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序に代えて―これからのインフルエンザ対策
 菅谷憲夫
 神奈川県警友会けいゆう病院小児科,慶應義塾大学医学部客員教授
抗ウイルス薬の予防投与
 2012年の1月中旬から,全国的に大規模なA香港型インフルエンザの流行が起こった.流行ウイルスはワクチン株であるA/Victoria/210/2009(H3N2)から(ホモHI価1280),8〜16倍変異していた(HI価80から160).1997年に出現した変異ウイルスA/Sidney/05/97(H3N2)に近い変異幅であり,流行拡大は抗原変異が原因であったと考えられる.WHOもA香港型の変異を認めて,来季のワクチン候補ウイルスを変更した.
 このような変異があればワクチン効果が低下するので,高齢者やハイリスク患者では抗インフルエンザ薬の予防投与が必要であった.アメリカでは,高齢者施設での流行に対してはoseltamivir(商品名タミフルR)やzanamivir(商品名リレンザR)による予防投与が明確にガイドライン上で規定されている.インフルエンザの診断と抗ウイルス薬治療では世界でもっとも進んでいる日本ではあるが,抗ウイルス薬予防では遅れをとり,多くの施設で予防投薬のないままに高齢者が重症化したことは残念なことであった.1990年代には,高齢者のインフルエンザワクチン接種はむしろ禁忌とされていたが,今季と同様に高齢者施設での死亡があいつぎ,いまは常識となったワクチン接種の重要性が強調されたことが思いだされる.高齢者やハイリスク患者でのoseltamivirやzanamivirによる予防投与の確立は,これからの日本のインフルエンザ対策の課題のひとつである.
direct protectionとindirect protection
 25年間にわたり一小学校でのインフルエンザワクチン接種状況と,学級閉鎖数,欠席率を解析した報告が発表されたが,そのなかで学童集団接種は,学級閉鎖や欠席を減らして学童をインフルエンザから守っていたことが明らかになった.これをdirect protection(直接防御効果)という.一方,学童集団接種が日本の高齢者のインフルエンザ関連死亡を抑えていたこと,また1990年代に幼児の脳炎脳症が多発した一因は学童集団接種の中止にあることはすでに報告されている.当時は高齢者や幼児のインフルエンザワクチン接種は実施されていなかったので,これをindirect protection(間接防御効果)という.集団免疫効果と同意である.アメリカは,indirect protectionに注目して今後,学童全員接種をめざすという.インフルエンザワクチンについてさまざまな議論が出てくると思われるが,その場合,direct protectionだけではなく,indirect protectionの重要性を国民が理解することが必要となる.
抗ウイルス薬の使用基準
 今シーズンは,4種類のノイラミニダーゼ阻害薬が使用された2年目のシーズンであった.このうち,peramivir(商品名ラピアクタR)とlaninamivir(商品名イナビルR)は事実上,日本でのみ使用されている.軽症の外来患者では年齢,症状に応じてどの抗ウイルス薬も使用してよいが,入院患者,とくに肺炎患者の治療はoseltamivirかperamivirで実施することが重要である.laninamivir,zanamivirのような吸入薬では,いったん肺炎が合併すると薬剤が肺全体に分布しないからである.今後は,臨床医の間から各薬剤の有効性,安全性について科学的な議論が進んで,一定の使用基準が確立することが望ましい.
実行可能な新型インフルエンザ対策
 2009年に発生した新型インフルエンザ,H1N1/09の流行で,日本の死亡例は200前後と極端に少なかったことは知られているが,最近,世界各国による共同研究で人口動態から計算した超過死亡も同様な数であり,日本の新型インフルエンザの死亡率は世界各国のなかでもかなり低いと考えられた.その原因は,日本で確立していたインフルエンザ迅速診断とノイラミニダーゼ阻害薬治療を徹底したためと考えられる.毎年のインフルエンザ対策を有効性と安全性を検討しながら,さらに進歩させて,たとえば今年みられたような高齢者施設でのインフルエンザ被害を抑えていくことは,もっとも有効な実行可能な新型インフルエンザ対策でもある.新型対策として,毎年実施していない対策を立案することは(たとえば国民全員のワクチン接種),有効性や安全性に疑問があるうえ,実行可能性に乏しい.
