やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

まえがき
 本書は,咀嚼運動をコントロールする脳・神経の仕組みの基本的な事柄を,誰にでも分かるようにていねいに解説したものです.私たちの食べ物は,硬い,柔らかい,大きい,小さい,などをはじめとしてその性質は千差万別です.私たちは,硬い食べ物は強い力で噛みますが,柔らかい食べ物では噛む力は弱くなるなど,食べ物の性質にあわせて自然に巧く咀嚼しています.どうしてこのような巧い咀嚼運動ができるのでしょうか.本書は,このような巧妙な咀嚼運動をコントロールする脳・神経の仕組みのもっとも基本的な事柄を正確に解説し,この仕組みについての現代の体系的知識の骨組みを理解していただけることを目的としています.
 説明を分かりやすくするために,著者は二つのことを心掛けました.ひとつは,本書で説明する事柄の前提になる知識の解説です.咀嚼運動という特定の機能を正確に説明するには,その前提として解剖学,生理学などの基本的知識が必要です.そこで,本題に入る前に,咀嚼運動をコントロールする脳・神経の仕組みを理解するために必要な神経系の形態と機能についての基本的な事柄をはじめに解説しておきました.また,個々の事柄の説明の箇所でも,それに関連する重要な概念と事柄を必要に応じて解説しておきました.これによって,本書を読み進める際,書かれている概念や用語がわからないときに,そのたびごとに他の書物を開いて調べるわずらわしさから解放されることと思います.
 もうひとつは,説明に当たって個々の知識を羅列的に説明するのではなく,どのようにしてその知識が得られたか,研究の道筋を説明するように心掛けました.どのような疑問や問題意識からその研究を始めたか,どのような方法でその問題に取り組んで解決したか,というストーリー性をもつ説明によって,それぞれの事柄についての読者の興味は深まり,理解が生き生きしたものになると考えたからです.
 咀嚼が心身におよぼす効果は,現代社会において強い関心をよんでいる重要な問題です.噛むことによって頭がはっきりする,ものを食べることによって心が安らぐ,咬み合せの具合が悪いと姿勢が異常になったり,不眠,腰痛などいろいろな病気のもとになる,高齢者の痴呆(いわゆる老人ボケ)が咀嚼によって予防・改善される,などなど,咀嚼の心身におよぼす効果としていろいろ取り沙汰されています.そこで本書では,咀嚼運動をコントロールする脳・神経の仕組みの説明を終えた後に,どのようにして咀嚼が心身に影響をおよぼすかについていくつかの例を取り上げて,脳・神経の仕組みに基づいて説明を試みました.
 健全な咀嚼機能の育成,維持,回復は歯科医学・医療が専門とする目標です.ですから,咀嚼運動をコントロールする脳・神経の仕組みは,将来,歯科医学・医療に従事する専門職業人を目指す学生の皆さんにとって,ぜひとも理解しておかなければならない必須の事柄です.そこで,本書の読者として考えているのは,まず第一に,歯科大学・歯学部,歯科衛生士学校,歯科技工士学校,看護学校などで歯科医学を学ぶ学生の皆さんです.また,摂食行動に障害をもつ人たちに接する介護・福祉を専攻する方々にも読んでいただけることも期待しています.さらには,咀嚼機能に関する専門職業人としての歯科医師の方々にもお目通しいただき,咀嚼運動をコントロールする脳・神経の仕組みの知識をリフレッシュなさる際の参考にしていただければありがたいと思っています.
 咀嚼運動に関心をおもちのすべての方々に,咀嚼運動をコントロールする脳・神経の絶妙な仕組みを,現代の体系的知識を通して知っていただけることを願っています.さらに,咀嚼運動がいかに精緻な脳の仕組みによって操られているか,その美しさに感動していただくことができれば,著者の喜びこれに優るものはありません.
 2005年5月
 中村嘉男

はじめに
 本書の主題は,咀嚼運動をコントロールする脳・神経の仕組みです.本題に入る前に,咀嚼運動とはどういう行動か,その特徴をはっきりさせておきましょう.
 私たちが口にする食物は,動物性,植物性いろいろなものがあり,大きさ,硬さ,味,温かさなど千差万別です.ものを食べるとき,まずどの食物を食べるかが決まると,その食物を前歯を使ったり,ナイフとフォークで適当な大きさにして口の中に入れます.ついでその食物を奥歯のところまで運んでいって,上下の歯でさらに小さく切断したりすりつぶしたりします.そして,食物は唾液と混ぜ合わされて塊(食塊)になります.その塊が飲み込むのに適当な大きさと硬さになると,口の奥に移動してのど(咽頭)に押し込まれ,食塊は食道を通って胃に入ります.食塊を飲み込むこの運動が嚥(えん)下(げ)です.
