やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

訳者のことば
 本書の原著書のタイトルは“Clinical Anatomy and Physiology of the Swallow Mechanism“,直訳すれば「摂食・嚥下メカニズムの臨床解剖・生理学」である.この欧文タイトルを見たときに「なんだ,単なる摂食・嚥下機能の解剖と生理の教科書か.そのような基礎知識は臨床で必要な程度には知っているし,いまさら時間をかけて読む必要はない」と感じる方も少なからずいるかもしれない.ところが実のところ,すでにお気づきのように,この翻訳書の日本語のタイトルは,直訳とは大きく離れた,異なった角度からつけられている.実は,それには深い意味がある.この日本語のタイトルは,この本の内容を“最小限の長さに凝縮した表現”として練りに練ってつけられたものだからである.すなわち,この本は単なる解剖学,生理学の本ではない.
 もう一つの特徴は,本書はもともと米国の言語療法士の卒前・卒後のテキストブックとして書かれたものであるが,その内容は,いわゆる通常考えられている教科書という概念からは考えられないほどの広がりと深さと展望を秘めたものである.その意味からこの本は,摂食・嚥下領域の臨床,研究,教育などに携わるすべての関連職種の方々にぜひ読んでいただきたい著書なのである.
 現在,人間の摂食・嚥下機能の正常像とされているもの,ならびに臨床での障害像やその病態生理として信じられてきているものは,一言で表現するならば,その始まりは北米圏を中心として1980年代に,主に単独嚥下のVF像の解析と,いわゆる便宜的な区分である摂食・嚥下の“4期モデル“(わが国では“先行期”を加えた5期モデルとしてよく知られている)のもとに考えられてきた概念である.しかし,その後に急速に盛んになってきたこの分野の研究や観察・解析機器の進歩からわかりつつあるのは,従来の誤りを訂正し,新しい所見に基づいた新しい発想の概念の導入が必要になってきているということである.
 そのいくつかの例を紹介しておこう.“4期モデル“はたしかに摂食・嚥下の流れを説明するには便利かもしれない.しかし,実際の摂食・嚥下は一連の流れであって,いちいちそのような“期(stage)”ごとに分割して動いているわけではないし,また生体の構造と機能(解剖と生理),神経筋系や脈管系にそのようなはっきりとした区分が存在するわけではない.このような区分があると,咽頭期にみられる異常,たとえば,誤嚥,食塊の喉頭蓋谷や梨状陥凹への貯留などは,咽頭期に問題があるからだと判断されがちである.しかし,実際には咽頭期以外の期の構造や機能に原因があることが多くある.
 摂食・嚥下に関係する構造・機能上の指標が多く使われているが,その定義がはっきりしているのは“喉頭侵入“と“誤嚥”だけであるといわれている.他の指標,たとえば食塊の口腔通過時間,咽頭通過時間は,いったいどこからどこまでをさしているのか?摂食・嚥下領域の研究論文に目を通していると,研究者によってその解釈が必ずしも一致していない.それが結果の相違として現れてくる.嚥下反応(従来の嚥下反射;このことについては後述)の開始部位はいったいどこなのか?気道防御の三重構造・機能の開始時点・順序はどうなっているのか?
 液体嚥下と固形食嚥下の両方において,単独嚥下(検査時の1回の嚥下)と連続嚥下(自由咀嚼嚥下;実際に食事をしているときの状態)では,正常においてもかなりの差があることが判明しつつある.従来,VF像上で異常(障害像)とされてきたことが,健常者の多くにおいても観察され,しかもなんの障害もない.個人差もかなり大きい.“運動等価”という運動理論の導入の必要性.
 摂食・嚥下障害患者のVF像を,かなりこの領域で経験の深い数名の臨床家に評価させても,評価者間の一致率が極めて不良である.なぜであろうか.
 このようなことが各所に散りばめられ,それを臨床の根拠となる構造(解剖)と機能(生理)の面から論議されているのが本書の一つの大きな特徴である.