 序に代えて―これからのインフルエンザ対策(菅谷憲夫)
  ・抗ウイルス薬の予防投与
  ・direct protectionとindirect protection
  ・抗ウイルス薬の使用基準
  ・実行可能な新型インフルエンザ対策
Overview
 1.世界の新型インフルエンザ対策の課題と今後の方向性―新型インフルエンザA(H1N1)2009 ウイルスによるパンデミックを振り返る(江副邦子・進藤奈邦子)
  ・新型インフルエンザA(H1N1)2009 ウイルスの発生と流行拡大の概況
  ・感染流行の様相
  ・感染患者のおもな特徴
  ・世界の新型インフルエンザパンデミック対策の課題と今後の方向性
 2.新型インフルエンザウイルス発生のメカニズム(野田岳志・河岡義裕)
  ・インフルエンザパンデミック
  ・遺伝子交雑
  ・ヒト-ヒト感染の必要条件
  ・20世紀のパンデミック
  ・21世紀のパンデミック
インフルエンザの基礎
 3.インフルエンザウイルスレセプターと宿主域変異(鈴木康夫)
  ・ウイルスへマグルチニン(HA)とレセプターシアロ糖鎖
  ・鳥インフルエンザウイルスのヒト型レセプター結合適応変異
 4.インフルエンザ脳症の発症機序―CPT2 遺伝子多型が解き明かす発症リスク(木戸 博・千田淳司)
  ・感染重症化の病態基盤
  ・血管内皮細胞障害を起こしやすい遺伝的背景
  ・CPT2 の遺伝子多型とミトコンドリアの機能不全,細胞内ATPの低下,これらを改善するリスク回避薬
 5.インフルエンザウイルスの系統樹(杉田繁夫)
  ・分子進化の中立説誕生への道のり
  ・分子進化の中立説
  ・系統樹の作製法
  ・系統樹解析でわかること
 6.インフルエンザウイルス感染症の病理(中島典子・長谷川秀樹)
  ・病理学的解析でわかること,留意すること
  ・季節性インフルエンザウイルス感染症の病理
  ・2009年パンデミックインフルエンザウイルス感染症の病理
  ・H5N1高病原性鳥インフルエンザウイルス感染症の病理
  ・インフルエンザウイルスレセプターの体内分布
 7.ウイルス分離と遺伝子検査(川上千春・七種美和子)
  ・ウイルス分離
  ・遺伝子検査―A・B型/A亜型の同定(HA遺伝子)
  ・分離ウイルス株を用いた種々の遺伝子検査
 8.薬剤耐性インフルエンザウイルス―その出現機構とインパクト(田村大輔)
  ・M2阻害薬の過去と現状―耐性ウイルスの出現
  ・ノイラミニダーゼ阻害薬の作用機序と耐性ウイルス―新規抗ウイルス薬も含めて
  ・ノイラミニダーゼ阻害薬耐性ウイルス―出現様式の違い
  ・Pandemic 2009ウイルスの薬剤耐性化
  ・高病原性鳥インフルエンザウイルス(A亜型H5N1)の薬剤耐性化
  ・ノイラミニダーゼ阻害薬耐性ウイルスの出現予防
 9.インフルエンザワクチンの歴史と展望(酒井伸夫)
  ・インフルエンザワクチンの歴史
  ・インフルエンザ(H1N1)2009
  ・細胞培養法によるインフルエンザワクチンの開発
  ・新規インフルエンザワクチンの開発
インフルエンザの臨床
 10.成人・高齢者のインフルエンザ(柏木征三郎)
  ・H1N1pdm09
  ・季節性インフルエンザ
  ・高齢者・成人の治療
  ・高齢者・成人の予防
