やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社



 少子高齢化と歯科医師過剰により,日本の歯科医療も大きな転換点を迎えて,診療室内での疾病対応に偏した医療から,地域のなかで住民の口腔保健全般に責任をもつ医療へのシフトの必要性が語られています.そのなかで,従来の齲Aや歯周病の予防・治療という狭い枠を超えて,「生涯,口から食べたい」という人たちの願いに応えることも歯科医療の大きな使命であることが,最近,随所で強調されるようになりました.
 食べる機能に障害をもった人のための「摂食機能療法」は,1994年に歯科保険に適用され,訪問診療のなかで歯科医師・歯科衛生士が取り組むことが可能になっています.また,2000年春に発足した介護保険制度では「居宅療養管理指導」により,歯科医学的管理に基づく情報提供と要介護者やその家族に対する指導・助言・管理も可能となりました.しかしながら,現実は,歯科医療関係者がこうした医療を担えるような知識・技術・体制等を有しているとはとても言えない状況にあります.
 この状況を打破しようと,最近,摂食・嚥下障害の講習会などを受講する歯科医師や歯科衛生士も徐々に増えているようですが,残念ながら地に足のついた活動に結びついていない例が少なくないように見受けられます.どうやら,摂食・嚥下障害に取り組むには,従来の歯科医学とは全く異なる医科の専門の学問を学び,全く異なる医療領域に踏み込まなくてはならないという誤解が,その背景にあるようです.
 摂食・嚥下障害が発生する場合,その運動障害部位が主に口腔期にあったり,あるいは口腔期と咽頭期に併存したりする場合が多くみられます.実際,口腔にアプローチをするだけで改善がみられる患者がかなりの割合を占めているというのは,すでに訪問診療でこの問題に取り組んでいる多くの歯科医師や歯科衛生士の実感でもあります.この事実は,診断・治療の手技からリスク管理にまで精通しなくては摂食・嚥下障害に取り組めないわけではないこと,そして,歯科医療関係者には病院で診療に携わる摂食・嚥下障害の専門家とはまた別のフィールドがあることを示唆しています.
 患者から請われれば気軽に訪問診療に赴き,治療を行ったあとは必ず自分の治療の結果を見る,つまり食事が不自由なくできるかどうかを見ることを励行しさえすれば,摂食・嚥下に障害のある患者の存在に気づかざるをえません.気づいたならば,一人ひとりに驚くほど個人差のある,食べるペース,一度に口に入れる量,口の動かし方,姿勢等々を丹念に観察することにより,どこに問題があるのか,どこにアプローチしたらよいかがおのずと見えてくるはずです.このように,患者自身から教わるという姿勢をもって臨めば,摂食・嚥下障害へのアプローチの大まかな道筋は見えてくるのではないかと思われます.誤解を恐れずに言うならば,いままで歯科医療関係者がもっていた知識と技術に,ほんの少しばかりの知識・技術と,ほんの少しばかりの新しい道具を加えれば,運動障害部位の多くが口腔期にある在宅の慢性期の摂食・嚥下障害患者には,とりあえずは対応できるのです.
 もちろん,なかには難しい患者もあり,その見極めの力だけは養ってしかるべき専門家に紹介できるようにする必要はあります.また,楽に取り組めるには当然,他職種との連携も重要であり,対応の難しい患者のときには病院との連携も必要です.さらに,地域の歯科医師会の支援システムを築き上げることは,これからの大きな課題と言えましょう.
 いずれにせよ,医師の多くが専門医指向をますます強めている今日,病院から在宅に帰った慢性期の食べる機能に障害をもった患者を,最期のときまで口から食べられるよう援助することは,歯科医療関係者が中心にならなくてはできません.口のケアは,いったん本気でかかわるとターミナルまで続くものだからです.その取り組みはまた,「寝たきり」を予防することにもつながるという,大きな医療効果の可能性を秘めています.
 そこでこの別冊では,摂食・嚥下障害の治療もしくはリハビリテーションというものをことさら難しいもだと考えるのをやめ,大勢の歯科医療関係者の経験と事例,現場でのヒントなどを広く紹介することにより,一人でも多くの歯科医師が自分の日頃の診療の延長線上にあるものとして取り組むきっかけになるようなものにしたいと考えました.
 なお,タイトルを「食べる機能を回復する口腔ケア」としたのには,理由があります.今日,一般的には,歯科における口腔の機能障害へのアプローチは,いわゆる「口腔ケア」とは別のこととして語られています.これは,従来の口腔ケアが,機能の問題に全く触れないで形態にだけ目を向け,口腔の清掃だけで終わっていたことに起因しています.つまり,機能にまでアプローチすることを表現するには,「口腔ケア」以外の用語を用いざるをえなかったわけです.しかしながら,実際の口腔内は機能が落ちると不健康になり,細菌叢も悪化します.したがって口腔ケアは,口腔の機能のケアも一緒に行わないことには,言葉本来の目的は果たせません.「食べる機能を回復する口腔ケア」は,摂食・嚥下障害へのアプローチもこれからの歯科には特別なことではないのだ,歯科の行う口腔ケアのなかに自然に含まれるものなのだという意味を込めたネーミングです.
 ちなみに,「食べる機能」の障害を語るとき,障害児の発達障害は重要な問題ですが,本書では頁数等の関係から,高齢・中途障害者の機能障害に限定しました.
 本書が読者諸氏の参考となり,それが在宅・施設等に潜在する「食べる機能の障害」に苦しむ多くの人々の助けになり,QOLの向上に少しでも資することを願っています.
 2003年11月
 編集委員 金子芳洋(明海大学歯学部客員教授)
 加藤武彦(横浜市港北区開業)
 米山武義(静岡県駿東郡長泉町開業)
歯界展望/別冊 食べる機能を回復する口腔ケア 目次