 現在,摂食・嚥下の分野に関係する日本も含めた諸国から発表される論文の数は,10年前とは比較にならないほど多くなっている.臨床家が,その多くに目を通すことはほとんど不可能であるし,もしできたとしても,どの論文が本当に意義あるものなのかどうかを判断することは極めて難しい.そのような意味からも,過去を科学的に検証し,現在の進展を多くの文献から注意深く論議し,また将来の展望の一端を示している本書の出版は,そのような幅と深さの広がった現状を1冊の本から得られるという利点からも大きな意義があるものとして推薦できる.臨床家がその実践の基礎となる正常領域について通じていることは最も重要なことである.正常に関するしっかりとした基礎知識なしには,臨床の成果は決して得られない.
 本書のその他の意義に関しては,本書の冒頭にあるJohn C.Rosenbek氏(PhD)の「シリーズ編集責任者のことば」をぜひ参照していただきたい.
 なお,原著書の訳出,その他に関しては,次のことに配慮してある.
 1)日本の言語聴覚士に相当する専門職は,初期の頃は世界的にST(speech therapistの略称)とよばれていた.しかし,近年の北米ではSLP(speech-language pathologistの略称;言語病理学者)とよばれるようになった.そこで,本書におけるこの語の翻訳にあたっては,便宜的に“言語療法士”と訳してあるのでご了解いただきたい.
 2)原著書においてはstage(期)とphase(相)という語が頻繁に使われている.stageとphaseの意味の違いについては人によってその定義に微妙な差があり,また,私がこの分野の米国のある高名な研究者に直接聞いた両語の原義と使い分けとも異なっている.また,どういう領域(たとえば発達学や物理学)で使われるかによっても解釈は異なる.したがって,混乱を避けるために,これらの語の訳出にあたっては,どのような文脈に際してもstageは“期“,phaseは“相”と忠実に訳してある.しかし,本書においてはstageとphaseをすべて厳密に使い分けているとは考えられない節があるので,ほぼ同義に使われていると思ってもさしつかえない.
 3)swallowには狭義と広義がある.狭義には“嚥下“を意味している.しかし,swallowは実はそれより広い範囲の機能を含んだ広義に使われていることがある.それは,口腔における機能,いわゆる“(口腔)準備期”を含んでいる意味,すなわち摂食・嚥下(機能)を表していることがある.そこで,この用語は文脈から考えてどちらの意味で使われているかを判断し,それに応じて“嚥下“または“摂食・嚥下”と訳した.
 4)本書では,swallowing reflex(嚥下反射)という用語は使われていない.そのかわりにswallow response(嚥下反応),pharyngeal swallow response(咽頭嚥下反応),pharyngeal swallow(咽頭嚥下),pharyngeal response(咽頭反応)という用語が使われている.これは,従来嚥下反射とよばれていた生体現象は,反射と解釈するほどステレオタイプなものではなく,もっと柔軟性のある“高度に協調化された反応“ではないのかという最近の考え方を反映しているものと考えられる.このことは,本書だけではなく,最近の論文や他の書物にも現れている傾向である.本文中のところどころに“(嚥下反射)”と入れてあるのは,本書の原著にそのような記載があるわけではなく,訳者が読者の理解の便のために挿入したものである.
 5)dysphagiaという用語は,一貫して“摂食・嚥下障害”と訳した.
 6)oropharyngealという用語には二つの意味がある.一つは“咽頭口部(中咽頭)に関する“を意味しており,もう一つは“口腔と咽頭に関する”ことをさしている.そこで文脈から判断して,前者の場合には“咽頭口部の“と訳し,後者の場合には“口腔と咽頭の”,あるいは“口腔・咽頭の”と表現した.
 7)laryngopharyngealという用語にも同様に二つの意味がある.すなわち,一つは“咽頭喉頭部(下咽頭)に関する“を意味しており,もう一つは“喉頭と咽頭に関する”をさしている.そこで文脈から判断して,前者の場合には“咽頭喉頭部の“とし,後者の場合には“咽頭と喉頭の”(“喉頭と咽頭の“),あるいは“咽頭・喉頭の”(“喉頭・咽頭の”)と訳してある.
 8)本書はかなり専門的な内容なので,なるべく摂食・嚥下(障害)領域に関係する多職種の読者諸氏によりよく理解していただくための脚注を多く入れてある.したがって,この脚注はすべて原著書にはない訳者注である.
 9)巻末の「付録B各章の設問に対する解答」では,各設問に含まれる内容に対して必ずしも全部を解答していない場合もある.
