やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

まえがき
 糖尿病は古くから知られた疾患で,おそらく人類の誕生とともに存在してきたと思われる.糖尿病に関する記述は,古代エジプト並びに2世紀の現トルコのカッパドキアのAretaeus以来の歴史があり,東洋ではさらに古い時代から糖尿病を思わせる疾患の記述があるらしい.しかし近年までは消化器疾患,循環器疾患,あるいは感染症などに比べて,特に多い疾患ではなかった.糖尿病が世界的にこれほど増加し,国連決議で世界糖尿病デーが設けられるような大問題になるとは,数十年前には想像もつかなかった.
 100年あまりの糖尿病の歴史を振り返ってみただけでも,糖尿病についての認識や治療は著しい進歩をとげた.わたし自身が体験した50年あまりでも変化は大きい.この数十年だけでも,糖尿病の概念,治療目標,治療手段,代謝状態を知るための指標などが,大きく揺れ動いていることがわかる.インスリン発見以前の糖尿病,特に1型糖尿病は恐ろしい病気だった.治療としては食事療法しかなく,検査は尿糖しかなかった.インスリン発見により糖尿病の治療は劇的に変わり,それに伴って食事療法の中身も変わってきた.インスリン治療が始まってケトアシドーシスによる死亡は減少したが,20〜30年たつと失明や腎不全に苦しむ人が増えてきた.網膜症や腎症には高血糖が有害らしい,と臨床医は考えたが,それを裏づける確実な証拠が得られたのは20世紀も終わりに近くなってからであった.近年になって,糖尿病診療の関心は細小血管症から動脈硬化性疾患に移ったように見えるし,さらに2型糖尿病とある種のがんや認知症などとの関係にも関心がもたれるようになってきた.
 糖尿病に用いられる経口薬としては長らくスルホニル尿素薬とビグアナイド薬しかない時代が続いたが,20世紀終わり頃からいろいろ作用機序を異にする薬剤が続々登場してきた.最近はインクレチン関連薬とSGLT2阻害薬に関心が集まっている.後者は尿糖を増やして血糖を下げようとする薬剤であり,その昔,尿糖ゼロを目標としていた時代からみればまさに逆転の発想である.インスリン製剤ではアナログの時代となり,代謝異常の評価にはHbA1cが中心となった.
 古い時代の歴史はさておき,近過去の歴史は,現在の糖尿病についての理解を深めるのに参考になる点が多い.わたしは2002年以来,糖尿病の歴史に関連ある話題について「肥満と糖尿病」誌と「プラクティス」誌に,計70回以上にわたって小文を連載してきた.本書はその連載をまとめたものである.単行本化にあたっては記事の順序を入れ替えたり,一部を省いたり,加筆したりした.長期にわたる連載だったこともあって章をまたいで重複した内容もあるが,多くの部分では重複部分を削除せずそのまま残した.
 糖尿病に関する歴史の本はすでにいくつも出版されているが,雑誌の連載にあたっては,なるべく現在の糖尿病学や糖尿病治療と関係があり,これまでの歴史本で取り上げられることが少なかった話題を選ぶように心がけた.したがって内容はこの100年くらいの話題が大部分で,いわば20世紀の糖尿病学の話ということになる.インスリン発見以前の話や21世紀の話題は少ししか触れていない.また系統的な記述を心がけたわけではなく,話題はあちこちに飛んでいる.
 連載の期間,および単行本化にあたっては多くの方の励ましを得た.恩師の故小坂樹徳先生は別刷を送ると折々感想を寄せてくださった.故松田文子先生からも生前,いろいろの意見をいただいた.三木英司先生には連載の一部の執筆をお願いしたこともある.妊娠の項では大森安惠先生の助言をいただいた.古い文献集めには自治医科大学の奥沢正子さん・野口清美さんの手をお借りした.本書をまとめるにあたり,医歯薬出版の編集部のご協力を得た.以上の方々に,この場を借りて感謝を捧げたい.
 2017年4月
 自治医科大学 名誉教授
 葛谷 健
 まえがき
序章 糖尿病の概念の変遷―症候学から代謝異常,成因,慢性合併症へ
第1章 インスリン治療
 1 インスリン発見直後のインスリン治療
 2 持続性インスリン製剤の開発とインスリン療法への影響
 3 魚のインスリンが用いられた時代
 4 遺伝子工学によるインスリンの生産の始まり
 5 インスリン製剤中の不純物とモノコンポーネント・インスリンの誕生
 6 プロインスリンの発見
第2章 合併症(1)三大合併症の確立
 1 糖尿病腎症の概念の確立
 2 糖尿病網膜症の解明
 3 Lundbaekの著書「Long-term Diabetes(1953)」
 4 糖尿病神経障害の解明
第3章 合併症(2)血糖コントロールと合併症の関係
 1 インスリン治療が広まってから合併症が増えた?暗い時代
 2 血糖コントロールと血管合併症:筋肉毛細管基底膜論争
 3 DCCTへの道のり
第4章 食事療法
 1 食事療法の歴史的視点(1)
 2 食事療法の歴史的視点(2)
第5章 経口血糖降下薬
 1 血糖低下作用のあるサルファ薬2254RP,およびスルホニル尿素薬の発見
 2 スルホニル尿素薬のその後:UGDPなど
 3 ビグアナイド薬のたどった道(1)
 4 ビグアナイド薬のたどった道(2)
第6章 糖尿病の2つの病型
 1 糖尿病の2つの病型(1) 1950年代以前
 2 糖尿病の膵病変:Opieと膵島の「ヒアリン変性」
 3 糖尿病の2つの病型(2) 1型糖尿病の発見――膵島抗体が見つかった頃
 4 糖尿病の2つの病型(3) 1型糖尿病・2型糖尿病という用語
 5 1型糖尿病と膵島炎
第7章 2型糖尿病の病態を巡る議論
 1 軽症糖尿病ではインスリン分泌は低下しているのか,増加しているのか?――1960年代の成績
 2 2型糖尿病:根本の原因はインスリン分泌低下か,インスリン抵抗性か?
第8章 糖尿病と妊娠
 1 糖尿病と妊娠――おもにインスリン発見前の状況
 2 Whiteと糖尿病患者の妊娠の分類,Pedersenの仮説
 3 妊娠糖尿病 Gestational diabetesの概念の変遷
第9章 糖尿病の疫学と検診
 1 Westと著書「Epidemiology of diabetes and its vascular lesions」――糖尿病の疫学の成立
 2 Joslinと糖尿病の予防
 3 糖尿病検診の始まり
第10章 病態・治療の指標
 1 QueteletとBody mass index(BMI,体格指数)
 2 グリコヘモグロビン:発見から糖尿病治療の重要な指標へ
 3 血糖自己測定の始まり
 4 インスリンの測定:バイオアッセイからラジオイムノアッセイへ
第11章 米国と英国の学会・協会
 1 米国糖尿病学会(American Diabetes Association:ADA)の設立と初期のエピソード
 2 RD Lawrenceと英国糖尿病協会
終章 なんのために糖尿病を治療するのか?―治療目標の変遷

 参考文献
 索引