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はじめに―Wnt研究:日本からの情報発信
 菊池 章
 大阪大学大学院医学系研究科分子病態生化学
 Wntは動物の発生に必須の細胞外分泌蛋白質である.その機能は多岐にわたり,Wntシグナルの異常は種々の疾患と関連する.Wntシグナルに限ったことではないが,細胞内外のシグナル伝達機構は遺伝情報や可溶性因子からの情報,接着による情報等を機能的に具現化し,表現型として示す生体のシステムとして捉えることができる.したがって,Wntの研究領域はショウジョウバエ,線虫の遺伝学からヒトの疾患治療開発まで多様であり,世界中の多くの研究者が携わっている.
 最近の研究参入者の増加に伴って,毎年1〜2回のWnt関連会議が世界のどこかで開かれている.どこかといっても北米か,ヨーロッパのユーロ圏である.たとえば,2年に一度くらいの割合で“Wnt meeting“なる会が北米で開かれる.これは学会組織ではなく,Wnt研究の牽引者のひとりであるRoel Nusseの研究室のラボミーティングが発展したものといわれている.参加希望者が提出した抄録のなかから選出されたtalk(持ち時間10分)が,3日間朝から晩まで続く.会のポリシーはNo invitation(招待講演なし),No excursion(アミューズメントなし),No introduction(最新のデータのみを話す)である.広報活動はRoel Nusseの研究室のホームページに,今年はいつどこで開催されると書かれているので,参加希望者はそれをみつけて抄録を提出しなければならない.このような会に毎回300〜350名の研究者が世界中から集まるのである.そこに行けば,最新の知見に触れることができ,さらに今後のWnt研究の動向が語られることを皆知っているからであろう.そして,その会での発表内容は“Meeting report”と称して種々のジャーナルに掲載される.情報量の多さと伝達スピードの速さに圧倒される.
 インターネットにより,簡単に世界とつながり情報を入手することができるようになった.しかし,分厚い情報を発信していくには,人が集まり討論することも重要であろう.また,情報を発信している場所と認識されることが,世界から人を呼び込む原動力になるのであろう.わが国の個々の研究レベルはけっして低いものではない.“Wnt研究“に限っても本特集で示したように,優れた成果を出している研究者がある一定数存在する.しかし,その層の厚さには限りがあり,世界の“Wnt研究”において強いメッセージを発信しているのであろうか.研究者数の問題や言語の問題,基幹ジャーナルの問題など,乗り越えなければならない課題は多い.
 日本単独で無理であれば,中国や韓国とも連携しながら,東アジアから多くのインパクトのあるメッセージを発信していくことも必要であろう.東アジアにおいて“Wnt meeting”が開催され,欧米からの多くの研究者が集うことになってはじめて,欧米以外の情報発信の拠点として認知されたことになる.このような情報発信のための戦略を練り,実現することが個別の研究の質の向上にもつながると思われる.
 本特集は国内向けの“Wnt研究”の現状のメッセージであるが,この内容が固まりとして世界に認知されるための努力を続けることが必要である.
 はじめに―Wnt研究:日本からの情報発信(菊池 章)
Wntシグナルと細胞応答
 1.Wnt蛋白質の翻訳後修飾・細胞内輸送と細胞外拡散(中山 啓・高田慎治)
  ・Wnt蛋白質の翻訳後修飾
  ・Wnt蛋白質の分泌経路および品質管理機構
  ・細胞外環境における拡散制御
  ・今後の展望
 2.Wntシグナル経路の多様性と選択的活性化(山本英樹・菊池 章)
  ・Wntシグナル経路による細胞応答
  ・異なるエンドサイトーシス経路によるWntシグナルの制御
  ・Wnt以外の分泌蛋白質によるWntシグナルの制御
  ・その他の機構によるWntシグナルの制御
 3.Wnt5aとRor2によるシグナル伝達と細胞機能制御(西田 満・他)
  ・Wnt5aの受容体としてのRor2
  ・Wnt5a-Ror2シグナルと細胞機能制御
  ・Wnt5a-Ror2シグナルの異常と癌の関連
 4.細胞周期制御におけるWntシグナルの役割(菊池浩二・菊池 章)
  ・Wnt/β-catenin経路によるG/S期移行制御
  ・G/M期におけるWnt/β-catenin経路の制御機構
  ・有糸分裂期におけるWntシグナル経路に関与する蛋白質の機能
 5.Wntによる細胞極性と非対称分裂の制御―秩序だった細胞多様性の創出機構(杉岡賢史・澤 斉)
  ・平面内細胞極性経路と細胞極性制御
  ・Wntシグナルによる非対称分裂の制御
  ・Wntシグナルによる細胞極性制御と転写制御との密接な連携
 6.転写因子TCF/LEFの修飾によるWntシグナル制御(石谷 太・石谷 閑)
  ・Wntシグナルの細胞内における情報伝達機構
  ・NLKによるTCF/LEFのリン酸化
  ・TCF/LEFのユビキチン化