 10)巻末のGlossary(用語解説集)について
  (1)本文中にあるイタリック・ボールド体英語は,このGlossaryに収録されている用語であることを示している.
  (2)本文中にあるthermal gustatory treatmentは,原著書のGlossaryにも収録されていない.
  (3)本文中とGlossary中では,次の例に示すように,その記載に多少の違いがあるものがあるが,本質的には意味上の相違はないので,すべて原著書どおりの記載とした.
 [本文中] [Glossary中]
  lesser wings→ lesser wings of the sphenoid bone
  greater wings→ greater wings of the sphenoid
  lateral pterygoid plates→ lateral pterygoid plates of the sphenoid bone
  levator anguli oris→ levator anguri oris muscle
  levator labii superioris→ levator labii superioris muscle deep pharyngeal neuromuscular
  stimulation(DPNS or DPNMS)→ deep pharyngeal stimulation
 11)参考のために,訳者注として巻末に,原著書にはないガード(GERD)に関連した評価に使われる「食道グレーディング・スケール」と「GERDのQOLスケール」を掲載した.
 最後になるが,本書中の専門用語,その他の特殊な表現等の翻訳・解釈に際して必要な場合には,それぞれの領域の専門家からご意見をいただいた.その各位のお名前はここに記載しないが,その方々のご助力に深く感謝申し上げる.
 また,私の本書出版の意義と方針を深くご理解いただいた医歯薬出版株式会社に厚く感謝申し上げるとともに,関係者の方々が私の本書翻訳の趣旨を踏まえて表裏にわたってご支援くださったことに対して深謝申し上げたい.
 2006年9月
 金子 芳洋

シリーズ編集責任者のことば
 この“摂食・嚥下障害シリーズ”*が最初に生まれようとしたときに,私が望んでいた著書は解剖学と生理学に関するものであった.その理由は簡単である.言語発声の領域における解剖学・生理学に関する著書類はすでに使用されていたし,また各臨床家や研究者も,それが重要で複雑であるとはいえ,言語発声に関係する解剖学的構造と生理学的機能は,摂食・嚥下に関与する構造や機能とは異なっていることを知っていたからである.その相違は,ときには小さいが,多くの場合には大きい.
 さて,今日やっと待望の“Clinical Anatomy and Physiology of the Swallow Mechanism”がこのシリーズに加わることになった.3人の著者,Kim Corbin-Lewis,Julie M.Liss,Kellie L.Sciortinoは,まさに第一級の本を著した.本書は,その期待に添うものである.著者らは,臨床的な解剖構造と生理機能について論じている.それが非常によくできているので,この本は,単に解剖学・生理学学習のテキストとして,あるいは全体的教科課程での補助的テキストとしてだけではなく,摂食・嚥下障害コースの教科書となりうるものである.
 著者らは,どのようにしてこのようなことを実現しえたのであろうか?この本の各章を読むことによって,読者自身でその答えを見出してほしい.ここに示すのは,私が出したほんの一部の答えである.
 明らかに,著者らは摂食・嚥下機能が障害された人々の苦闘をよく知っているし,また,臨床家がそういう人々に行う評価・治療のアプローチ方法についてもよく理解している.また,彼女らは学生のこともよく知っている.それゆえに,構造,筋肉,運動に関する解説は臨床的背景・状況をもとにして述べられている.頭頸部構造を技巧をこらし,写実的に描いた図は,言語発声病理学の専門家にとってなじみのあるものだが,これらの図はよくある理想的な図である.著者らは,このような図を本書において示しているが,また別の種類の画像もわれわれに供覧してくれる.その図は,摂食・嚥下障害の評価に使われる臨床的検査,内視鏡による検査,またはVF検査から得られている.これらは説得力のある画像であり,筋肉や構造をより容易に覚えさせてくれる.実際,私自身,言語発声病理学において,これほど豊富に,わかりやすく図を例示して説明している本は,他には知らない.PEG挿入を見たいですか?3章の図10を見てください.様式化したものではなくて,実際の気管と食道の関係を見たいですか?同じく3章の図1を見てください.この本にはこのような図があふれている.
