やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

序文
 経済学は数学や物理学と同じく,専門性の高い学問である.事実,経済学者が社会を観察して法則性を発見し数式で表すようになったのは,ニュートン以降の力学の研究スタイルを採り入れたからである.かつては自然科学と経済学の垣根は,いまよりずっと低かった.たとえば19 世紀には,太陽の表面に現れる黒点の数と景気を代表する小麦価格との連動性が研究されている.
 それが1980 年代に入り,自然科学と社会科学にまたがる“複雑系の科学”とよばれる分野が開拓され,再度接近しつつある.
 しかし,経済学者間で同じ経済現象について意見が対立することがままある.いわゆる“アベノミクス“をめぐっての論争がそうだ.金融緩和と財政出動,そして成長戦略という“3 本の矢”で失われた20 年が浮揚するという学者もいれば,これによって日本の国債が大暴落して財政赤字は危機的になるという意見もある.
 これに対して自然実験が可能な理系の学問ならば,こういうことはまず起こらない.たとえば物理学では,異論はあっても基本となるニュートン力学や量子力学を無視した議論は相手にされない.同様に医学も経済学よりは専門性が認知されており,そのため心臓外科医が専門外の眼や耳の病の治療法に口出しすることは原則ない.
 このように,学問としていまだ脆弱な経済学だが,今日,“経済的視点“を抜きにして医療を語ることができない.事実,物理経済学や神経経済学など,いわゆるビッグデータやfMRI(機能的磁気共鳴画像法)を使った新しい経済学も登場している.その結果,従来,困難とされてきた“社会実験”も可能になっている.
 しかしながら医療関係者は,経済学にかならずしも精通しているとはいえない.これは医療人が経済学に弱いのではなくて,経済学を学ぶチャンスが少ないからだ.
 そこで本書では,東京医科歯科大学大学院医療経済学分野でこれまで取り組んできた“医療の見える化”から得た知見をベースに具体的な事例を取り上げ,初学者に向けてなるべくわかりやすく医療経済の基本を解説したいと考えている.願わくば,なるべく多くの人びとに読まれることを切に望むものである.
 なお,本書は,2013 年10 月12 日から2014 年3 月15 日までに「医学のあゆみ」に連載した原稿に加筆修正を施したものである.
 2014 年6 月
 川渕孝一
1.国民医療費の構造分析
 国民医療費の負担
 国民医療費の分配
 国民医療費の使途
2.わが国の診療報酬制度の現状と課題
 混合診療禁止の原則
 保険外併用療養費制度
 同一価格の医療サービスの原則
 診療報酬制度の2 つの問題点
 分配上の弊害
 加減算の設定
 出来高算定から包括評価へ
3.後期高齢者に関する医療費分析
 年齢階層別・疾病分類別医療費分析
 75 歳以上をもって“老人”!?
 終末期医療費の見える化
 高齢者透析に関する医療経済分析
 透析医療費のミクロ分析
 将来の課題
4.特定保健指導で医療費は削減できるのか
 惨憺たるMHSプロジェクト
 肯定的な先行研究
 短期的には掘り起し?
 傾向スコアマッチングによる比較
 無作為比較化試験(RCT)による分析
 打ち手は減量指導!?
 メタボ対策の効果は短期的!?
5.視界ゼロを脱するかDPC/PDPS ──今後の政策・運営方針への示唆
 “見える化”できないDPC
 CMIは利用可能か
 在院日数短縮と病床利用率のバランス
 解消すべき2 つの課題
 ACGは日本になじむのか
6.DPC導入と外来抗がん剤治療の変化──1日定額払いによる“外来シフト”はあったのか
 DPCは3 段階に逓減する
 度重なるロジックの改定
 外来シフトはあったのか
 外来抗がん治療の3 つの課題
 犠牲的精神の現場?
7.“ 医療の見える化”の現状と課題── P4Pは日本になじむか
 求められる“医療の質の向上と効率化”の同時達成
 P4Pの先行事例
 草の根から努めた“病院可視化ネットワーク”
 P4Pによる行動変容はあるのか
 病院・医師は変えうるのか
 技術革新の検証も!?
 質の向上と効率化の同時達成は可能!?
 P4Pの前にP4R
8.クリニカルパスの普及は何をもたらすか──医療の標準化は可能か
 問題山積の電子パスと解決策
 医療安全に向けた可視化の試み
 医療事故防止に向けた2 つの提案
 パスに科学的根拠はあるのか
 “外来版DPC”の試み
9.症例数が多くなると医療成果は向上するのか
 “規模の経済”は働くか
 量的効果に関する先行研究
 心臓疾患に関する量的効果
 2 つのパズル
 日本における実証研究から得た知見
 歯科医にも量的効果
10.医師の技術料の国際比較
 現場から乖離したわが国の技術料
 諸外国での動き
 見直されたアメリカの技術料
 現行の診療報酬は適正か
 相関がある3 つの診療報酬体系
 診療報酬と構成要素の関係
 望まれる適正な技術料の評価
 国際水準の2.9 倍に及ぶわが国の延べ患者数
 最近の動き
 診療報酬政策の限界
 再考すべき“歯科麻酔医”転用特区
11.いわゆる混合診療は日本になじむか
 3 つの判決
 需要・供給の価格弾力性の一考察
 歯科にみる社会格差
 東京は特殊か
 受診時定額負担の功罪
 受診抑制は本当に起こるか
 いつまで続くか“70〜 74 歳の窓口負担1 割”
12.どこまで公的医療保険で面倒みるか
 透明性が増した保険収載プロセス
 懸案の未収載品の取扱い
 “デビルの川“と“死の谷”
 基準が曖昧な“昇格”の手続き
 粒子線治療は保険収載すべきか
 自由放任でいいのか
13.セルフメディケーションの経済学
 OTC国民調査から得た知見
 求められる“Value for Money”
 ワクチン行政の現状と課題
 世界標準のワクチンに向けて
 保険適用されたフランス・ドイツの現状
 わが国でもはじまった医療経済分析
 PETがん検診施設の効率性
14.うつ病のコスト
 選択肢が広がった治療法
 注目される“入院療法”の有効性
 精神科の診療報酬は適正か
 割高な入院療法
 増大する“負の連鎖”
 動き出した国・自治体のうつ対策
 高齢者は“場づくり”が有効!?
15.求められる“救急医療の見える化”
 いかにリンクさせるか
 分析結果
 考察
 求められる救急医療の可視化
 依然としてブラックボックス
16.地域包括ケアは連携か“範囲の経済”か
 アメリカのメディカルホームにみる先行事例
 リハビリにみる医療・介護の連携!?
 大腿骨頸部骨折治療にみる実証研究
 主たる知見
 経営改善したのか訪問看護ST
 “口から食べたい”を支える歯科医師との連携
17.医療格差の現状と課題
 保険者による格差
 機会の不平等!?
 中国の医療格差
 タイの皆保険は平等かつ公平か
 救世主になるか,少額医療保険