やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

監修者の序
 今から数年前,日本行動分析学会の年次大会のさいのことであった.リハビリテーション医療の現場で活躍中の辻下守弘氏と小林和彦氏から「リハビリテーションの領域に行動分析学の原則と技法を適用したいので,協力してほしい」という熱心なお申し出をいただいた.私も以前から,行動分析学の原則と技法はリハビリテーション医療の現場にも有効に適用できるという思いをもっていたので,「それは実に素晴らしいことだ」と即座に協力を申し出た.その後,両氏と何度か話し合っている間に,まずリハビリテーションの分野で活躍している医療職を対象として,行動分析学とは何か,それがどれほど有効なのかを紹介説明する研究会を開催しようということになった.こうして平成14年6月16日,辻下氏の勤務する広島県立保健福祉大学(当時)において,大学側の深い理解と支援のもと,「第1回リハビリテーションのための行動科学研究会」が開催された.講演を担当したのは,行動分析学の第一線の研究者である岡山大学の長谷川芳典教授,関西学院大学の芝野松次郎教授であり,私にもチャンスが与えられた.幸い多数の方々の参加を得て盛大に開催され,かなりの反響が得られたようである.リハビリテーション医療の現場で活躍している医療職を対象として,行動分析学に関する研究会が開かれたのは,おそらく初めてのことだったであろう.
 その後,この新しい試みをさらに促進し,着実な発展をもたらすためには,この問題についてのわかりやすい入門書が必要であり,それを刊行したいという願いが生まれてきた.やがて刊行までの具体的な計画は辻下氏と小林氏が立案し,リハビリテーションの研究者,および行動分析学の研究者のなかから執筆者をお願いすることとなった.私には年長者のためか監修の大役を依頼された.私はリハビリテーション医療の分野に大変疎いので躊躇もしたが,何とか本書の刊行をと願う気持ちからその役をお引き受けすることにした.
 刊行の日を迎えるにあたり,私たちの願いを快諾されてご執筆いただいた方々,および新しい試みをご理解いただいて出版をお引き受けいただいた医歯薬出版株式会社,および刊行に至るまでに絶大なご支援をいただいた編集担当者に深くお礼を申し上げたい.
 本書が,リハビリテーション医療の領域でご活躍中の皆様のお役に立てればと強く願っている.なお,本書の内容などについて諸賢の忌憚のないご批判とご教示をいただければ幸いである.
 2006年4月20日
 河合伊六

編者の序
 リハビリテーション医療の目的は,不慮の事故や各種疾患が原因で障害をもつことになった人々の社会復帰を支援することである.その支援の方法とは,障害を受けずに残された機能を最大限に高め利用することと,生まれもったあるいは生活歴のなかで獲得した潜在能力を発掘し開発することといえる.前者に対しては,障害自体の回復や不活動が原因で生じる廃用症候群の予防と治療など医学の知識や技術が大きな力を発揮し,リハビリテーション医療が大きな役割を果たしてきた.一方後者に対しては,医学よりも心理・教育・社会的なアプローチがより重視されるため,従来のリハビリテーション医療が十分な役割を果たしてきたとはいえない.
 その原因は,リハビリテーション医療がこれまで行動の指針としてきた「疾病・変調→機能障害→能力障害→社会的不利」という障害モデル(国際障害分類:ICIDH)にある.つまり,このモデルでは,社会復帰にとって疾病や外傷など身体的問題の解決がもっとも重要であるかのような誤解を招き,結果的に医学的アプローチが重視されることとなったのである.しかし,このモデルは21世紀に入り大きく変化し,現在では障害の身体的問題に固執する考え方を改め,人間の生活機能全般を包括的にとらえようとするモデル(国際生活機能分類:ICF)が提唱されるようになった.この新しいモデルには,個人因子と環境因子も含めた多面的な人間理解の重要性が強調されており,リハビリテーション医療における行動科学的アプローチの導入は必要不可欠となった.
 行動科学的アプローチとは,人間の行動を「身体〓?〓心理〓?〓社会」といた多因子の側面から総合的に解明し,そこから得られた法則性を利用して人間の行動を科学的に予測・制御しようとする方法である.すでに,米国やカナダにおいて行動科学的アプローチは,保健医療従事者の常識であり医師や看護師の国家試験科目にも含められているが,日本ではその導入が遅れ未だにその重要性が充分理解されているとはいえない.日本の保健医療のなかに行動科学的アプローチが導入されていないことは,医療を求める人々の自立やQOLの改善,そして医療事故や医療費の高騰といった難渋する問題の解決を滞らせている最大の原因であろう.本書の企画は,編者らによるこのような強い問題意識のなかから生まれたことを書き記しておきたい.