 この本の著者らは,研究者や臨床家が直面している種々の問題点についてもよく知っている.彼女らは,口腔や咽頭だけでなく食道についても論じている.その結果,この本は今後10年間に,言語療法士が口腔・咽頭と食道のメカニズム間の相互作用の問題に真剣に取り組み,またその両者の評価とマネージメントにおける彼らの存在位置を理解するようになるために役立つであろう.著者らは,現在行われているすべての行動的,医薬的および外科的治療における生理機能的根拠について論じている.いつか誰かが,そのようなことを強調するのはあまりにも幅を広げすぎだ,と彼女らに話したであろう.もしそのようなことがあったとしても,彼女らがそうした忠告を無視したお陰で読者はこの本から大きな恩恵を受けることになった.
 過去20年以上にわたって指導的役割を果たしてきた臨床家である彼女らは,臨床家たちに,治療決定の根拠を生理学的ならびに病態生理学的原則に置くように強く求めてきた.臨床家は最善のことをしたいと思っているが,これまでは種々な摂食・嚥下障害パターンをそれぞれに合致した特有の治療法に結びつけることに奮闘しなければならなかった.本書の3人の著者は,その進むべき最善の道を示しているのである.この本に出会った臨床家は,この本がきっと彼らの臨床の座右の書となるであろう.表6-5は,その意味でも十分に価値のあるものである.
 先にも述べたように,本書の著者らは学生のこともよく知っている.この教科書は,多くの図と,逸話と,臨床例と,魅力ある専門用語で充ち満ちている.思うに,この本は人を徹夜の勉強に引きつける.その理由は,テキストが威圧的であるからではなくて,この3人の著者が語る正常と異常の摂食・嚥下機能の物語がそれほど人を魅了するものだからである.
 この本は,3人の著者に週末と,睡眠と,体重を失わせる犠牲を払わせた.しかし彼女らは中途で諦めることなく頑張り通した.彼女らはやろうと思えばもっと手っ取り早い方法を選べなかったわけではない.しかし,そうはしなかった.それどころか勝利を収めたのである.その結果が,すばらしい学識と見事な洗練された文体をもった1冊の本として誕生した.この摂食・嚥下障害シリーズと摂食・嚥下障害分野の臨床家,科学者,そして学生たちの後援に感謝して.
 シリーズ編集責任者 John C.Rosenbek,PhD
  *訳者注:このシリーズはトムソン・デルマー摂食・嚥下障害学習シリーズ(Thomson Delmar Learning's Dysphagia Series)と名づけられたもので,この本が最新刊である.本書も含め,1999年からすでに7冊が出版されている.

原著序文
 本書は,特に摂食・嚥下メカニズムの解剖構造と生理機能について論じており,かつ言語発声とは直接的に関係しないが,正常の摂食・嚥下遂行能力および異常な摂食・嚥下行動を理解するために極めて重要と考えられるような教材の必要性から発展し,生まれたものである.通常の解剖学・生理学の教科書類は,正常や障害された摂食・嚥下機能という観点からは書かれていない.言語発声と摂食・嚥下に使用される大部分の解剖構造は同じであるとはいえ,その活動化が連続して起こる順序,活動への参加の程度,ならびに他の器官系との活動の統合の仕方は同じではない.たとえば,摂食・嚥下サイクル中における呼吸器系の役割は音声を作り出すときとは全く異なった方法で行われており,そしてそのような役割は摂食・嚥下に欠くことのできないものである.すなわちそれは,音声産出のために必要な,まだ未処理の材料(空気の呼出)を提供するということではなくて,摂食・嚥下の最中における呼吸の役割は,気道を外来物質(食物)から防御し,一時的に呼吸を停止することであり,これは摂食・嚥下にとっては必須なことなのである.嚥下と呼吸の協調は,摂食・嚥下障害の評価とマネージメントにおける一つの複雑で極めて重要な要素となる.同様に,食塊の物性と上食道括約筋(UES)開口時間の長さとの関係は,言語産出とは全く関連性がないものであり,また,言語療法士の臨床訓練プログラムに使用される解剖・生理学の教科書類のなかには,このことは含まれていない.食塊特性とその摂食・嚥下への有効性は,言語療法士が摂食・嚥下障害患者におけるカロリーの必要状態と適切な食事摂取を管理するために欠くことのできないものになる.このように,摂食・嚥下に使われる構造と機能に関しては,そのこと自体についての別の討論の場が必要なのである.この本に使われている材料はたしかに新しいものではないが,摂食・嚥下障害についてこの本に述べられている言語療法士の役割の全体観や将来予想は新しいものである.