  ・PIASyによるLEF1,TCF4のSUMO化とその制御
  ・ショウジョウバエや線虫におけるTCFホモログのアセチル化
  ・TCF/LEF修飾研究の今後
 7.Wnt/PCPシグナルにおけるユビキチンシステムの役割(木下典行)
  ・Dshのユビキチン化による制御
  ・PCP蛋白質の局在制御とユビキチンシステム
  ・PCPシグナルが制御する細胞運動とユビキチン化
Wntシグナルと発生
 8.Wntシグナルとマウス前後軸決定―Wnt拮抗因子Dickkopf1遺伝子に着目して(木村-吉田千春・他)
  ・マウス胚における前後軸決定機序
  ・Dkk1遺伝子はcanonical Wntシグナル経路の拮抗因子として働く
  ・遠位臓側内胚葉移動におけるDkk1遺伝子の機能
  ・前脳誘導におけるDkk1遺伝子の機能
 9.Wntシグナルと心臓形成(塩島一朗・小室一成)
  ・古典的Wnt経路と心臓発生
  ・非古典的Wnt経路と心臓発生
 10.骨芽細胞・脂肪細胞分化におけるWntシグナル機能(高田伊知郎・加藤茂明)
  ・骨芽細胞分化におけるWntシグナル機能
  ・脂肪細胞分化・代謝疾患におけるWnt機能
  ・脂肪細胞分化制御因子PPARγ
  ・脂肪・骨芽細胞分化におけるPPARγとWntシグナルのクロストーク
 11.Wntシグナルと腎形成(阪口雅司・西中村隆一)
  ・Wnt9bおよびWnt4による間葉の上皮化(mesenchyme-to-epithelial transition:MET)
  ・後腎間葉の上皮化におけるカノニカルおよび非カノニカル経路
  ・間葉の未分化細胞とWntシグナル
  ・尿管芽由来のWntによる間葉内GDNFの維持
  ・Wntシグナルによる尿管芽の分岐・伸長
 12.外生殖器・内生殖器発生過程におけるWntシグナルの役割(原田理代・山田 源)
  ・マウス外生殖器の発生
  ・初期の生殖結節発生過程におけるWnt-β-cateninシグナルの機能
  ・外生殖器の雌雄差形成過程におけるWnt-β-cateninシグナルの機能―性差の構築に必要なアンドロゲンシグナルと細胞増殖因子シグナル
  ・内生殖器発生過程におけるWntシグナルの機能
Wntシグナルと幹細胞ならびに治療戦略
 13.胚性幹細胞におけるWntシグナルの役割(丹羽仁史)
  ・Wntシグナルは多能性維持に十分かもしれない
  ・Wntシグナルは多能性維持に十分かもしれないというのは本当か
  ・でもWntシグナルはある条件では多能性維持に十分かもしれない
  ・なぜWntと多能性の関係はかくも複雑なのか
 14.Wntシグナルと腸管上皮幹細胞(佐藤俊朗)
  ・腸管上皮細胞
  ・腸管上皮におけるWntシグナル
  ・腸管上皮におけるWntシグナルの機能
  ・Wnt標的遺伝子,Lgr5を用いた腸管上皮幹細胞の同定
  ・Wnt活性化シグナルを用いた腸管上皮幹細胞培養の確立
 15.造血幹細胞をめぐるWntの謎―造血幹細胞の自己複製に対するWntの作用(依馬秀夫)
  ・造血幹細胞は自己複製するか?
  ・なぜWntなのか?
  ・自己複製因子とは?
  ・Wnt3aは造血幹細胞の自己複製因子か?
  ・β-cateninは造血幹細胞の自己複製において中心的役割を果たすか?
  ・Frank Staalの観察
  ・David Bodineの観察
 16.Wnt・FGF・Notchシグナル相互作用による神経幹細胞自己複製の制御機構(鹿川哲史・田賀哲也)
  ・WntシグナルとFGFシグナルの相互作用による神経幹細胞増殖促進
  ・Wnt・FGF・Notchシグナル相互作用による神経幹細胞分化抑制
  ・シグナル交差点分子GSK3
  ・関連する研究報告
 17.網膜再生とWntシグナル(須賀晶子・高橋政代)
  ・網膜の構造
  ・神経幹細胞・前駆細胞からの神経細胞の再生
  ・網膜における神経細胞の新生
  ・両生類・魚類・鳥類の網膜の再生
  ・哺乳類の網膜の再生
  ・Wntシグナルはミュラーグリアの増殖を促進する
  ・ミュラーグリアの増殖を促進するその他のシグナル
  ・GSK-3阻害薬はミュラーグリアの増殖を促進する
  ・ミュラーグリアの役割とは?
  ・ヒトの網膜は再生するのか
 18.創薬ターゲットとしてのWntシグナル伝達系(坂中千恵)
  ・Wntシグナルに関する研究のマイルストーン
  ・Wntシグナルと発癌
  ・Wntシグナルと骨代謝
  ・分子標的医薬のターゲット
  ・他のシグナル伝達系とのクロストーク

 サイドメモ目次
  脂質ラフト
  紡錘体軸の制御機構
  微小管-動原体結合
  紡錘体チェックポイント
  Wntシグナルによって制御される細胞移動
  Wntシグナル
  PML核小体
  Wnt関連因子におけるパターニングにかかわる遺伝子欠損マウスの知見
  Wnt-5a/NLK/PPARγ
  マウス遺伝子改変技術
  マウスES細胞/EpiSCsとヒトES細胞
  腸管上皮幹細胞の位置
  Lgr5の検出
  造血幹細胞の定義と検出方法
  分子標的薬
  薬剤のスクリーニング