 さて,行動科学的アプローチには数多くの技法があり,大きく分けると行動の原因を感情や思考など人間の内部に求める技法と人間関係や生活環境など人間の外部に求める技法がある.前者の代表である「カウンセリング」は,心への介入に基づいて行動の変容をはかろうとするのに対して,後者の代表である「行動療法」は,環境への介入に基づいて行動の変容をはかろうとする.保健医療分野において,前者の技法についてはこれまでにも数多くの書籍がすでに存在しているが,後者の技法については皆無に近いのが現状である.そこで,本書では後者の技法を紹介したい.行動療法には,環境だけでなく心への介入も併用した技法が存在するが,とくに本書では環境への介入を主体とする「行動分析学的アプローチ」という技法について解説する.
 行動分析学の魅力は,その基礎的な考え方であるオペラント学習理論がシンプルでわかりやすいことと,数量的に観察可能な行動だけを扱うという科学性の高さにある.しかし,この魅力が仇となって保健医療のなかでは長年誤解を生み,行動分析学的アプローチの導入を拒み続けてきた.オペラント学習理論と聞いて多くの人々は,えさと罰を組み合わせた動物の餌付けや調教をイメージされるだろう.したがって,このような動物に対して使われる技法を人間に対して使うのは虐待であり卑劣な行為だと非難されるのである.しかし,実際の行動分析学的アプローチは,このようなえさと罰を与えるような単純な技法ではなく,人間を取り巻く環境を効果的に整備して,人間がもつ潜在能力を最大限に引き出そうとする,より人間的なアプローチである.たとえば,看護師に暴言を吐く患者がいたとしよう.これまでの医療現場では,暴言を吐く患者の人格を攻撃し,問題患者としてレッテルを貼り,責任を患者に丸投げするような傾向がみられた.一方,行動分析学では,問題行動の原因を患者の人格にするのではなく,周囲の人々の関わり方に責任があると考える.つまり,患者は潜在的に望ましい行動をもっているが,患者を取り巻く環境に問題があるため,暴言を吐くという問題行動が現れていると解釈する.一体どちらがより倫理的であろうか.そしてより人間を尊重したアプローチであろうか.
 本書の出版は,このような誤解を解くための果敢なチャレンジである.本書を読めば,行動分析学的アプローチに対するこれまでのネガティブなイメージを払拭し,これがいかに人間を尊重し,人間を中心に据えたアプローチであるかということを理解していただけるものと期待している.
 共通の問題意識をもった有志の力で,平成14年4月には「リハビリテーションのための行動科学研究会(平成15年4月より「リハビリテーションのための行動分析学研究会」に名称変更)」を立ち上げることができた.脳科学や認知科学が華々しく掲げられるリハビリテーション医療のなかで,我々は敢えて地味な行動分析学の研究をしている.我々医療者は「根拠に基づいた科学的な医療」を病に苦しむ人々に提供することが専門家としての責務である.「根拠に基づいた科学的な医療」とは,小難しい理屈と統計的なデータを並べ立てることではなく,目に見える対象に具体的なアプローチをすれば誰もがわかるような結果が事実として現れるといった医療を提供することである.リハビリテーション医療は,行動分析学を応用することで,より「根拠に基づいた科学的な医療」を実践できるようになると確信しており,本書の出版を契機として保健医療のなかへ少しでも導入が進むことを心より願っている.
 本書の企画に当たり,広島大学名誉教授の河合伊六先生には本書の監修を快く承諾していただいた.この場をお借りして感謝を申し上げたい.また,先生には本書の根幹ともいえる第1章「なぜ今行動分析学なのか」の執筆を担当していただき,読む者を魅了する筆力と情熱で本書に花を添えていただいた.
 第2章と第3章では,日本行動分析学会の幹部であり,行動分析学研究のトップリーダーである長谷川芳典先生と園山繁樹先生に,それぞれ「行動が学習される仕組み」と「行動の観察・記録の方法」をわかりやすく解説していただいた.
 第4章は,日本行動分析学会における新進気鋭の研究者であり,臨床家でもある奥田健次先生に「根拠に基づいた科学的な医療」を実現するうえでもっとも重要な「症例研究の方法」を解説していただいた.
 第5章から第9章までは,行動分析学を用いた具体的なアプローチの紹介を目的として,各専門分野における実践事例を第一線のセラピストにより供覧していただいた.
 第10章では,本書の内容を補うための書籍とウェブページを詳細に紹介した.各文献の概要を読むことで自分に適した文献と出会い,さらに知識を深めていただくことを期待している.