 言語療法士は,音声言語産出のための解剖・生理学に関しては十分に行き届いた基礎学力をもっており,それはコミュニケーション学とその障害学に関する学習課題のなかで得られるようになっている.呼吸器系,発声系,構音系,共鳴体系,および神経系の構造と機能に関しては,卒前,卒後両方の教育レベルですべてをカバーしている.そして通常では,消化器系についてはそれほど深くは教育されていないし,他の器官系機能との複雑な相互作用については極めてまれにしか触れられていない.この本を書いている時点では,言語療法士のための多くの卒後教育プログラムにおいては,摂食・嚥下障害を勉強・研究するコースは置かれていない.今回のこの臨床に焦点を合わせた教本は,言語療法士や学生がもっている基礎的知識を,成人における正常摂食・嚥下の解剖・生理や摂食・嚥下障害の勉学・研究に応用し,その知識を広げるのに役立つべくデザインされている.すでに熟練している臨床家にとっては,この教本は,臨床検査において生理機能に基礎を置いた問題解決の仕方を理解し,明確にすることができるように,その能力をさらに促進すべくデザインされている.一般の解剖学教科書を,言語産出の構造と機能のすべての面に関する詳細な記述を加えることによって完全に書き改めることが,われわれの意図することではない.むしろ,われわれは摂食・嚥下機能に関係のある構造に焦点を絞ることに挑んできた.
 この本は,すでに発達・成熟したメカニズムに焦点を置いている.なぜならば,われわれが関係するかぎりにおける成人と小児の摂食・嚥下を考察すると,小児の問題において働いている無数の面をもった発達の諸要因を考えれば,この両者は明らかに別個の分野である.小児の摂食・嚥下問題に極めて重大な,感覚と運動技能の発達の順序と構造の成熟は,成人の場合とは異なった焦点の置き方をすることを求める.
 また,われわれが望んでいることは,この本に披露している資料が,摂食・嚥下のメカニズムの構造と機能について専門的な定義をしたり説明するための,各専門領域を超えた共通の基盤を提供することである.またそのことによって,超学問分野的摂食・嚥下障害チーム(trans-disciplinary dysphagia teams)のメンバーに,より広範な問いかけをすることである.さらに,このテキストの全般にわたって医学専門用語が使われているが,その意図するところは,医学的環境において必要とされる核心を成す語彙を提供することにある.可能なかぎりにおいて,同じ構造に対する多角的な共通用語が提供されている.このことを最もよく象徴しているのが,神経学,放射線学,耳鼻咽喉科学,胃腸病学,あるいは言語病理学のような,異なった専門領域によって作り出された専門語である.そこで巻末には,基礎的医学専門用語に不慣れな経験の少ない臨床家あるいは学生の役に立つように,用語解説集が用意されている.
 この教科書の第二の目標は,一人ひとりの患者のために答えを出すべき必要がある臨床的問題点を,そのなかで確認できるような臨床の枠組みを学生や臨床家に提供することである.摂食・嚥下障害に対して正確で望ましい結果を生む効率のよい診断とマネージメントを実行するには,その根拠として上気道消化管系の正常な解剖構造と生理機能を明確に,しかも広範囲にわたって理解していることが必要である.解剖構造,生理機能,ならびに臨床におけるマネージメントの本質は,別々のものではない.臨床におけるマネージメントの仕方は,患者一人ひとりがもっている構造と機能から知らされなければならない.摂食・嚥下障害をもつ一人ひとりの個人に対してどのようなマネージメント方策とテクニックを使って治療するかを決定するに際して,いわゆる“料理本”的な,決まりきった型どおりのアプローチをすることは,とんでもない結果に陥る可能性がある.そのような結果としては,最低限(たとえば摂食・嚥下機能になんらの変化ももたらさない)ですむ場合から,誤嚥の増加や肺炎の発症,さらには悲劇的な結果(たとえば死亡)に終わることすらある.摂食・嚥下機能における個人個人に特有な解剖構造と生理機能に慎重に注意を払うことは,マネージメントを成功裏に進めるために欠かすことができない条件である.
