やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

推薦のことば
 「根拠に基づいた医療」(EBM),「根拠に基づいた療育・訓練」(EBP)の視点で構成された専門書は巷にあふれている.本書の方向性は「根拠に基づいた方法論の選択とそのために必要な思考力,そしてその思考力を支えるための知識」の視点で全章が構成されており,巷にあふれる専門書とこの点で大きく異なる(と私は見ている).さらに「当たり前」と捉えられた事象にも敢えて疑問を持つ姿勢が貫かれている.「専門職が発揮すべき専門性は何に向けられるべきか」を考えさせられる本である.
 医療従事者の現状を鑑みれば言語聴覚士国家試験の合格率は70%程度と他の療法士に比して厳しい.その結果,養成段階では応用力よりも国家試験に合格するための知識の習得に重きが置かれてしまっている.現場でも昨今の障害の多様性に伴い医療従事者に多くの「引き出し」が求められる現状にあることから,言語聴覚士自身も即時的に結果が見えやすい定型化された方法論に安易に走りやすい傾向にある.
 本来の医療従事者の存在意義は生命予後を改善するだけでなく対象児・者の「しあわせ」に資するために個々のニーズに応じて生活の質の向上に資する(機能的予後の向上)にあることは言うまでもない.目の前にいる我々がサービスを提供する対象児・者は一人ひとり症候もニーズも千差万別であり,本来「全ての事象に疑問を持つ観察眼」や「既存知識を如何に応用して運用していくか」といった資質が医療従事者に必要とされるが,知識習得やHow to重視となっている現状では,戦略的なケアを考える余裕も資質も育ちにくいのが実情である.
 この本はそういった現状に一石を投じ,本来の医療従事者のあるべき姿(原点)に立ち返って「オーダーメイドの医療や療育」を目指すために我々に必要な視点や示唆を多く与えてくれているように思われる.
 第1章では一般的な聴器の解剖と生理について述べられている.例えば,耳介や外耳道の構造に関して,我々が昔「聴覚障害学」で学習したテキストでの記載は構造と神経支配の数行にすぎない.正直なところ試験後に再び読まれることはなかった.一方,本章では単なる器官の説明はむしろ副次的となっている.耳介構造が実際に聞こえに与える影響,外耳道形状と特定周波数の増幅と加齢との関係といったゴールである「聞こえ」機能から必要な知見をわかりやすく解説することに力点が置かれている.さらに多くの専門家に些細な当たり前の事象に注意と疑問を向けさせるような仕掛けが丁寧になされている.例えば私が興味を持ったのは「鼓膜張筋やアブミ骨筋が発声準備電位に連動する」といった記載である.「発話の流暢性を維持するうえで聴覚の役割が・・・・」なんて自分の専門に照らし合わせて考えながら読ませていただいた.専門家には是非ただ読むだけではなく「自分ならどう考えるか,どう理解するか」を想定し,思考力を使いながら読んでいただきたい.
 第2章では,脳科学の観点から高次脳機能としての「聞こえ」について主に語音認知に至るまでの聴覚情報処理を古典的,非古典的の二重経路モデルで説明している.注目すべき点は,聞こえにおける周波数分解能だけでなく時間遷移とプロソディの関係について言及し,言語やコミュニケーションスキルに与える影響を示し重要視したことにある.聴覚の現場でもその重要性はわかっていながらもスキルとの関係性を明確に示したものは決して多くない.また,第一言語として習得する言語の音素・音韻特異性が聴覚(聴能)に与える影響をわかりやすく示している.
 第3章ではコミュニケーションの基礎について述べられているが,記載されている事項は,おそらく医療従事者であれば最低限度抑えておくべき事柄といえる(この章を読まれた後に司馬遼太郎の『おお,大砲』を読んでみるとよい).また,若手の言語聴覚士には日本語の特徴と英語の相違,それが聞こえに及ぼす影響について是非知っておいていただきたい.本章では言語モダリティの各側面に聞こえが及ぼす影響とまでは踏み込んでおらず,統語や語用と「聞こえ」の関連性について十分な記載がなく「聞こえと音韻論」の段階にとどまっていること,また前言語期の非言語的コミュニケーションが音声言語に移行するプロセスについて言及されていない点は残念である.手話を一つの言語として捉えれば,その成立(獲得)過程についても著者のご意見を是非伺いたかったところである.