 保健医療系の養成課程において,行動分析学は,心理学講義のなかで学習理論として紹介されるが,その詳細な知識や技法を学ぶ機会は皆無である.日本では,行動分析学どころか行動科学自体がカリキュラムのなかに盛り込まれている大学さえ少ないのが現状である.そこで,このような現状を理解したうえで執筆者は,知識が全くない初学者でも読み進めていけるよう専門用語をなるべく避け,わかりやすい文章で説明し,イラストや図表などを多く用いるように心掛けた.各章には知識の整理を助ける「ポイント」と「まとめ」を設置し,「MEMO」欄では関連知識も学べるように配慮した.さらに,巻末には難解な専門用語をわかりやすく解説した用語集も収録したので参照されたい.
 本書は,リハビリテーション医療に携わる医師,看護師,理学療法士,作業療法士,言語聴覚士,臨床心理士,ソーシャルワーカーだけでなく,各医療職を目指そうとする養成校の学生,そして老人福祉に携わる介護福祉士や介護ヘルパーなど介護職の方々にも役立つ内容であり,一人でも多くの方が行動分析学を理解し,日々の仕事へ応用されることを心より願っている.
 最後に,企画・編集に関してお世話いただいた医歯薬出版株式会社編集担当者に感謝申し上げたい.
 2006年5月20日
 辻下守弘
・執筆者一覧
・監修者の序(河合伊六)
・編者の序(辻下守弘)
第1章 なぜ今行動分析学なのか(河合伊六)
 1.リハビリテーションへの行動分析学の導入の有効性
  (1)リハビリテーション現場の課題
  (2)行動分析学の導入
 2.行動分析学を導入することのメリットは何か
  (1)個人ペースの原則:個人に合わせた機能練習のペースと練習課題を設定するので練習効果があがりやすい
  (2)具体的な到達目標の設定:最適な練習方法が選択でき,目標達成も具体的に評価できる
  (3)先行刺激の設定:正しく行動できるように場面状況を整備し,適切な働きかけをする
  (4)スモール・ステップの原則と分化強化の原則:この2つの行動形成の原則を活用することにより,早く確実に習得できる
  (5)スモール・ステップの原則:連続的成功をもたらす条件
  (6)「成功こそ成功のもと」:意欲は,成功による達成感,満足感によって強められる
  (7)対象者検証の原則:指導計画を修正する
  (8)行動は結果によってコントロールされる
  (9)罰や脅しよりも強化を重視する
  (10)ルールによってコントロールされる行動
 3.心理療法における行動分析学の位置づけ
  (1)精神分析に基づく心理療法の発展と衰退
  (2)行動(学習)理論に基づく行動療法,行動分析学の発展
 4.行動分析学は非人間的なアプローチか:批判に答える
  (1)行動分析学は人間を動物扱いしているという誤解
  (2)「餌づけ」非人間的な取り扱いであるという誤解
  (3)対象者は行動論的方法を望んでいる
  (4)行動分析学は自由と尊厳を損ねているという誤解
 5.まとめ
第2章 行動が学習される仕組み(長谷川芳典)
 1.行動とは何か?
 2.行動の原因とは何か?
  (1)“なぜ行動をするのか?”にどう答えるか
  (2)2つのタイプの行動:レスポンデントとオペラント
  (3)行動が学習される仕組み
  (4)オペラント条件づけの基本原理
  (5)行動分析がサイエンスとなりうる理由
第3章 行動の観察・記録の方法(園山繁樹)
 1.標的行動の定義と記述
 2.観察・記録の側面
  (1)頻度
  (2)持続時間
  (3)強さ
  (4)潜時
  (5)産物
  (6)行動随伴性
 3.観察・記録法の種類
  (1)間接的方法と直接的方法
  (2)観察・記録の時と場
  (3)観察記録者
  (4)観察・記録法のタイプ
 4.観察・記録の用紙と用具
 5.観察・記録の信頼性
 6.まとめ
第4章 症例研究の方法(奥田健次)
 1.はじめに
 2.単一症例研究法とは何か
  (1)ABデザイン
  (2)反転デザイン
  (3)多層ベースラインデザイン
  (4)その他のデザイン
  (5)まとめ
 3.単一症例研究法における留意点
  (1)ベースラインの傾向を読み取る
  (2)同一フェイズでは条件を一定にする
  (3)外的な要因をできるだけ排除する
  (4)倫理的側面に配慮する
 4.症例研究の方法
  (1)追試可能性(反証可能性)の高さ
  (2)客観的評価が可能な記述