 われわれは,手に入れた初期の研究からの所見や文献に述べられている正常または異常な生理機能について,気前よく開放的に組み入れてきた.往々にして,医学やその他の言語病理学以外の分野からの研究は,言語療法分野の教育素材としてはそのままには組み入れられていない.これはまさに“諸刃の剣“であり,この急速に進歩を続けている摂食・嚥下障害の診断とマネージメントの分野においては,重要な研究が新しい考え方を打ち立てるだけでなく,過去の間違った考えをも明らかにしてきている.この分野の進展は,あたかも“今日信じられていることが,たびたび明日はもう間違いであったことが証明される”といえるほどである.われわれはこのことを認識しつつ,しかし一方では,臨床に関連する主要な研究を,臨床家が実務を進めるための理論的根拠に含める必要性を強く感じ,上気道消化器系の生理機能に関する最新の展望を提供することを試みてきた.われわれは,この複雑なテーマを理解し,さらに継続的な進歩発展を予知すると同時に,それを期待している.臨床家や学生は,上気道消化器系の生理機能についての基礎知識を,日々の臨床実務にうまく生かしていけば,失敗することはない.そうすることによって,この職業の一生の継続を通して方法論やテクニックを改め,適応させていくことが可能になるのである.

このテキストの構成
 われわれが意図しているこの本の主眼点は臨床である.それゆえに,この本の体裁は,臨床家や学生を,診断上の評価において実際に遭遇するであろう構造に道案内するようにデザインされている.始まりは口腔(1章)で,この部分は通常では視覚的に評価されるであろう.引き続く章は咽頭(2章)と食道(3章)であり,これらの部分は通常は放射線透視法や内視鏡によって評価されるはずである.4章では,臨床実地において考慮に入れておく必要がある正常摂食・嚥下機能の制御と,一連の摂食・嚥下の流れに及ぼす外部要因の影響に関する論点を探究している.5章には,摂食・嚥下メカニズムを測定する通常の臨床的方法と画像化のテクニックに関する詳細な全体像が示されている.6章と7章では,通常成人にみられる異常所見と,摂食・嚥下機能障害の基底にある生理機能について述べている.摂食・嚥下障害を引き起こす可能性のある神経原性の異常と構造的異常については,別々に取り扱って論じられている.また,現在使われている臨床的マネージメント戦略に関する学説の裏づけとなる理論的根拠を示している.われわれは,研究が臨床技法を裏打ちするよう強く推進されるべきであり,またすべての臨床専門家が治療成果を探究するために研究に参加するべきであることを強く感じている.
 このテキストブックを臨床的に意義のあるものにするというわれわれのゴールをさらに推し進めるために,各章全体にわたって,摂食・嚥下の分野で働いている臨床家にとって有用と思われるような普通の(あるいは滅多にない)臨床的情報をクローズアップするために,囲みのなかに“Clinical Note“を組み入れてある.また,読者が各章におけるキーポイントに注意を向けやすいように各章のはじめには学習目標が掲げてある.この学習目標は,教室での教育や自習において活用することができる.またさらに,臨床家や学生が,臨床における意思決定に際して解剖構造・生理機能的な要素を検討することを助長するようにデザインされた“設問”が各章末に用意されている.この設問に対する解答は,付録Bに示してある.その望むところは,自己決定的な学習を奨励することにある.
 読者諸氏が摂食・嚥下障害に対する診断とマネージメントの力量を伸ばし,磨きを掛けられるよう,時宜に適し,それ相応の価値があり,そして示唆に富んだ情報をこの本のなかに見出されることを著者一同,心から願うものである.
 著者 Kim Corbin-Lewis
 Julie M.Liss
 Kellie L.Sciortino

著者について
 Kim Corbin-Lewis(PhD,CCC*-SLP)は,ユタ州立大学コミュニケーション・聴覚障害教育学科の準教授である.博士号をウィスコンシン-マディソン大学で取得している.摂食・嚥下障害,運動性言語障害,音声・言語科学,ならびに解剖学と生理学の領域の教育に携わっている.Kimは,言語療法士として過去24年間にわたって臨床に従事してきている.
