やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

第2版 序
 口腔は食物の摂取,咀嚼,嚥下という生命の維持に必要な機能の他に,会話や口の周りの表情を通して他人とのコミュニケーションを図ったり,食事を味わうなど生活に潤いを持たせる大切な機能を果たしているが,これらの機能は口腔の豊かな感覚に支えられている.口腔および顎顔面の感覚は,脳神経の中で最大の三叉神経に支配されている.三叉神経の本体は知覚神経であるが,歯科に最も関係の深い第3枝(下顎神経)には舌の味覚を支配する鼓索神経と,咀嚼筋の運動を支配する咀嚼筋神経が含まれている.したがって口腔および顎顔面には痛覚,触覚,冷覚,温覚,圧覚などの皮膚感覚と,味覚のような特殊感覚,さらには筋,腱,関節などに由来する深部覚まで含まれている.言い換えれば,口腔および顎顔面の感覚は,あたかもオーケストラのように,構造や性格の異なる多くの受容器と受容線維による複合感覚で,生活のあらゆる場面で,その場面に応じた受容器群が奏でる感覚が,私達が日常感じている“感覚”である.
 一般に“神経損傷”と言われるのは感覚受容器と中枢を連絡する受容線維の損傷で,修復処置が遅れるほど感覚の回復到達度は低くなる.また受容器と受容線維の構造が複雑になるほど回復力は弱く,痛覚などは速やかに回復するのに対し,圧覚などの回復力は弱く,味覚のような特殊感覚は早期に神経修復処置を行っても,回復は望めない.したがって,いったん神経損傷が生じると患者は感覚麻痺や感覚低下ばかりでなく,場合によってはアロデイニアや痛覚過敏で生涯悩まされることになる.
 2001年8月1日に『カラーグラフィックス 下歯槽神経麻痺』の初版が出版されてから10年が経過した.この間,口腔癌の切除手術においてさえ,積極的に神経移植を行って感覚の修復が図られるようになってきたことは大きな進歩である.しかしながら,一方では下顎智歯の抜歯もさることながら,インプラント外科に関連する下歯槽神経損傷が急増し,また感覚障害に対する患者側の意識も高まってきて,インプラントに起因する下歯槽神経損傷は日本の歯科医療の信用にも関わる深刻な問題となってきた.それに加えて,下顎の劣成長の傾向のためか,下顎智歯の抜歯に起因する舌神経損傷も増加している.
 そのようなことから,書名を『カラーグラフィックス 下歯槽神経・舌神経麻痺』と変更し,この10年間に起こった事例や,治療に関する新知見や研究成果も含めて第2版を編纂した.一人でも多くの歯科医師が,本書を通じて下歯槽神経と舌神経に関する知識を深め,日常の診療に役立てていただければ,著者一同にとって無上の喜びである.
 最後に,本書の改訂に際してご尽力いただいた医歯薬出版(株)編集部の大城惟克氏に心から感謝いたします.
 2010年8月
 編者

序(第1版)
 医療が高度に発達するに従って,思いもよらぬ新たな医療事故が多発している.これには医療知識の欠落,医療技術の未熟さ,医療関係者のモラルの低下など多くの要因が関連しているが,その一つとして見逃せないのは,医療の高度化に伴って専門的知識は向上する反面,知識の幅が狭くなり,基本的に極めて重要なことがなおざりにされていることである.このことは歯科医療についても当てはまることで,抜歯やインプラント埋入時の下歯槽神経損傷と,それによる知覚麻痺が増加している.
 歯科医療の目的は口腔機能の維持と修復にあり,その目的に沿ってう触や歯周病の治療,抜歯や義歯の調整など治療が行われるのであるが,その際,知覚神経麻痺が生じると患者のQOL(quality of life)は大きく損なわれることになり,一転して訴訟問題に発展することになる.口腔には豊かな感覚があり,これが全ての口腔機能の前提となっているのであるが,あまりに当たり前すぎてややもすると気付かれない.
 ところで,口腔の感覚を支配しているのは12対の脳神経中最大の三叉神経であり,われわれ歯科医師は三叉神経の形態と機能について確かな知識を身につける必要がある.本書は三叉神経の中でも,特に歯科診療と関連の深い下歯槽神経に焦点を絞り,日常歯科臨床で行う頻度が高い処置と神経損傷について書かれたもので,CGを用いて理解しやすいように解説している.
 本書は,まず下顎神経に関する解剖を詳しく,また平易に説明し,難しく感じる電気生理はドミノで表現している.また,一貫してセドンの分類を用いて各種の神経損傷を説明し,症状からみた損傷程度,症状からみた回復度,予後,治療法あるいは予防法などを縦横に説明している.さらに,日常臨床で下歯槽神経麻痺に遭遇したときに必要な知識が各項目ごとに平易に解説され,その項目を読めば診断から治療まで完結できるように配慮した.さらに,舌神経麻痺についても若干触れ,診断,処置を行う要点を解説した.最後に,基礎的な研究の流れと現在までに明らかにされた知見を紹介した.