目次
執筆者一覧

1.どう取り組むべきか
 口腔のケアに取り組む視点
  金子芳洋
 生涯にわたる口腔ケア
  米山武義
 歯科ができる“食べられる口”づくり
  黒岩恭子
 歯科に障害学を−形態回復と機能回復の調和を求めて−
  角町正勝
 訪問で,口から食べるところまでみれば機能障害がわかる
  加藤武彦
2.口腔ケアの知識と技術
 摂食・嚥下のしくみとその障害を理解するための基礎知識
  金子芳洋
 口に障害をもたらす疾患の基礎知識
 総説
  金子芳洋
 脳卒中(脳血管障害)
  植田耕一郎
 Deconditioning;廃用症候群
  金子芳洋
 頭頸部癌の治療後に後遺する摂食・嚥下障害
  高橋浩二
 細菌をコントロールする口腔ケアの実際
  米山武義
 口の機能を回復する口腔ケアの実際
  植田耕一郎
 口の機能の評価法と,口の機能を回復する口腔ケアの実際
  角町正勝
 歯科(義歯)治療を伴う口腔の機能回復
  五島朋幸・加藤武彦
3.さまざまな取り組み
 口腔ケアを支える他職種との連携
  光銭裕二
 「食介護」が広げた多くの職種との連携
  市川文裕
 障害者を支援する制度の整備とチームアプローチ
  篠塚光久
 食の支援としての口腔領域のケアと地域歯科医師会−町の歯医者としてかかわってきたこと
  細野 純
 まずは歯科医師,歯科衛生士,歯科技工士の連携から
  糟谷政治
 多くの人に支えられ,試行錯誤を重ねて学んだ
 摂食・嚥下リハビリテーション
  森田憲治
 摂食機能療法の効果を高めるケアカンファレンスの活用
  村田俊弘・加納恵子・臼本鏡子・小田見也子
 在宅・慢性期の患者への対応を求めて
  村内光一
 連携による協働の心地よさ−歯科だからこそできること−
  足立 融
 医師会・歯科医師会の共同で始まった多職種のネットワーク
  升田勝喜
4.歯科医師会のシステムづくり
 研修会開催から実践・研修の場の構築へ−千葉県歯科医師会の取り組み−
  翠川B生
 5 年間続いたリハビリテーションセミナー−愛知県歯科医師会の取り組み−
  東松信平・加藤友久・中島俊朗
5.ワンポイントアドバイス
 (1)簡便な診断法
 摂食・嚥下障害(誤嚥を含む)を疑うチェックリスト
  金子芳洋
 反復唾液嚥下テスト,改訂水飲みテスト,フードテスト
  植田耕一郎
 開業医が簡単にできる聴診法
  金子芳洋
 (2)環境の整備・姿勢の確保
 環境の整備
  米山武義
 肺理学療法(呼吸機能訓練)の基本
  米山武義
 (3)食事の前に
 食事の前のリラクセーションと口の体操
  黒岩恭子
 (4)口腔ケアのヒント
 介護の現場で行う口腔ケアのヒント
  米山武義
 便利な口腔ケアグッズ
  牛山京子
 くるリーナブラシと吸引くるリーナブラシ
  黒岩恭子
 システム化された口腔ケアと器具
  角保徳
 (5)口腔乾燥症対策
 口腔乾燥症の原因
  柿木保明
 口腔乾燥症の対応のポイント
  柿木保明
 人工唾液を用いた口腔乾燥症への対応
  小林直樹
 (6)口のリハビリのヒント
 顔面・舌の体操とストレッチ
  黒岩恭子
 口のリハビリテーションのための便利な道具と使い方
  黒岩恭子
 口のリハビリテーションのヒント
  升田勝喜
 (7)介護食・嚥下食
 簡単にできる介護食・嚥下食
  市川文裕
 (8)食後に
 食後の座位,薬の飲み方
  金子芳洋
6.より詳しく知りたい方へ