 Julie M.Liss(PhD,CCC-SLP)は,アリゾナ州立大学言語聴覚科学学科の準教授である.博士号をウィスコンシン-マディソン大学で取得している.摂食・嚥下障害,運動性言語障害,神経科学,ならびに解剖学と生理学の領域の教育に携わっている.
 Kellie Sciortino(PhD,CCC-SLP)は,アラバマ州都モントゴメリーで個人開業している.アリゾナ州立大学で博士号を取得している.摂食・嚥下障害,音声,脳顔面頭蓋異常の領域の教育に携わってきた.
 *[CCC:訳者注]
 ASHA(American Speech-Language-Hearing Association;米国言語聴覚協会)が承認する資格の一つで,“Certificate of Clinical Competence”(専門臨床免許)のことである.この免許を取得するには大変多くのリクワイアメントがASHAから課されており,しかもこれらのコース修了後2年以内に国家試験を受けなければならない.

原著謝辞
 多くの人々が,本書の執筆をサポートするために彼らの時間と,知識と経験をわれわれに分け与えてくださいました.V.Duane Bowman氏(MD)はその優れた臨床内視鏡写真で,Douglas Child氏(MD)は放射線医学用語と放射線画像の支援によって,Bryan Larsen氏(MD)はその鑑識眼のある内容解釈によって,Austin Spitzer氏(MD)はその所有されているX線画像を提供してくださることによって,そして,LeAnn Chlarson氏(MS,CCC-SLP)はそのVF画像をもって,それぞれの方々が快くご援助くださいましたことに感謝の意を表します.また,ユタ州立大学生物学学科のAndy Anderson氏には,その人体解剖研究室への出入りを許可していただいたことに対して,特別なる謝意を表明いたします.特に James Jones氏には,解剖に際して言語に尽くせないほどの貴重な援助をいただきました.
 Laura Parsons,Annie-Karine Lamoreaux,Danna Huntzinger,Eric Okelberryの諸氏には,図と用語集の準備,ならびに本文編集作業への尽大な貢献に対して,ここにわれわれの感謝の意を述べさせていただきます.特にBrynne Davies氏には,画像の準備における氏の支援に感謝申し上げます.
 本書の編纂途上において,ご協力とご支援をいただいた多くの編集担当者のうちから,Juliet Steiner,Debra Flis,Marie Linvilleの諸氏に感謝いたします.特にJuliet Steiner氏には,このプロジェクトを最初から完成まで気を配って見守っていただいたことに感謝いたします.この摂食・嚥下シリーズの1冊を書くことにわれわれを招待し,そして臨床に基礎を置いた解剖学の本を書くというチャレンジをさせていただいたシリーズ編集責任者であるJay Rosenbek氏(PhD)には心底からの感謝を捧げます.
 訳者のことば
 シリーズ編集責任者のことば
 原著序文
 原著謝辞
CHAPTER1 摂食・嚥下の口腔相構成要素の検討
 ●摂食・嚥下各期の概要
 ●摂食・嚥下メカニズムの構造的枠組み
  頭蓋,顔面頭蓋
 ●口腔関連構造の視覚的精査
  口腔顔面構造の解剖学的指標,唾液腺,口腔顔面を構成する筋,下顎運動の筋肉群,軟口蓋(口蓋帆)の筋
 ●感覚受容器
 Clinical Note
  1-1 スクウィレリング, 1-2 硬口蓋と軟口蓋の裂と欠損, 1-3 義歯, 1-4 乾燥症候群, 1-5 口唇を使う種々の作業時に必要とされる口唇の強さ
 ・要約
 ・設問
CHAPTER2 摂食・嚥下の咽頭相構成要素の検討
 ●咽頭相の概要
 ●咽頭の解剖学
 ●咽頭嚥下反応の誘因
  口蓋帆咽頭閉鎖,舌骨喉頭挙上,喉頭防御,前進性咽頭収縮,上食道括約筋の開大
 ●嚥下と呼吸
