やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに
 リハビリテーション医療における運動療法は,パフォーマンスにおける何らかの問題を運動そのものによって治療する場面である(therapeutic exercise).運動には,身体を支える筋骨格機能,エネルギーを供給する心肺機能に加えて,運動様式を決定し,さまざまな機能を統合して運動を実現する神経系の機能が必要である.人体を自動車に例えると,筋骨格系は車のボディやタイヤに,心肺系はエンジンや吸排気システムに相当する.そして神経系は,発進・走行・停止の指令を出すドライバーであると同時に,ドライバーが操作したアクセルやブレーキ,ハンドルなどの信号を伝達する自動車そのものの制御システムでもある.車体やタイヤの耐久性・安全性・クッション性などが進歩し,ハイブリッド技術などで燃費性能が向上しても,それらを動かすための指令が伝達されなければ車は動かない.現代における自動車社会の安全と利便性を担保しているのは,ドライバーの教習もさることながら,まさに,自動車の各パーツの機能を連携させて自動的に快適な走行を提供してくれる制御システムの発展によって支えられていると言えよう.
 神経系の障害によって運動制御が困難になった患者を治療するためには,神経機能の回復を促すとともに,運動の指令そのものを変換したり,運動制御の方法を組み換えたりして,その運動様式が円滑に機能するように学習させなくてはならない.その意味でセラピストは,修理工であり,教習所の教官であり,そして開発部門のエンジニアでもある.もし,正常な指令が伝達されなければ,その指令によって実現できるパフォーマンスを最適なものとするために,「代償」の適用や,運動を行うための制御システムそのものを組み換えることで,安全と効率を確保しなければならないのである.この「代償」の適用ならびに「運動スキル」の再構築の過程は,運動を司る神経機構に精通し,最大限の機能を引き出すために必要な解剖学ならびに運動力学的知識に基づいたセラピストの課題設定に依存している.
 本書の各論では,臨床の第一線で活躍されている理学療法士・作業療法士の諸先生に,脳卒中を中心に,小脳・基底核疾患,末梢神経損傷によって運動制御が困難となった症例を呈示していただき,
「学習目標となる運動スキル」→「学習前における標的動作の状況」→「動作分析に基づいた課題設定(運動学習のターゲット)」→「代償手段等を適用した標的動作・運動の再現法」
 という形式で,パフォーマンスの機能的な再構築に必要な課題設定とその再現に至る諸先生の思考回路をわかりやすく解説していただいた.標的となる動作の状況や設定した課題の再現法については,付属のDVDに収録されている動画をご参照いただきたい.ここでは患者の皆様のご了解とご協力を得て,生の臨床場面での映像が収録されている.そのうえで,読者の皆様がこれらの課題を目前の患者に用いることができるか否かを明確にするための「Inclusion criteria(取り込み基準)」,「課題を再現するためのポイント」,そして運動学習に基づく治療を「ステップ・アップ」させるために利用できる知見が紹介されている.臨床の現場で何気なく実践している治療の過程を段階的に形式化し,問題解決のために考慮している事象を改めて抽出・列挙するという思考過程は,運動療法を実践するうえでの新たな視点を教示してくれるであろう.また,本文中に掲載できなかった臨床上のヒントがコラム欄に記載されているので,こちらにも是非ご注目いただければと思う.
 これらの各論にみる運動学習の展開をサポートする形で,運動制御の組み換えを導くために必要な“エンジニア”としての基礎知識を,理論編に集約した.運動力学に基づいた動作分析と学習に関わる脳機能の知識を整理し,
 ・障害に対して患者が適用している運動制御が,まさに安全と効率を得るための一つの手段であり得ること,
 ・脳機能の障害部位に対応した代償の適用と運動学習の展開こそが,運動スキルの最適化を誘導するリハビリテーション医療従事者の使命であること,
 ・運動学習を支えるフィードバックは,設定された課題の難易度によって変化する感覚情報に基づいて入力されること,
 をご理解いただければと思う.