 11.小児のインフルエンザ―臨床現場での傾向と対応(田中孝明・中野貴司)
  ・小児インフルエンザの疫学
  ・臨床的特徴
  ・合併症
  ・診断・検査
  ・治療
  ・予防
 12.インフルエンザ脳症(水口 雅)
  ・急性脳症の分類
  ・インフルエンザ脳症の疫学
  ・インフルエンザ脳症ガイドライン
  ・インフルエンザ脳症の診断
  ・インフルエンザ脳症の治療
 13.ノイラミニダーゼ阻害薬(渡辺 彰)
  ・インフルエンザウイルスの感染・増殖の過程
  ・抗インフルエンザ薬の作用機序
  ・新しいノイラミニダーゼ阻害薬の特徴
  ・新型および季節性インフルエンザウイルスに対する新規ノイラミニダーゼ阻害薬の効果
  ・新規ノイラミニダーゼ阻害薬の長時間作用のメカニズム
  ・新規ノイラミニダーゼ阻害薬の有用性
 14.RNAポリメラーゼ阻害薬―ファビピラビルの有効性と安全性(小林 治)
  ・遺伝子ターゲットとした抗ウイルス薬
  ・ファビピラビルの作用機序
  ・臨床的有効性
  ・安全性
  ・ファビピラビル市販化への切望と期待
 15.インフルエンザワクチン―その特徴と効果(庵原俊昭)
  ・インフルエンザワクチンの剤型
  ・インフルエンザの病態と発症予防
  ・インフルエンザワクチンの効果
  ・インフルエンザワクチンの集団免疫効果
  ・基礎疾患のある人への接種
  ・インフルエンザワクチンの副反応と卵アレルギー児への接種
  ・プロトタイプワクチンの製造と接種計画
 16.インフルエンザの迅速診断―迅速診断キットの進歩と課題(三田村敬子・他)
  ・感染症迅速検査の現況
  ・インフルエンザの診断における迅速診断キットの有用性
  ・インフルエンザ迅速診断キットの実際
  ・臨床における迅速検査としての遺伝子検出検査
  ・おわりに―インフルエンザ迅速診断の今後
 17.インフルエンザ院内感染対策(新庄正宜)
  ・流行前・感染拡大前に
  ・インフルエンザ患者の入院
  ・入院中の患者がインフルエンザを発症した場合
  ・医療従事者がインフルエンザ患者に無防備に接触したりインフルエンザを発症した場合
 18.学校でのインフルエンザ対策(川合志緒子・南里清一郎)
  ・A,B校におけるインフルエンザ対策
  ・シーズンの新型インフルエンザ流行
  ・問題点と今後の課題
書き下ろし
 19.新型インフルエンザ特措法の問題点―専門家の知らないうちに制定された重要な法律(菅谷憲夫)
  ・“H5N1のパンデミックは必至”ではない
  ・“先行ワクチン”は不可能
  ・H5N1ワクチンの副作用
  ・必要なのは“休校の徹底”

 サイドメモ目次
  A型インフルエンザウイルスの宿主域
  インフルエンザ肺炎
  抗原解析
  薬剤耐性ウイルスを出現させないために
  そもそも抗ウイルス薬を処方しないほうがよいのか
  抗インフルエンザ薬
  2009年の新型(当時)インフルエンザ脳症の特徴―季節性インフルエンザ脳症と比較して
  異常行動や異常言動は抗インフルエンザ薬の副作用か
  オセルタミビル耐性の問題はその後,どうなったか
  感染防御抗原
  プライミングとブースティング
  温度変異株(ts mutant)
  基本再生産数(R0)と集団免疫率(H0)
  感染対策の基本―標準予防策と咳エチケット