 Clinical Note
  2-1 感覚刺激法, 2-2 喉頭咳反射
 ・要約
 ・設問
CHAPTER3 摂食・嚥下の食道相構成要素の検討
 ●食道の構造
 ●食道の神経支配
  末梢神経系のコントロール,腸管神経系の調節
 ●食道への血液供給
 ●食道の生理機能
  上食道括約筋(UES),下食道括約筋(LES)
 ●マノメトリを使用した食道圧の測定
  食道圧に対する加齢と性別の影響
 Clinical Note
  3-1 自律神経系(ANS)各区分の機能, 3-2 迷走神経(第X脳神経), 3-3 食道声門閉鎖反射, 3-4 輪状咽頭筋切開術の成績, 3-5 ツェンカー憩室の形態学的素因, 3-6 経腸的栄養補給と非経口的(腸管外)栄養補給の相違点
 ・要約
 ・設問
CHAPTER4 正常摂食・嚥下機能の制御
 ●摂食・嚥下のモデル化と摂食・嚥下障害
  運動等価,食塊の特性,(摂食・嚥下をする)人間側の可変要素
 Clinical Note
  4-1 加齢か病変か
 ・要約
 ・設問
CHAPTER5 口腔・咽頭と食道の直接的・間接的観察法
 ●生体の解剖学的諸平面
  横断面から見た解剖学的構造,側面から見た解剖学的構造,前後方向から見た解剖学的構造,上方から見た解剖学的構造,斜方向から見た解剖学的構造
 ●各種画像診断法
  内視鏡検査法,コントラスト X線撮影法,核医学―シンチグラフィ,コンピュータ連動断層撮影(CT)と磁気共鳴画像法(MRI),咽頭圧・VF検査
 ●マノメトリと pH測定検査
 Clinical Note
  5-1 解剖学的スライス面とは何か?また,どのようなときにそのようなスライス像を見るのか?, 5-2 X線撮影装置のタイプ, 5-3 バリウム, 5-4 調節機能を備えた椅子, 5-5 バリウム・パン/レシピ
 ・要約
 ・設問
CHAPTER6 神経(原)性摂食・嚥下障害の生理学的基礎と治療戦略
 ●神経病理学
 ●摂食・嚥下の神経(性)調節
 ●神経(原)性摂食・嚥下障害
  神経(原)性摂食・嚥下障害の口腔期症状,神経(原)性摂食・嚥下障害の咽頭期症状,神経(原)性摂食・嚥下障害の食道期症状
 ●神経(原)性摂食・嚥下障害の臨床像(各種疾患)
  大脳半球と脳幹の障害,脱髄疾患,運動障害:錐体外路疾患と小脳の障害,運動単位障害,筋ジストロフィー症とその他のミオパシー,結合組織疾患,治療に際して考慮すべきこと
 Clinical Note
  6-1 サイレント・アスピレーションの神経生理学, 6-2 サイレント・アスピレーションの鑑別, 6-3 合併症としての痙攣性発声障害と摂食・嚥下障害治療に用いられるBotox, 6-4 LES機能不全に対する Botoxによる治療
 ・要約
 ・設問
CHAPTER7 構造的病因による摂食・嚥下障害の生理学的基礎と治療戦略
 ●急性に発生する構造的変化
  偶発的外傷,医療的-外科的損傷,感染,化学物質,毒素によって二次的に発生する構造の変化
 ●慢性的に進行する変化
  骨棘,食道の異常
 ●頭頸部癌
  癌の外科的治療
 ●咽頭癌
 ●喉頭癌
  声門上喉頭切除術,片側(半側)喉頭切除術,喉頭亜全摘出術,喉頭全摘出術,咽頭喉頭食道摘出[術]
 ●食道の新生物(良性および悪性)
 ●頭頸部癌の放射線治療
 Clinical Note
  7-1 カフ付きカニューレは誤嚥を防止しない, 7-2 気切患者の誤嚥検出のための改良エバン・ブルーダイテストの利用, 7-3 音声訓練は声門閉鎖機能を強化する, 7-4 ツェンカー憩室に関連する諸症状
 ・要約
 ・設問
EPILOGUE 終章 将来の動向
 付録A 脳神経の診査法
 付録B 各章の設問に対する解答
 Glossary(用語解説集)
 巻末付録(訳者注 210 頁):食道炎グレーディング・スケール
 巻末付録(訳者注 210 頁):GERDの QOLスケール
 索引