  (3)論文としての構成
  (4)科学論文を書くための姿勢
  (5)実践研究
  (6)個人情報の保護についての十分な配慮
 5.まとめ
第5章 慢性痛に対する行動分析学的アプローチ(辻下守弘)
 1.痛みがなぜ問題となるのか
 2.痛みとは何か
 3.痛み行動とは何か
 4.慢性痛に対するアプローチの基本方針
 5.慢性痛に対する行動分析学的アプローチの方法
  (1)痛み行動の明確化
  (2)行動アセスメント
  (3)実施計画の立案
  (4)計画の実施と評価
 6.行動分析学的アプローチの実践例
  (1)ケース1:長期の入院により仕事を失った慢性腰痛症患者
  (2)ケース2:下肢に強い痛みを訴え復学が困難となった少女
 7.まとめ
第6章 生活の自立を支援するための行動分析学的アプローチ(小林和彦)
 1.なぜ,リハビリテーションや介護に行動分析学が必要なのか
 2.高齢者施設において問題となる状況とは
 3.行動分析学の枠組みによる行動変容のための基本的方略
 4.リハビリテーションもしくは介護場面における応用
 5.行動分析学の枠組みによるアプローチの実践例
  (1)介護老人保健施設での車椅子操作指導に対する行動分析学的アプローチの適用
  (2)介護老人保健施設における行動分析学の枠組みを用いた転倒傾向の高い入所者へのトランスファー介助指導
 6.まとめ
第7章 高次脳機能障害に対する行動分析学的アプローチ(久保義郎・坂本久恵・殿村 暁・佐野玲子・佐々木和義)
 1.高次脳機能障害とその問題
 2.高次脳機能障害へのアプローチの考え方
  (1)認知リハビリテーション(cognitive rehabilitation)
  (2)行動分析学的アプローチ
 3.行動分析学的プログラムの組み立て方
  (1)標的行動の選択と変容要因の検討
  (2)刺激の整備
  (3)強化子の選択
  (4)アプローチにおける注意点
 4.行動分析学的アプローチの実践例
  (1)ケース1:半側空間無視に対する自己教示訓練
  (2)ケース2:手がかり刺激を用いて視空間認知障害を補助した例
  (3)ケース3:入院生活の適応を改善した重度記憶障害者の例
  (4)ケース4:単身での地域生活の自立援助をはかった記憶障害者の例
  (5)ケース5:トークン・エコノミー法による間食行動の低減
 5.おわりに
 6.まとめ
第8章 健康教育・患者教育に対する行動分析学的アプローチ(岡崎大資)
 1.高齢者の医療費と健康教室
 2.健康教育におけるアプローチの考え方
  (1)転倒予防に必要な視点
  (2)好子の伴いにくい行動から能動的行動へ
 3.転倒予防教室における行動分析学的介入の実践
  (1)転倒予防教室の紹介
  (2)行動分析学に基づく転倒予防教室介入スケジュール
  (3)転倒予防教室における行動分析学に基づく介入の結果
  (4)転倒予防教室における行動分析学に基づく介入スケジュールの考察
 4.まとめ
第9章 急性期脳卒中片麻痺患者に対する行動分析学的アプローチ(甲田宗嗣)
 1.理学療法場面における行動分析学
 2.行動分析学的アプローチの実践例
  (1)ケース1:歩行スピードが向上した症例
  (2)ケース2:実生活での歩行を獲得した症例
 3.まとめ
第10章 さらに深く学ぶために―書籍とウェブページの紹介―(甲田宗嗣・田村文彦)
 1.はじめに
 2.書籍紹介
  (1)行動分析学の基礎を学習するために
  (2)行動分析学を実践するために
  (3)行動分析学の理解を深めるために
 3.ウェブページ紹介
  (1)学会・研究会のページ
  (2)個人のページ
 4.まとめ

MEMO
 ●罪を憎んで人を憎まず ●重度障害の青年の学習 ●ABCDEH分析 ●生態学的アセスメント ●因果関係と相関関係 ●個人差について ●痛み症状を訴える人の実態 ●カウンセリングとの違い ●プラシーボ(偽薬)効果の利用 ●行動分析学の分野 ●行動療法家の必要条件 ●今すぐ臨床に役立つ本 ●TEACCHからのヒント ●行動内在的好子の可能性 ●行動に至るまでの個人の歴史 ●スキナーによる行動分析学の理論の展開
 ●コラム:認知療法・行動療法・認知行動療法の違い(辻下守弘)
 ●コラム:高齢者施設での行動分析学の枠組みによる介護スタッフトレーニング(小林和彦)

 ・用語解説
 ・索引