 第4章,第5章はまさに著者の本領発揮というべき章であろう.第4章では言語習得期前難聴についてわかりやすく類型して述べられており.遺伝カウンセリングについても難聴だけでなく,広く医療従事者として最低限度知っておくべき事項について触れられている.第5章では二次的な抑うつや耳鳴と感覚入力の関連性など最新の知見がふんだんに盛り込まれている.
 最後に,耳鼻科の医師のなかには「言語聴覚士は聴覚に関連することに特化し言語や高次脳に手を伸ばすべきではない」,「言語発達はあくまで聴能改善の従属変数」といった考えを持った先生もいまだ決して少なくない.そのなかで聴覚を専門領域とする著者による本書を通じて生涯発達の観点から「聞こえ」について考えることができたことは,私にとって貴重な経験となった.医療従事者にはただ知識享受型の専門書として読むのではなく,是非自分なりの視点を持って読んでいただきたい.
 全編を通じて興味深い複数の事象について独特の視点での記載や独特の専門用語の使用がなされており,神経心理の専門家には正直違和感を持つ方もおられるであろう.そういった方は自分の仮説を持ったうえで是非批判的に読み進めてみるのも一興ではないだろうか.おそらく著者である中川先生は皆さんと前向きに意見を戦わせることを心待ちにしているはずであるから.
 2015年5月
 川崎 聡大


はじめに
 『平成26年版高齢社会白書』(内閣府)は,日本人口の25.1%がすでに65歳以上と報告している.『平成26年版少子化社会対策白書』(内閣府)は,出生数が1991年以降おだやかな減少傾向にあって,平成60年に日本の人口は1億人を割ると推定している.日本は,少子高齢化人口減少社会といういずれの先進国も過去に経験したことのない課題に直面している.
 少子高齢化人口減少社会であっても,持続的に成長可能な社会を維持していくためには,すべての高齢者は健康長寿であり,生涯現役であることが求められる.少ない子どもたちのすべてに社会の担い手としての将来の活躍が期待される.高齢者の認知機能を高いレベルに保持すること,子どもたちをより賢く育むことは,この国の課題といえる.
 認知とは,末梢受容器において受容された感覚情報を中枢の情報処理系において,検知・選択・判断する作業である.「聞く」を「聴く」に変換し,「話す」という表出行動に至る一連のプロセスである.人と人がお互いにキャッチボールするように相手の発信した情報を受容し,それに対してレスポンスする.その繰り返しがコミュニケーションである.正常な認知機能あるいは賢い脳を育むために,「耳と脳」の機能について言語聴覚士や耳鼻咽喉科医は深い知識をもっておく必要がある.
 本書は包括的ケアの担い手である言語聴覚士およびコミュニケーション医学に関わる専門家や学生を対象に,筆者のつたない臨床経験や脳機能画像研究に関わって学び得た知見をもとに「臨床聴覚コミュニケーション学(試論)」として書き下ろしたものである.ヒトの「耳と脳」の構造と働きについて学び,「聞こえ」と「聴こえ」という視点から聴覚の発達や生理について,脳科学的視点も交えながら論考していく.健聴者の耳からの学びのメカニズムを学ぶことを通じて,聴覚障害者の抱える学び上の課題「個性」について考察を深めてみたい.さらに医療者が見逃しがちな聴覚障害者の抱えている文化的あるいは社会的な側面や遺伝診断が及ぼす社会心理的不安という課題にも踏み込む.
 筆者は常々,医療という概念は「医学プラスα」として医学よりも上位の概念として実践されなければならないと考えている.
 アクセシビリティが担保され,包括的・継続性が担保され,かつ文脈を踏まえたケアなしにクライエントの最大利益は生まれない.それゆえのチーム医療・多職種連携であるが,こと聴覚障害のケアにおいて,それが実現しているかと問われるとはなはだ心許ないものがある.ケアの実践において言語聴覚士は様々に重要な役割が求められている.そしてそうした立場から最新医学の実践者である耳鼻咽喉科医と連携を深めていかなければならない.クライエント本位のシームレスで質の高いケアの実現にはそうした視点が欠かせない.
