やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに
 2000 年4月,介護保険制度が,要介護高齢者の増加・要介護状態の長期化・重度化,家族の介護機能の低下(高齢者単独世帯の増加)などの問題を解決するために導入された.
 高齢化の進展とともに,在宅,施設を含め,介護を受ける高齢者数が増加し,要介護高齢者の半数が認知症をもち,施設入所高齢者の8 割以上が認知症を合併しているといわれている.
 介護保険制度が発足してから20 年近くが経過し,次第に介護実践に関する技術的問題だけでなく,さまざまな倫理的問題,たとえば,認知症高齢者の尊厳や自己決定能力に関する問題,終末期ケア(看取り)の問題,介護のビジネス化の問題などが顕在化してきた.
 そこで,高齢者の医療ケアに従事する者は,「身体機能(フレイルfrail)だけでなく,意思決定能力が低下していく人びと(vulnerable)の尊厳に,どのように配慮すれば倫理的に適切といえるのか?」について熟慮しなければならなくなってきた.とくに,高齢者は次第に意思決定能力が低下し,ついには自身の意向を表明できなくなることがしばしばあるが,そのようなvulnerableな人びとの,医療ケアに関する意思決定プロセス・日常生活や社会生活に関する意思決定プロセス,さらには治験などの研究参加に関する意思決定プロセスに十分な配慮をする必要がある.
 また,平成30 年3 月に改訂された厚生労働省の終末期(人生の最終段階)のガイドラインにおいて,終末期の医療ケアに介護職の参画が明確にされ,介護職は医療ケアチームの一員とされた.それまでは,高齢者の生活支援が介護職の中心的役割であったが,今後は高齢者の“ いのち““ 病気で死ぬこと” などの終末期(看取り)とかかわる機会が増えることになり,介護職にとって新たな学びが必要となり,大きなチャレンジとなる.
 さらに,在宅医療・地域包括ケア・多職種協働が推進されている現状においては,“ 医療・ケア“ という視点だけでなく,高齢者の“ 生活” という視点にも十分な倫理的配慮が必要となる.
 終末期に関しては,現在,ガイドラインは存在するが,法律はなく,“ 法の欠缺領域” といわれている.したがって,私たちは,十分な倫理的配慮(倫理的に適切な意思決定プロセス)をして,医療ケアを実践しなければならなくなる.臨床倫理においては,同様な事例でも,それぞれのケースの個性によって解決策が異なることがあり,倫理の正解はひとつではない.しかし,よく「倫理に正解はない」と謂われるが,これは間違いであり,「ある程度の幅をもった正解はある」のである.臨床の現場には,基礎理論どおりにいかない場面がたくさんあるが,臨床倫理の基本的な考え方を知って臨床実践するのと,知らないで臨床実践するのとでは,その意味合いはおおいに異なるのである.
倫理的気づき
 介護現場におけるさまざまな問題点は,実際,介護技術上の問題として意識されていることが多い.たとえば,認知症患者に日常的によくみられる“ 物盗られ妄想““ 徘徊”“ 昼夜逆転““ 介護への抵抗” などは,介護技術の工夫によりずいぶん改善されるが,やはり介護技術上の問題だけでなく,倫理的問題も含んでいると考えると,さらに的確な視点で問題をとらえられるようになる.ケアに関する問題を日常のありふれた当然の現実とする視点から,熟慮に値する倫理的側面をもっているという視点へ転換することが大切である.日常ケアに関する倫理的ジレンマに対する感受性を高め,「何が倫理的問題なのか」という倫理的気づき(ethical sensitivity)を養っていただければ幸いである.
高齢者の“ 自立“ と“ 自律” に配慮することは,尊厳に配慮することになる
 倫理的配慮をすることは必ずしも負担増ではない.「医療ケアにおける倫理」という視点は,医師にとっても看護師にとっても,ケアマネジャーや介護職にとってもまったく新しい視点で,横一線のスタートを切れる格好の協学の材料であるといえる.さらには,倫理的ジレンマを意識することは,私たちの医療ケアの質を高めるだけでなく,私たちの心のケアにつながることになる.利用者や患者,家族,またスタッフ間とのやり取りをめぐってもやもやしている感情が,倫理的ジレンマとして整理されることで腑に落ちるものになるのである.