 医療の進歩とともに患者側のQOLを考えた医療の必要性が叫ばれ,患者側も知覚障害について不満を訴えるようになった現在,本書はまさに機を得た出版であると考える.さらに,下歯槽神経に焦点を絞った成書は世界でも初めての試みではないだろうか.歯科医師は本書を通して下歯槽神経に関する知識を深めていただき,さらによりよい治療法,予防法の確立や基礎的研究が進むことを切に願うとともに,この本が日常臨床のお役にたてれば著者一同同慶の至りであります.
 最後に,3年間にわたり終始熱意を持って出版にご尽力頂いた医歯薬出版(株)編集部の牧野和彦氏に感謝致します.また,本書では最大の目玉であるCG製作にご尽力頂いた江里口隆様に感謝申し上げます.
 2001年7月
 編者
1章 下歯槽神経と舌神経をめぐって(野間弘康)
 I.日本人の顎骨の形態が変わってきた
 II.神経麻痺とその原因
 III.神経(線維)損傷とその診断
 IV.神経損傷の治療
 V.下歯槽神経・舌神経損傷の予防
 VI.患者に対する医療面接
2章 下顎神経の臨床解剖(井出吉信・阿部伸一)
 I.下歯槽神経
  1 顎舌骨筋神経 2 下顎孔より下顎骨中に入り,オトガイ孔を出るまで 3 オトガイ孔を出た後 4 切歯枝
 II.下顎神経の伝導路
3章 末梢神経損傷の分類(佐々木研一)
 I.Seddon分類
  1 neurapraxia【ニューラプラキシア】(一過性局在性伝導障害) 2 axonotmesis【アキソノトメシス】(軸索断裂) 3 neurotmesis【ニューロトメシス】(神経幹断裂)
 II.Sunderland分類
 III.歯科臨床的な末梢神経損傷の分類
4章 神経損傷の診断と評価
 I.診断手順のフローチャート(佐々木研一)
  1 原因および損傷部位検索のためのフローチャート 2 症状と損傷程度のフローチャート 3 神経疾患カルテ
 II.各種診断法(高崎義人)
  1 下唇・オトガイ部における知覚検査法 2 各種知覚検査法
 III.各種評価法(山口晋一・浜瀬真紀)
  1 受傷時の患者の自覚症状 2 知覚障害の程度と範囲の客観的評価 3 知覚障害症状の経過
5章 浸潤麻酔・伝達麻酔後の下歯槽神経麻痺(高崎義人)
 I.診断
  1 神経麻痺の発生頻度 2 診断のポイント 3 局所麻酔後の神経麻痺の病態
 II.このような症状があったら
 III.事故が起こる原因
  1 注射針による機械的損傷(針による外傷) 2 血管収縮薬による局所貧血 3 神経破壊剤による神経変性
 IV.治療法
  1 薬物療法
 V.予防法
  1 下顎孔伝達麻酔 2 オトガイ孔,舌神経 3 器具の取り扱い上の注意 4 その他
 VI.回復期間,回復度
 VII.注意点
6章 根管処置による下歯槽神経麻痺(南保秀行)
 I.診断
 II.このような症状があったら
 III.原因
 IV.治療
  1 原因の除去 2 薬物療法 3 理学療法
 V.回復期間,回復度
 VI.予防法と注意点
7章 下顎埋伏智歯抜歯時の下歯槽神経麻痺(佐々木研一)
 I.診断
 II.このような症状があったら
 III.麻痺の原因
  1 読影ミス 2 乱暴な抜歯操作 3 タービンバー,エンジンバー,メスなどによる切断 4 舌神経麻痺
 IV.治療
  1 手術療法 2 薬物療法 3 理学療法
 V.回復期間・回復度
  1 神経束完全断裂 2 部分的神経断裂 3 軸索断裂 4 一過性局在性伝導障害
 VI.予防法と注意点
  1 予防法 2 注意点
8章 インプラント植立時の下歯槽神経麻痺(山崎康夫)
 I.診断
  1 neurotmesis(神経束完全断裂)の場合 2 neurotmesis(部分的神経断裂)の場合 3 axonotmesis(軸索断裂)の場合 4 neurapraxia(一過性局在性伝導障害)の場合
 II.このような症状があったら
 III.事故が起こる原因
  1 適応症の選択 2 局所麻酔による損傷 3 ドリリング操作 4 使用するインプラント体の長さ
 IV.治療法
 V.回復期間,回復度
  1 神経束完全断裂 2 部分的神経断裂 3 軸索断裂,一過性局在性伝導障害
 VI.予防法と注意点
  1 予防法 2 注意点
9章 下歯槽神経を裸にする手術時の下歯槽神経麻痺(正木日立)
 I.診断
 II.このような症状があったら
 III.神経損傷が起こる原因
