やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

監修のことば
 医療事故の社会的認識,注目度は高まって来ている.1999年発行の『人は誰でも間違える』に記された,米国内での年間の医療事故関連死亡数が44,000人から98,000人という数字は衝撃的であったが,我が国には同規模の調査統計資料はないので,人口比率からみても,相当数の医療事故関連死亡があるのは明らかである.今世紀に入って,重大な医療事故の場合には,医療事故の公表とともに,原因究明のために医療事故調査委員会が設置されるようになったが,医療施設が透明性の確保と説明責任を果たしているか,まだ,不十分な感が否めない現況にあるといえよう.医療事故調査委員会を数回,経験した特定機能病院においてさえも,委員会の運用には毎回のように問題を抱えておられることであろう.
 さて,私の個人的経験であるが,2002年の名古屋大学医学部附属病院の医療事故調査委員会が初めての参画であり,「どのように調査するのか?」「どのように報告書をまとめるのか?」当初は全く理解できていない状況にあった.手術中の医療事故であったことから,外科医としての私の認識は,「手術の進行,外科医・麻酔科医の連携,輸血の対応など,手術に直接関連する事項が調査対象になる」という程度であった.また,「経験不足や不注意,コミュニケーションの問題もあるのではないか」との問題意識を持って委員会に臨んだ記憶がある.このような経験不足の私が委員長に任命されたのは,経歴から病院内において第三者的立場にあったことが,重視された結果と考えている.委員の中では私が最も経験不足であったが,幸い,医療事故に造詣の深い委員の皆様によって構成され,委員会は集中審議で,2カ月間で医療事故調査委員会報告書が完成した.現在までに私が経験した委員会の中では,最も迅速な調査委員会の運営であった.とりわけ,当時,報告書の内容*は画期的とも言えるとの高い評価を戴いた(なお,この報告書は数年を経て,調査委員の方々が執筆された『医療事故から学ぶ』にも掲載された).その後,私は名古屋大学医学部附属病院の医療安全管理部長を5年間にわたり拝命することになり,日本心臓血管外科学会でも医療安全管理委員会委員長を拝命してきた.また,他施設の医療事故調査委員会にも数回,参加してきたが,特定機能病院でも,「当事者の過失責任はどうなのか?」という雰囲気の委員会もあり,自施設の重大医療事故への対応,医療事故調査委員会の運用には,大きな格差があった.
 そこで,私は,毎回,自らの医療事故調査の経験を話すとともに,名大病院の報告書の項目立てを参考にして,委員会の方向性を明らかにすることをお勧めしてきた.時には,すでに内部の調査委員会が完了している事例もあったが,システムとしての医療事故調査が欠けているものが多く見受けられ,院内における同僚評価の困難さが窺われた.これは,同僚を庇う姿勢が表れたものではなく,調査に当たられた方々は十分な医療事故調査の経験がないこと,つまり,分析手法の知識も不足気味であったことによるものであった.つまり,ほとんどの委員会においては,初めて調査に参加する医師やコメディカルの委員がおられ,彼らの関心は医療事故の重大性,当事者の問題に集中しており,「誰が問題であったのか?」と個人の責任追及になるのでは,との危惧を持っておられるのが窺えた.このような個人的経験から私は,医療事故調査のあり方,調査の手引きのようなものがあれば大いに参考になる,さらには,調査に関わる人材の育成が不可欠であると常々考えていた.
 2008年4月に,財団法人生存科学研究所医療政策研究会による「院内事故調査の手引き」の作成に向けての活動において,私見を述べる機会を持ったのが,医療政策研究会の皆様との意見交換の始まりであった.私は,「院内事故調査の手引き」の内容について,個人的経験に基づいて現場で苦慮する点を述べ,理想と現実の乖離について数回にわたり話し合う機会があった.こうして本「手引き」の監修をさせていただくことになったが,2009年1月には,私は国立循環器病センターの事例調査委員会の委員長を拝命したこともあり,院内医療事故調査の重要性をさらに意識せざるを得なくなった.つまり,院内医療事故調査では,外部委員の役割,医療事故調査の透明性の確保が重視され.院内調査委員会が自律的に役割を発揮できねばならない.そのためにも,事故調査のあり方,手続きの進め方などについて委員各自の認識が必須であり,この「院内事故調査の手引き」が,経験の少ない委員にとっては貴重なガイドとなると考えている.また,当該の医療施設としては,医療事故調査報告書を元に説明責任を果たすこと,提言にしたがって再発防止策を実行し信頼を回復する方向に活動することが求められている.
 病院の規模を問わず,医療事故調査の方向性や分析手法には大差はないと考えられるが,調査をより行い易いようにサポートする環境を平時より作っていく必要があるように思う.この「院内事故調査の手引き」は,医療事故発生後から実際に即してポイントがまとめられており,カンファレンス,研修会等でも有効に利用していただければ幸いである.
 *名古屋大学医学部附属病院医療事故調査委員会:医療事故調査報告書.平成14年10月18日.
 http://www.med.nagoya-u.ac.jp/anzen/img/second_image/history/a.pdf