 高齢者の“ 自立“ と“ 自律” に配慮したケアは,結果として本人の“ 最善の利益“ や“ 尊厳保持” に役立つ.ケア提供者の「本人はこう望むだろう」という視点と,実際に「本人が望むこと」の距離を近づけることがhigh quality careの実践につながるのである.
倫理的価値の対立
 臨床や介護現場というものは,つねに不確実性がついてまわり,ひとつのケースのなかに“ 対立する価値” がある場合がしばしばある.つまり,どちらもそれぞれ「価値があり,善である」ものが対立する.倫理的思考は,これらのケースに適切に対処するツールを提供するであろう.
コミュニケーションの重要性
 家族と医療ケア関係者全員で高齢者を支えるケアを実践するためには,信頼関係にもとづいた,早い時期からの,共感に満ちたコミュニケーションが大切である.本人の考え方や情報を共有し,コミュニケーションを深めることによって,意見の対立(コンフリクト)を生じない適切な解決方法を導くことができる.自分の視点だけで考えるのではなく,他人の視点に立って,もう一度考えてみる.すなわち,他人の視点も,自分の視点と同様に大切であることを認識することが重要である.終末期ガイドラインにおいても,コミュニケーション( 繰り返す話合い) を重視したアドバンスケアプラニング(advanced care planning;ACP)がクローズアップされている所以である.
 臨床倫理には“ たったひとつの正解“ があるわけではない.「よりよく生きる」ための考え方(ツール)を提供し,よりよい医療者-患者(利用者)関係を構築する学問である.そして,その“ ツール” を用いて,現場で,皆さま自身が「高齢者の立場に立ってよく考える」ことが,臨床倫理の大変重要な一分野である「介護倫理」を実践することになる.
 箕岡真子
第1章 介護倫理の基礎
 ethics 1 なぜ介護に倫理は必要か?
   “介護倫理”と生命倫理
   介護における“倫理的ジレンマ“と“倫理的気づき”
   自立と自律,パーソンセンタードケア
  介護倫理の基礎知識
   1.事実factと価値value
   2.“徳倫理“と“倫理原則”
   3.倫理理論
   4.倫理4原則の衝突
   5.SOL,QOL,人間の尊厳
   6.倫理的ジレンマへのアプローチ法
   7.医学的視点と倫理的視点と法的視点のバランスのとれた判断
 ethics 2 認知症ケアの倫理
   1.『新しい認知症ケアの倫理』の必要性
   2.認知症ケアの倫理におけるさまざまな論点
   3.『新しい認知症ケアの倫理』の目指すもの
   4.“抜け殻仮説“からの脱却・“パーソン論”への挑戦
   5.認知症の人における自律autonomyという概念
   6.行動コントロールの倫理
   7.翻訳の倫理
   8.倫理的に配慮されたケア パーソンセンタードケア
第2章 日常ケアの介護倫理
 ethics 1 「介護において嘘をつくこと,だますことは仕方がないのですか?」 認知症ケア
  1 4 分割表の作成 ケースを整理する
  2 倫理的問題点に気づく
  3 Case-1 へのコメント
 ethics 2 「私は 120 歳まで生きたいわ」 自己決定と意思能力
  1 倫理的問題点に気づく
  2 介護倫理の基礎知識
   1.自己決定
   2.意思決定能力
   COLUMN
   3.代理判断 「意思決定能力がない」と判断された場合
   4.誰が代理判断者となるか
  3 Case-2 へのコメント
 ethics 3 「縛らないでくれ! わしは犬ではない!」 転倒と拘束:倫理4原則の衝突
  1 倫理的問題点に気づく
  2 介護倫理の基礎知識
   1.倫理4原則の衝突 対立する倫理的価値(善)
   2.尊厳
   3.拘束の弊害
   COLUMN 拘束にかかわる法律知識
   4.資源配分の公正性
  3 Case-3 へのコメント
 ethics 4 「どうか,もうひと口だけでも食べてください!」 食事・内服の拒否
  1 倫理的問題点に気づく
  2 介護倫理の基礎知識