  1 手術操作や解剖学的要因に起因する場合 2 手術に伴い神経損傷がある程度免れない場合
 IV.治 療
  1 手術中に神経損傷の危険が判明した場合 2 術後に神経障害が明らかになった場合 3 大きな腫瘍,嚢胞などで術前から下歯槽神経の切除が予定されている場合
 V.予防法
 VI.回復期間,回復度
  1 神経束完全断裂 2 部分的神経断裂 3 軸索断裂142 4 一過性局在性伝導障害の場合
 VII.注意点
10章 下顎口腔前庭に切開を入れた場合の下歯槽神経麻痺(谷口 誠)
 I.診断
 II.このような症状があったら
 III.事故が起こる原因
  1 読影ミス 2 局所麻酔による損傷 3 手術による損傷
 IV.治療
  1 神経縫合による手術療法 2 薬物療法 3 理学療法
 V.回復期間,回復度
  1 触覚,痛覚の広範囲知覚脱失がある場合 2 触覚,痛覚の小範囲脱失がある場合 3 異感覚,錯感覚
 VI.予防法と注意点
  1 予防法 2 注意点
11章 顎矯正手術時の下歯槽神経麻痺(武田栄三・佐々木研一)
 I.診断
 II.このような症状があったら
 III.各種手術法と麻痺の発現機序
  1 手術法 2 麻痺の発現機序
 IV.治療
  1 手術療法 2 薬物療法 3 理学療法
 V.回復期間,回復度
 VI.予防法と注意点
12章 総義歯によるオトガイ神経麻痺(町田和之)
 I.総義歯によるオトガイ神経麻痺
  1 診 断 2 このような症状があったら 3 麻痺の原因 4 治療法 5 予防法 6 回復期間・回復度 7 注意点
13章 舌神経麻痺
 I.舌神経麻痺
  1 診断 2 このような症状があったら 3 舌神経の臨床解剖(井出吉信・阿部伸一) 4 事故の起こる原因 5 治療法 6 予防法 7 回復期間・回復度 8 注意点(佐々木研一)
14章 治療
 I.手術療法(佐々木研一)
  1 手術法 2 神経縫合や移植を行うための一連の手術手技 3 神経減圧術
 II.薬物療法(柴原孝彦)
  1 ビタミンB12製剤 2 神経成長因子 3 その他
 III.理学療法(柴原孝彦)
  1 理学療法 2 星状神経節ブロック
 IV.星状神経節ブロック(一戸達也)
  1 星状神経節 2 星状神経節ブロックの術式 3 星状神経節ブロックの適応症 4 星状神経節ブロック時の組織血流量の変化 5 星状神経節ブロック後の神経損傷の回復 6 局所麻酔を用いた星状神経節ブロックと直線偏光近赤外線の星状神経節近傍照射
 V.下歯槽神経損傷後の神経障害性疼痛(福田謙一)
  1 神経障害性疼痛とは 2 神経障害性疼痛の発生機序(痛みやしびれはなぜ発生するのか?) 3 痛みの評価・診断 4 痛みの治療
15章 医事処理(山崎康夫)
  1 このようなことが起きないためには 2 どうして十分な説明ができないのか 3 患者に理論的に説明するために 4 麻痺後の検査 5 麻痺を起こさないための予防法 6 医事紛争の防止 7 医師賠償責任保険
16章 下歯槽神経損傷後の回復過程
 I.神経細胞の反応(山口雅庸)
 II.軸索輸送(佐々木研一)
  1 遅い順行性軸索輸送 2 早い順行性軸索輸送 3 逆行性軸索輸送
 III.神経線維の反応(谷口 誠)
 IV.シュワン細胞,神経周膜の役割(凌 慶東)
 V.シュワン細胞,基底膜の役割―人工材料を用いた神経再生―(高崎義人)
  1 切断縫合群 2 凍結乾燥群 3 人工材料群
 VI.神経周囲血管網および神経内血管の役割
  1 神経周囲血管網(山崎康夫) 2 神経内血管(町田和之)
 VII.硬組織用超音波(骨)メスによる神経損傷
  1 超音波(骨)メスと回転切削器具による神経損傷の違い(佐々木研一) 2 超音波(骨)メスによる神経損傷と電気生理学的および病理学的回復(山口晋一)
 VIII.受容器(神経終末)の反応
  1 皮膚・口腔粘膜の受容器 2 支配神経の切断による受容器の変性と再生 3 神経損傷の種類と受容器の再生 4 受容器の再生と感覚の回復(正木日立・南保秀行) 5 歯根膜の受容器(佐々木研一・三宅 晋)
 IX.検査(臨床例をとおして)
  1 電気生理学的検査(下歯槽神経活動電位)(松田康男) 2 触覚検査(下顎枝矢状分割術後)(浜瀬真紀)
 X.知覚のリハビリテーション(浜瀬真紀)
 
 参考文献
 索引
 著者略歴