 上田裕一
 名古屋大学大学院医学系研究科病態外科学講座心臓外科学教授
 日本心臓血管外科学会 医療安全管理委員会委員長

緒言
 医療機関において重大な有害事象が発生したとき,どのような事象について,どのようにして院内事故調査委員会を設置し,誰が,どのように事故調査を進めるべきか.
 この10年,重大な有害事象が生じるたびに,公正な事実認定と情報公開が病院の社会的責任であると指摘されてきた.その結果,特定機能病院では,事故調査のための組織がつくられ,調査が行われてきた.あるときは事故から相当の時間が経過してから社会的非難に対応するかたちで調査したり,また,あるときはいったん報告を出しながら組織を改めて調査をやり直すこともあった.この間の院内事故調査は,試行錯誤の繰り返しであったとも言えるが,特定機能病院において,断片的にそのノウハウが蓄積されてきた.
 院内事故調査の目的は,まず事実認定と事故原因の分析によって「なぜ事故が起きたのか」という疑問を明らかにし,それを再発防止に繋げ,説明責任を果たすことにある.しかし,特定機能病院の事故調査でも,このような視点から再発防止に繋がる調査をした例は少ない.いわんや,地方自治体病院をはじめ民間総合病院などの中小規模の医療機関では,重大な有害事象が発生した場合の備えは不十分で,現場の不安も大きい.
 これまでの事故調査の進め方は,概略,二つの方式に分けることができるであろう.仮に「倫理委員会方式」と「モデル事業方式」と呼ぶとしよう.前者は事実認定から原因分析について外部委員を入れて進める方式であり,後者は少数の専門家によって事実認定と原因分析,再発防止策をまとめ,それを外部委員らがオーソライズする方式である.「診療に関連した死亡の調査分析モデル事業」では,この後者の方式を用いている.「倫理委員会方式」の事故調査は,名古屋大学医学部附属病院の築いた仕組みをもって嚆矢とする.
 手引きの作成にあたり,中小規模の病院でも再発防止を目的とした院内事故調査を可能とするため,有害事象及び医療事故の調査の姿勢と対応について全国社会保険連合会傘下の52病院(一般病床604床〜40床の病院)のご協力の下に実態調査を行った.その結果をうけて,この手引きでは,中小規模の病院でも現在の諸制度の下で可能であり,かつ外部委員を当初から入れて客観的な視点で事故調査を行う「倫理委員会方式」を推奨することとした.特に非医療職の外部委員を必須条件とすることにより,専門性のみを重んじた調査から社会に開かれた調査に軸足を移す姿勢を明確にした.そしてこれまでの間に蓄積された医療機関における事故調査の教訓から,どうすれば公正な事故調査が可能か,説明責任はどのように果たすべきか,どのように事故調査をすべきか,具体的な手続きを整理した.
 我々は,これまで医療事故の刑事介入に関する評価研究1),第三者機関による事故調査の提言2),国の医療事故調査委員会案に対する検討3)そして中小規模の医療機関における危機管理と院内事故調査体制に関する実態調査4)を行ってきた.この手引きは,これらの一連の研究を踏まえ,院内事故調査の重要性から,どんな規模の病院においても再発防止を目的とした事故調査ができるように,手順を具体的に整理したものである.
 重大な問題は,忘れたころに起こる.どんなときにも「隠さない,逃げない,ごまかさない」という医療事故調査の原則を貫いて,地域の信頼を確かなものとするため,この手引きをご利用いただきたい.
 なお,この手引きにおいては,病院を対象とした説明を展開するが,診療所においても,医療事故調査において求められる要件は異なるものではないので,診療所においても参考にしていただきたい.
1章 院内事故調査のフロー
2章 院内事故調査委員会の目的と役割
3章 重大有害事象発生時の初期対応
4章 緊急対応会議
5章 院内事故調査委員会設置基準
6章 院内事故調査委員会の組織
7章 院内事故調査委員会の進め方
8章 院内事故調査委員会における事務局体制
9章 事故調査報告書の書き方
10章 事故調査報告書の取り扱いと公表
11章 患者側当事者への対応
12章 医療側当事者への対応
13章 再発防止策の策定と実施状況の検証
14章 医療安全調査委員会設置に向けての提言
15章 院内事故調査の実効性を担保するための提言

付録 事故調査報告書例