 学習とはさまざまな情報(フィードバック)に基づいて,学習者自身が誤り(エラー)を修正し,特定のスキルを身につけることである.そのノウハウを学習者である患者に提供する役割を担う我々には,安全と効率を具現化させるプロフェッショナルとしての知識と技術が求められる.それらは,ナビゲーション・システム導入に際して運転中の安全確保に配慮すべきドライバーへの情報入力法の設定や,イージー・ドライブを実現するためのトランスミッションのオートマチック化など,動きの制御に関わるあらゆる場面への対応に相当する.しかも,運動療法の臨床では,疾病の特性や患者個々に特有の病態・病期・生活環境に応じて,運動スキルの目標や運動学習の手段を変えていく能力が要求される.片麻痺患者に立位をとらせるというような,普段から実践している運動療法のプロセスは,患者のさまざまな条件を考慮し,患者の脳に入力される種々の情報を管理しながら,最適化された運動スキルを制御するための神経機構を定着させるという,脳機能へのアプローチに依存しているのである.本書が,読者の皆様にとって,課題設定に基づく情報管理の手法についての理解に少しでも役立つことを期待している.
 読者の皆様には,各論から読み始めていただき,具体的な事例をさらってから理論編をお読みいただいたほうが,理解しやすいかもしれない.しかし,理学療法,作業療法の専門分野に関わらず,各事例の課題設定と運動療法の展開をご通読いただくことで,「運動学習」を提供するプロフェッショナルとしての知識を整理していただければ幸いである.
 2008年10月吉日
 長谷公隆
 はじめに(長谷公隆)
理論編
1. 学習理論に基づくリハビリテーション医療の重要性(長谷公隆)
 患者が抱えている障害に対応した学習目標の設定
 学習能力に応じた治療環境の提供
  ◎コラム 顕在学習と潜在学習
  ◎コラム プリズム適応課題における小脳の役割
 学習による治療効果の蓄積
  ◎コラム ポートフォリオ――治療スキルを支える貯蔵庫
2. 運動学習を支える神経機構(長谷公隆)
 大脳皮質における運動学習の神経回路
 大脳皮質――皮質下回路と運動学習
  ◎コラム 系列反応時間課題:serial reaction time task――系列学習における潜在学習効果の評価
3. 運動療法で展開される運動学習の戦略(長谷公隆)
 運動学習の過程とフィードバック
  ◎コラム 動作を学習する際にどんな習熟をめざすのか(大高洋平)
4. 運動学習の成果を導く課題設定(長谷公隆)
 運動学習の目標
 エラーの管理
 学習方法の選定
実践編I 理学療法編
1. 脳卒中:座位保持―Pusher症候群,左半側空間無視(左片麻痺) DVD症例1(宮本真明・網本 和)
2. 脳卒中:移乗動作(右片麻痺) DVD症例2(宮本真明・網本 和)
3. 脳卒中:立位(左片麻痺) DVD症例3(今井覚志)
4. 脳卒中:歩行―反張膝(右片麻痺) DVD症例4(小林 賢)
5. 脳卒中:歩行―麻痺側下肢制御の再構築(右片麻痺) DVD症例5(鈴木悦子)
6. 小脳失調:起居動作・歩行 DVD症例6(深井和良)
7. パーキンソン病:起き上がり動作 DVD症例7(上迫道代)
8. パーキンソン病:歩行動作 DVD症例8(上迫道代)
実践編II 作業療法編
9. 脳卒中:起き上がり動作(右片麻痺) DVD症例9(倉澤友子)
10. 脳卒中:リーチと把持動作(右片麻痺) DVD症例10(斎藤和夫)
11. 脳卒中:調理動作・麻痺手不使用(右片麻痺) DVD症例11(斎藤和夫)
12. 脳卒中:把握動作(左片麻痺) DVD症例12(阿部 薫)
13. 脳卒中:書字動作(右片麻痺) DVD症例13(阿部 薫)
14. 脳卒中:巧緻動作―重度感覚障害(右片麻痺) DVD症例14(浅井憲義)
15. 脳卒中:手工芸(認知症) DVD症例15(浅井憲義)
16. 末梢神経損傷:つまみ動作(左正中神経麻痺) DVD症例16(斎藤和夫)

 索引