔らかい性質”を内蔵したシステムこそ生物の独壇場であり,人工のシステムではとうてい実現できないところである .
 2 食物連鎖 食物の循環は,摂食の相互関係がからみあった系である. 群集におけるこの系の全体は食物網とよばれ,また食餌と摂食者の関係は食物連鎖と名づけられている. この食物連鎖は個体数ピラミッドをなしていて,個体数を大きさによって分けて積み重ねてみると,小型の動物の個体数を基底として,各群が三角形を形成することがわかる. つまり食物連鎖のシステムとしての安定性は,小型の動物は大型の動物よりも生殖能力がはるかに大きいということによって保たれている .
 3 擬 態 主として動物が他の動植物や無生物に類似した色彩や模様,形,行動などを示すことによって,生存上の利益を得ていると考えられる場合をさして擬態という. 擬態には二つあり,一つは周囲の物体に似ることによって,自らを目立たなくして捕食者の攻撃を免れるカムフラージュの現象で,このようなものを隠蔽的擬態という. もう一つは逆に,むしろ目立つ色彩や形などによって,敵の視覚に積極的に訴えることで効果をあげていると考えられる類似である. たとえばハナアブは無毒であるが,毒針をもつハチと外見はよく似ている. これが真の意味での擬態であり,標識的擬態という.
 4 自然のシステムの壊れにくさ 個体の生存のための修復能力,弱い種族の保存のための高い繁殖力や擬態,これらの弱い部分もたいせつにするという,自然のいわば“補弱”という事実もまた,個体の生存や生態系全体の安定に大きく関与している. 損傷にたいする修復能力がなかったら多数の生物はたちまちのうちに死に瀕してしまうだろうし,食餌としての小動物がいなくなってしまったら捕食者も生きていくことができなくなってしまう. 自然のシステムの壊れにくさは,多数のチャンネルを有するこの自然のシステムの複雑さにある .
 歯は歯髄という修復能力をもった軟組織と,エナメル質と象牙質という硬組織との二つのシステムからなっているので,長期にわたる咬合にも耐えうるのであって,抜髄によって硬組織のみの単一のシステムになってしまうと,エナメル質や象牙質の破折は歯全体の破折に直結しやすい.
 5 リービッヒの最小の法則 植物の成育と養分の関係について,リービッヒの最小の法則というものがある. 植物の成育には炭素,水素,酸素,窒素,イオウ,リン,カリウム,マグネシウム,カルシウムおよび鉄の十元素が不可欠であるといわれている. リービッヒの最小の法則は,これらの必須元素のうちで,その場にある最も少ない量の必須元素が,その植物の成育を左右するというものである.
 最も弱いものが全体を支配すると考えると,生物だけでなくもっと広く応用してこの法則を考えることができる.歯はエナメル質,象牙質,セメント質および歯髄からなるが,歯の寿命ということから考えると,最も硬いエナメル質の有無よりも,最も弱いはずの歯髄の存在のほうがはるかに大きい. また,抜髄された歯ではつぎの象牙質がいちばん弱いということになる. そして象牙質よりも硬い金属をポストとしてもってきたとしても,けっして補強にはならないということがわかる. 補強のほんとうの意味は,補弱にこそある.
 1) 新村 出編:広辞苑(第四版). 岩波書店,東京,2369,1991.
 2) 新村 出編:広辞苑(第四版). 岩波書店,東京,2352,1991.
 3) 岡田節人:生命科学の現場から. 新潮社,東京,21〜22,1983.
 4) ブリタニカ国際大百科事典. ティビーエス・ブリタニカ,東京,11巻,160〜164,1988.
 5) ブリタニカ国際大百科事典. ティビーエス・ブリタニカ,東京,5巻,240〜242,1988.
 6) 立花 隆:エコロジー的思考のすすめ―思考の技術. 中央公論社,東京,154〜162,1990.
 7) 立花 隆:エコロジー的思考のすすめ―思考の技術. 中央公論社,東京,147〜151,1990.


補弱の思想……1
1 歯根破折の原因……4
    歯根破折の原因(4)
    症例1(10)・症例2(12)
2 歯根破折の分類……13
   1 力による分類(13)
   2 原因別による分類(14)
   3 破折の程度による分類(15)
   4 時間の経過による分類(16)
   5 筆者の歯根破折の分類(18)
    症例3(20)・症例4(22)・症例5(23)
3 歯根破折のメカニズム……25
   1 歯冠性破折のメカニズム(27)
   2 根管性破折のメカニズム(28)
   3 根尖性破折のメカニズム(29)
    症例6(32)・症例7(34)・症例8(36)
4 歯根破折の診断……38
   1 歯冠性破折の診断(38)
   2 根管性破折の診断(40)
   3 根尖性破折の診断(42)
    症例9(44)・症例10(46)・症例11(48)・症例12(50)
5 補綴と歯根破折……52
   1 根管治療後の歯は,ほんとうに破折しやすいのだろうか(52)
   2 根管治療後の歯は,なぜ破折しやすいのか(54)
   3 単冠と歯根破折(54)
   4 ブリッジと歯根破折(56)
   5 パーシャルデンチャーと歯根破折(56)
   6 最後臼歯と歯根破折(58)
    症例13(61)・症例14(63)
6 支台築造と歯根破折……66
   1 支台築造は歯質を補強しているのだろうか(66)
   2 歯髄は最良のキャストコア(67)
   3 キャストコア(67)
    症例15(81)
7 根管治療と歯根破折……84
   1 根管治療と歯根破折(84)
   2 根管治療と歯の硬さ(85)
   3 アクセスキャビティーと歯根破折(86)
   4 根管拡大と歯根破折(86)
   5 根管充填と歯根破折(87)
   6 再治療と歯根破折(88)
   7 より確実な根管充填を求めて(89)
    症例16(92)・症例17(94)
8 破折歯の保存……96
   1 有髄歯の保存(96)
   2 無髄歯の保存(97)
   3 歯冠伸長処置(98)
   4 矯正的挺出(99)
   5 外科的挺出(100)
   6 経過観察(103)
    症例18(105)
9 歯根破折と咬合……107
   1 咬合のチェック(107)
   2 なぜ咬合が問題になるのだろうか(108)
    症例19(110)・症例20(112)・症例21(114)
10 歯根破折の予防……116
   1 歯冠性破折の予防(117)
   2 根管性破折の予防(119)
   3 根尖性破折の予防(120)
    症例22(123)・症例23(125)・症例24(127)

あとがき(129)
索引(131)