 本書を通じて読者に脳科学がもたらした新しい考え方,我々が見落としがちな社会医学的問題に対して気づきをもたらすことに成功していたならば幸いである.
 2015年春
 中川 雅文
 推薦のことば(川崎聡大)
 はじめに
 目次
第1章 聴器(外耳・中耳・内耳)の解剖と生理
 耳の構造
 外耳
  1 耳介
  2 発生
  3 外耳道
   1)外耳道共鳴
   2)実耳特性による評価の意義
 中耳
  1 概要
  2 鼓膜・耳小骨
  3 中耳・内耳における増幅
 内耳
  1 概要
  2 蝸牛の構造
   1)蝸牛における音の受容
   2)OHCによる機械的な増幅(耳音響放射)
   3)TEOAE(transient evoked otoacoustic emission;誘発耳音響放射)
   4)内耳伝音系
 ヒトの声や聞こえはどのように規定されているのか?
第2章 脳と聴覚経路─脳科学の進歩を踏まえて
 聞くと聴く
 聴覚の伝導路〜古典的聴覚路と非古典的聴覚路〜
  1 古典的聴覚路
  2 非古典的聴覚路
 脳とことばの学習
  1 はじめに
  2 ことばの獲得
  3 音の選択
  4 胎生期におけることばの学習
  5 出生後からのことばの獲得様式
  6 新生児期におけることばの発達
  7 幼児期のことばの発達
  8 学童期以降のことばの学習
 聴覚と他の感覚モダリティとの相互作用
 トップダウンとボトムアップ処理
  1 認知プロセスの2 つの様式
  2 母語学習,最初はボトムアップ
  3 プロソディ知覚
  4 トップダウンに必要な脳内処理資源とは何か?
  5 高齢者のトップダウン
 ろう児と難聴児のことばの獲得
   1)健聴の両親から生まれた難聴児の場合
   2)健聴の両親から生まれたろう児の場合
   3)ろう者の両親から生まれたろう児の場合
   4)ろう者の両親から生まれた健聴児
  1 聴覚皮質
第3章 「聞こえ」,「聴こえ」の障害とコミュニケーション
 コミュニケーションとは何か?
  1 現代社会におけるコミュニケーション
 コミュニケーション能力を発揮するのに必要な要件
  1 コミュニケーション手段の変容
  2 言語的コミュニケーション能力
  3 非言語的コミュニケーション能力
  4 隠喩を理解する能力
  5 異文化コミュニケーション能力
  6 論理的コミュニケーション能力
   1)文化的側面
   2)言語的構造上の課題
   3)論理性を高めるためのソリューション
  7 共感的コミュニケーション能力
  8 聴くこと
  9 傾聴力
  10 学習力(学ぶこと)
  11 注意力
 ろう者とのコミュニケーション
   1)筆談によるコミュニケーション
   2)読話によるコミュニケーション
   3)読話の困難さの要因
   4)手話
第4章 成長過程における聴覚障害
 先天性難聴
  1 遺伝性難聴
  2 非遺伝性難聴
  3 周産期の感染や障害に伴う難聴
   1)サイトメガロウイルス感染症
   2)先天性風疹症候群(congenital rubella syndrome:CRS)
   3)先天性梅毒
   4)先天性トキソプラズマ感染症
   5)聴器毒性のある薬物の使用
   6)低出生体重児
   7)高ビリルビン血症
   8)新生児髄膜炎
   9)新生児仮死
   10)人工呼吸器管理
 遺伝診断と遺伝カウンセリング
  1 遺伝診断
  2 遺伝カウンセリング
  3 難聴に関する遺伝診断
  4 新生児聴覚スクリーニング
 親の心のケア
  1 耳鼻咽喉科二次スクリーニングにおける留意事項
  2 難聴の診断がついて以降の対応
  3 両親への説明時の留意点
 ベビー型補聴器と人工内耳
  1 ベビー型補聴器
  2 人工内耳
 出生直後における脳の発達
 乳幼児期から学童期における聴覚障害