 大きな食物を前歯で切り取るときは,顎を動かす筋肉が収縮して噛む力(咀嚼力)を発揮します.口の中の食物を奥歯(臼歯)のところまで運んで上下の歯の間にもっていくのは,舌,口を開ける顎の筋肉,頬の筋肉などの役目で,顎についていて噛み砕いたり,すりつぶしたりするときに働く筋肉は活動していません.ついで食物を上下の奥歯で噛んでさらに小さく切断したり,すりつぶしたり,軟らかくするのは顎についている噛む筋肉の働きです.食塊を形成してのどの奥(咽頭)に運んでいくのは,舌と顎と頬の筋肉の協同作業です.また,咀嚼の間ずっと口は閉じていますが,これは口(口裂)の周りにある顔面の筋肉が収縮し続けるからです.このように咀嚼は,顎,舌,顔面の筋肉(顎筋,舌筋,顔面筋)と唾液腺の協同作業によって遂行されます.このなかで食物を機械的に細かく,軟らかくする運動が咀嚼運動です.サメやワニにはとがった立派な歯がありますが,この歯は獲物を捕まえて切断するために使われているだけで,いったん口の中に入った食物はそのまま飲み込んでしまうので,これらの動物は咀嚼しているとはいえません.
 咀嚼運動はこのように顎と舌と顔面の筋肉が時間的に絶妙なタイミングで,適当な強さで活動することによって遂行されます.このことを,顎と舌と顔面の筋肉が協調して活動するといいます.この様子は,オーケストラの演奏で,指揮者の指示に従って弦楽器,管楽器などのいろいろなパートがうまいタイミングでちょうどよい大きさの音を出すことによって,絶妙なハーモニーと美しい旋律を生み出すのと同じです.顎と舌と顔面の筋肉がうまく働かないと咀嚼できないことは,たとえば脳卒中で顔面の筋肉が麻痺すると口の端から食物がこぼれてしまったり,舌が麻痺するために食物を奥歯の間にうまく運べなくなることによってもわかります.
 このように咀嚼運動の特徴のひとつは,顎,舌,顔面の筋の協調運動ですが,もうひとつの特徴はリズミカルな運動だということです.咀嚼するときを思い浮かべてください.咀嚼するとき,食物を1回噛むだけで飲み込むということはまずありません.上下の臼歯の間で何回か同じような間隔で噛む運動を繰り返します.このように同じような運動がほぼ一定の間隔(周期)で何回か連続して繰り返されるとき,それは律動性運動あるいはリズミカルな運動とよばれます.咀嚼運動とならんで,哺乳動物の代表的なリズミカルな運動は歩行運動です.二足歩行するヒトが平坦な道を一定の速さで歩くとき,左足と右足とが交互に前に出て身体全体が前方に移動しますが,このとき歩幅も足が前に出る時間間隔もおどろくほど一定なので,同じパタンの運動が繰り返し出現します.このように歩行運動は典型的なリズミカルな運動です.
 以上まとめると,“咀嚼運動とは,口の中に入った食物を,切断・粉砕して唾液と混ぜ合わせ,嚥下に適する大きさと硬さをもつ食塊を形成する顎・舌・顔面のリズミカルな協調運動である”ことがわかります.
 このように,どの動物の咀嚼運動でもリズミカルな運動という共通の特徴をもっていますが,実際の咀嚼運動のパタンは動物種と摂取する食物の種類によって千差万別です.たとえば,肉食性のネコ,トラなどの咀嚼のときの顎運動はほぼ上下方向の運動(蝶(ちょう)番(ばん)運動)であるのに対して,草食性のウシ,ウマなどでは上下の歯の間で草をすりつぶす水平方向の運動(臼(きゅう)磨(ま)運動)が主体です.また,同じ動物種でも,摂取する食物の性状によって咀嚼運動のパタンは違います.たとえば私たちは,大きな食物を摂取するときは口を大きく開けますし,小さな食物のときはあまり口を開きません.さらに,食物を口に入れてから嚥下するまでの一連の咀嚼運動では,大きくて硬い食物を食べるときは最初は大きく口を開けて強い力で噛みますが,何回か噛んで食物が小さくなって軟らかくなると,口を開ける大きさは小さくなりますし,噛む力も弱くなります.このように咀嚼運動は,リズムという普遍的な特性と,食性と食物の性状に関係した多様性を具えた行動です.