   1.代理判断の問題点
   2.成年後見制度
  3 Case-4 へのコメント
 ethics 5 「介護中に事故が起こったらどうなるの?」 リスクマネジメント
  1 倫理的・法的問題点に気づく
  2 介護に関係する法的基礎知識
   1.事故と過誤
   2.粉争と裁判
   3.民事責任の基本的構造
   COLUMN 債務不履行に関する用語
   4.民事裁判の流れ
   5.刑事裁判の流れ
  3 Case-5 へのコメント
 ethics 6 「虐待の疑いにどうすればいいの?」 虐待と守秘義務
  1 倫理的・法的問題点に気づく
  2 介護に関係する法的基礎知識
   1.医療従事者の守秘義務
   2.通報・通告(届出)義務
  3 Case-6 へのコメント
   COLUMN 暴力・虐待に関する4 つの法律
 ethics 7 「『本人か家族でなければ教えられない』は正しいの?」 介護現場における個人情報保護
  1 倫理的・法的問題点に気づく
  2 介護に関係する法的基礎知識
   1.医療・介護現場での問題
   2.視点と留意点
   COLUMN 介護サービス利用者への介護提供に必要な利用目的
   COLUMN 目的外利用禁止(16 条)および第三者提供禁止(23 条)の除外規定
  3 Case-7,8,9 へのコメント
 ethics 8 「休みなしの長時間労働で疲れがとれません」 介護者の労働環境
  1 倫理的・法的問題点に気づく
  2 介護に関係する法的基礎知識
   1.介護従事者も労働者 労働条件の整備を求めるのは権利である
   2.QWLという発想の共有
   3.法が労働者を守る
  3 Case-10 へのコメント
   COLUMN 有期労働契約の締結,更新及び雇止めに関する基準(要旨)
第3章 終末期ケアの介護倫理
 ethics 1 「早くお父さんにお迎えに来てほしいの」 終末期ケア
  1 臨床倫理の基礎知識
   1.“看取り”ということが指し示す意味
   2.“安楽死“と“患者の意思によって延命治療をしないこと”
   COLUMN 尊厳死についてのいくつかの見解
   3.倫理的に区別しにくい概念
   4.海外における延命治療の差し控え・中止の事例
   COLUMN その他の終末期に関する判例
   5.日本における延命治療の差し控え・中止の事例
   6.心肺蘇生術(CPR)
   7.蘇生不要(DNAR)指示
   8.人工的水分栄養補給
   COLUMN 終末期認知症患者にとってPEGは有益か?
   9.緩和ケア
   10.終末期の意思決定プロセスとケアプラン
   11.事前指示書
   12.アドバンスケアプランニング(ACP)
  2 倫理的問題点に気づく
  3 Case-11 へのコメント
第4章 介護倫理の実践
 ethics 1 倫理コンサルテーションの実際
  1 倫理コンサルテーションとは
  2 倫理コンサルテーションに関するまとめ
   1.倫理コンサルテーションの検証と意義
   2.倫理コンサルテーションのこれから
 ethics 2 介護事故の裁判外紛争解決 ADRとメディエーションの実際
  1 アクシデント発生 そのとき! それから?
  2 介護メディエーションとは
   1.介護メディエーションとは
   2.ADR・メディエーションの基礎
   3.介護の特殊性
  3 メディエーションに関するまとめ
   1.問題点の整理
   2.話し合いの実際 2つの事例
 ethics 3 事前指示書とアドバンスケアプランニング(ACP) 事前指示(AD)作成の実際
  1 事前指示書とは
   1.事前指示書の役割
   2.事前指示書作成のプロセス
  2 事前指示に関するまとめ
   1.事前指示書は“こころ”で書く
   2.事前指示書は“適切”な状況で書く
   3.事前指示書は“十分なコミュニケーション”をして書く
   4.事前指示書の内容を再確認する

 巻末付録 書式 POLST(DNAR指示を含む)
 おわりに
 索引