   1)耳垢栓塞
   2)滲出性中耳炎
   3)小耳症外耳道閉鎖(鎖耳)
   4)外傷性穿孔性中耳炎
   5)先天性真珠腫性中耳炎
   6)先天性耳小骨奇形
   7)スポーツによる音響外傷性難聴
 小児難聴の種類と学習との関連
   1)一側ろう
   2)小児高音急墜型難聴
   3)低音障害型難聴
   4)音過敏症音恐怖症
   5) 聴覚情報処理障害(auditory processing disorder:APD)
 支援システムについて
  1 補聴器
  2 補聴器の信号処理方式
   1)アナログ補聴器
   2)デジタル補聴器
   3)新しいタイプのデジタル補聴器
   4)オープンフィッティング
   5)外マイク式
   6)クロス補聴器システム
  3 補聴器以外の支援システム
   1)補聴器,人工内耳と一緒に使用する補聴システム
   2)スピーカによる補聴システム
   3)教室の音響
   4)人工内耳
 高齢者の聞こえと聴こえ
   1)加齢性難聴の病態
   2)二次的な問題(伝音機能)
   3)二次的な問題(認知,抑うつ)
   4)耳鳴と難聴
   5)うつと難聴
 家族の対応
   1)家族の難聴に気がついたとき,どう対処すればいいか
   2)家庭ができること
   3)耳鼻咽喉科に相談するタイミング
   4)認知症と難聴
 神経神話と可塑性
  1 運動リハビリテーションと可塑性
  2 言語獲得
  3 聴覚の廃用
   1)検知情報の歪み
   2)言語記憶の廃用
   3)不適切な可塑性の発現
第5章 聴こえを保持するための戦略
 高齢者が取り組むべきこと我々が行うべき工夫
  1 いつまでもよい聴こえを保持するための戦略
   1)加齢に伴い耳介と軟骨部外耳道は下垂する
   2)難聴を放置することはビジネスチャンスを放棄することかもしれない
   3)感覚相互作用を活用したコミュニケーションを図る
  2 高齢者とのコミュニケーションのとり方
   コミュニケーションを成立させるためのテリトリーゾーンを確保する
 乳幼児の特性と支援のあり方
  1 家庭で取り組む課題
   1)新生児期乳幼児期の難聴児へどう働きかけるか
   2)文法と生活
   3)色彩に触れさせるクレヨンを持たせる意味
   4)リトミックと聴覚体性感覚統合
   5)楽器演奏と聴覚体性感覚統合
   6)言語的優位脳を「創る」ことの意味
   7)褒めることの意味
  2 医療者はいかに関わっていくべきか
   1)一般医の役割
   2)耳鼻咽喉科医の役割
   3)チーム医療としての補聴器診療
   4)補聴器相談医の役割
   5)言語聴覚士の役割
   6)補聴器技能者

 おわりに
 索引

コラム
 鼓膜所見とうつ(清水謙祐)

Note
 乾いた耳垢と湿った耳垢
 不適切にフィッティングされた補聴器は難聴を進行させうる!
 SOAE(spontaneous oto-acoustic emission;自発耳音響放射)
 音が大きいと耳に痛みを感じるのはなぜ?
 パスバンド
 ナラティブセラピー
 トノトピー
 高いルート(連合皮質)で生じる情報処理
 音韻ループ
 反転授業
 ダイナミックサウンドフィールド(DSF)システムとインクルーシブ教育
 音韻修復
 顔細胞
 シミュラクラ現象
 プロソディ知覚
 ろう児の環境
 蝸牛神経形成不全症(CND)
 日本手話と日本語対応手話
 新生児マススクリーニング
 出生前診断が可能となり生じてきた課題(ダウン症の出生前診断の事例から)
 鋭敏度(感度)と特異度
 聴者とろう者のコミュニケーションに必要なインフラ
 手話という選択
 手話言語法制定の流れ
 テレビの最適な視聴距離
 音過敏を訴える児への対処法
 難聴が発見された場合の対応の仕方
 ヒトにおける利き手の意味