 それでは,このような普遍性と多様性を具えた咀嚼運動はどのような仕組みで出現するのでしょうか.顎,舌,顔面の筋肉(横紋筋)は,それ自体では収縮できません.これらの筋肉を支配している運動神経細胞(運動ニューロン,神経細胞はニューロンとよばれます)の活動によってはじめて収縮します.これらの運動ニューロンは脳に位置していて,脳のいろいろな部位のニューロンからの指令を受けて活動します.ですから,咀嚼運動は時間的・空間的に協調した脳の運動指令によって出現することになります.
 顎,舌,顔面の筋肉によって遂行される咀嚼運動は,顎・口腔・顔面領域を舞台として,顎筋・舌筋・顔面筋という俳優たちが,脳に書き込まれたシナリオに従って演じるドラマともいえましょう.
 本書では,リズムという普遍性と食物に応じた多様性という二つの特徴をもつ咀嚼運動のシナリオが,どのように脳に書き込まれているかをみていきたいと思います.
・はじめに
第1章 神経系の組み立てと情報を伝える仕組み
 1 脳・脊髄(中枢神経系)と神経(末梢神経系)
 2 神経系をつくり上げている細胞――ニューロン
 3 ニューロン内部で情報を伝えるデジタル電気信号
 4 ニューロン間で情報を伝えるアナログ化学信号
 5 ニューロンの種類
 6 中枢神経系の区分――上位脳・下位脳と脳幹
 7 脳神経
第2章 咀嚼運動を遂行する器官系――咀嚼システム
 1 咀嚼運動を実行する装置――効果器サブシステム
 2 咀嚼運動の状況を脳に知らせる装置――感覚入力サブシステム
 3 咀嚼運動の指令を出す装置――中枢制御サブシステム
 4 咀嚼運動をコントロールする脳・神経活動の記録法
第3章 顎・舌・顔面の反射運動
 1 反射性顎運動(顎反射)
  1)口が閉じる反射運動(閉口反射)
   (1)下顎張反射
   (2)歯根膜-咬筋反射
  2)口が開く反射運動(開口反射)
  3)その他の反射性顎運動
 2 反射性舌運動(舌反射)
  1)舌の刺激によって起こる舌の運動(舌-舌下神経反射)
  2)開口によって起こる舌の運動(顎-舌反射)
 3 反射性顔面運動(顔面筋反射)
第4章 脳の刺激によって引き起こされる咀嚼運動
 1 咀嚼運動を引き起こす大脳皮質の領域(皮質咀嚼野)
 2 咀嚼運動を引き起こす脳のその他の領域
第5章 咀嚼運動のパタン形成
 1 咀嚼運動のリズムをつくる仕組み(リズム形成機構)
 2 顎筋の活動の強さを決める仕組み(群発形成機構)
 3 顎・舌・顔面筋の活動のタイミングを調整する仕組み(協調機構)
第6章 咀嚼運動の感覚性調節
 1 顎・口腔・顔面領域の機械受容器が脳に送る信号
  1)顎の位置と開口運動の速度のセンサー(筋紡錘)
  2)噛む力のセンサー(腱紡錘)
  3)顎の位置と運動のセンサー(顎関節機械受容器)
  4)噛む力と食物の硬さのセンサー(歯根膜機械受容器)
  5)食物の口腔内の位置と大きさのセンサー(口腔粘膜機械受容器)
  6)顎・顔面運動のセンサー(顔面皮膚機械受容器)
  7)顎運動の速度のセンサー(顔面皮膚毛包受容器)
 2 感覚信号による咀嚼運動のパタンと咀嚼力の調節
 3 咀嚼運動中の顎反射の変化
第7章 咀嚼運動に関する大脳皮質の役割
 1 刺激法による解析
 2 破壊法による解析
 3 記録法による解析
第8章 摂食行動の生後発達
 1 母乳を吸う行動(吸啜)から噛む行動(咀嚼)への転換にともなう脳の神経回路の再構成
 2 吸啜運動のリズムを形成する仕組み――取り出した脳-脊髄での解析
  1)吸啜リズムの中枢性形成
  2)吸啜リズム発生器の局在部位
第9章 咀嚼が心身におよぼす効果
 1 脳を目覚めさせる作用
 2 心身をリラックスさせる作用
 3 姿勢を安定させる作用
第10章 老化と咀嚼
 1 歯がなくなると咀嚼システムにどのような変化が起こるか
 2 “風味を楽しむ”ことが意味するもの
・むすび
・索引