やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに
 拙著『医学生のための漢方・中医学講座』*を昨年刊行しました.この本は,もともと漢方・中医学をはじめてみようという医師を対象に雑誌『中医臨床』(東洋学術出版社発行)に連載していたものを,医学生にも読んでいただけるようにアレンジして一冊にまとめたものでした.したがって,「医学生のための」というタイトルとは裏腹に,内容は卒後の臨床実践のことに結構触れましたが,医学生が生の臨床内容に触れることは,漢方・中医学が実践医学であるがゆえに本当の理解への近道だと思います.おかげさまで,この本は医学生,医師の双方に好評をいただいております.意外だったのは,一般の方,医学を専門としない方々にもお読みいただいているということです.
 さて,難しい理論をあえて含まなかった前著ですが,実践に必要な最小限の理論は解説したつもりです.しかし,「やはり体系的な理論の説明があったほうがよい」という声もありました.
 漢方・中医学の理論を学ぶ書籍はいくらでもあります.立派な本がたくさん出版されています.しかし,私が理論を初めて学習していたときのことを思い起こしますと,結構(かなり・相当)苦戦していました.まず用語の難解さが壁となり,次いで陰陽五行説や西洋医学とは違う五臓六腑や気血の概念がスムーズな学習を阻害したものです.こんな七面倒臭い学習は止めようと何度も思いました.今となって振り返ってみると,詳しい本やよく書いてある本が多いと感じるのですが,初学者とそういう高度な本との間を埋めるようなものはあまりないように感じています.例えば,
 Q:気とは結局何なのか?
 Q:陽虚と気虚はどう違うのか?
 Q:陰陽・虚実の定義が日本漢方と中医学で違うようだ,混乱する!
などの疑問にわかりやすく答えてくれる本は少ないと思います.
 初学者に毛の生えた程度のレベルにある私が,そういう溝を埋めるような役割を果たせるかもしれないと思いつつ,体系的に書籍を作ることはまず不可能と考えましたので,前回と同様に,とにかく理論に馴染んでいただくこと,馴染んだら応用できるようにすること,上記の高度な内容の本がすらすら読めるようになること,を目的とした本をもうひとつ,臨床医としての立場から書くことにしました.
 本書も前著と同様,医学生を念頭において書いたものですが,基礎理論を学びたいすべての方にお勧めできるものと自負しています.ただし,私の勉強不足のため物足りない箇所もあると思います.その点については容赦いただければ幸いです.
 「勉強ができなかった人ほど,良い教師になれる」と言います.私はこと漢方・中医学に関しては出来の悪い徒です.例えば,本を読んでいて,ある箇所にまるで新発見をしたように驚嘆することが時々あります.さて,別の何年も前に読んだ本を紐解くと,そこに全く同じ内容のことが書いてあり,しかもそこに何度もアンダーラインが引いてあったりするのを見つけるとガッカリします.そんなことをいまだに繰り返しています.出来の悪さを痛感させられます.しかし,自分が学習するときに苦労してやっと乗り越えた箇所では,後から来る人たちがそこを乗り越える際に手を差し伸べることができますし,自分がいまも悩んでいる箇所では,ともに悩んで一緒に克服することもできるかも知れません.遠い将来,「良い教師」になれることを夢見てはおりますが,今のところの私は「出来の悪い上級生」というところでしょうか.
 この本は,前著と合わせて,みなさんが「わが国で行われている漢方診療に自信を持って入って行けること」をとりあえずの到達点としました.「わが国で行われている漢方診療」とは,通常の場合,健康保険で使うことのできる「漢方エキス製剤」による診療です.これ以外の伝統的な方法(煎じ薬など)を行える環境にある医師は非常に少ないもので,実際にそのあたりを最初から云々することはあまり現実的ではないと思われます.
 登山で山頂を目指すとき,いくつかのルートがあります.ノンビリと進みつつ途中の自然を愛でたい場合はそれにふさわしいルートを採ればよいのですが,要は頂上に到達すればよいという場合には,安全で登りやすいルートや近道を選択することになります.これと同じく,「漢方エキス製剤」による診療を行うことが現実的な到達点である=使う治療手段が「漢方エキス製剤」である,ということは,そこへ至る道筋にはあまりこだわらなくてもよい,というのが私の考えです.こだわりが必要ないのであれば,誰にでも理解しやすく,確実に身に付くルートがよいに決まっています.そして「漢方エキス製剤」を自在に使いこなせるようになるためにはできるだけしっかりした,しかもシンプルな理論をバックボーンとして自分の中に備えることがよいはずです.
 ところで,日本漢方にはあまり理論と呼べるものがありません.漢方は,その発展の途上で理論を廃し実践に重きを置いてきたのでこれは仕方がありません.理論に乏しいために,漢方診療の指導には,臨床技術の師伝という方法が採られることになりました.一方,中医学では理論が発達し,中国では教科書もでき,実践には理論というバックボーンが通っていますので,師匠が後進を指導する際には,理論から入ることができるわけです.
 本書は,日本漢方の「理論」から入りたい人には向いていないかもしれませんが,上にも述べましたように医学生,医師が東洋医学を学ぶ上での中間到着地点は,「漢方エキス製剤」による診療を行えるようになることであり,さらにそこから直結する「治す」という頂上を目指すことのはずです.「中医理論の理解を通じて漢方エキス製剤を使いこなせるようになる」,これはその道の専門家から見れば中医学でしょう.しかし,漢方エキス製剤を使いこなして治療をする,という点では,日本漢方の流儀であろうが中医学のそれであろうが,患者さんにとっては区別がつきませんし,どちらでもよいと思うでしょう.どんな理論で動いていようが,使うものは同じ.患者さんが治ればよいのです.このような理由から,本書では中医学の理論(中医理論)の理解を優先させる方策を採りました.
 日本漢方の道をスイスイと登っている方,どうしてもそちらのルートが好きという方も,頂上を目指す「別ルート」もぜひ本書で検討してみてはいかがでしょうか.
 かつて中国の指導者・ケ小平氏は,「白猫でも黒猫でも,ネズミを捕るのが良い猫だ」という風に述べたそうです.きわめて実利的な考えを表す言葉です.その言葉の背景にあるであろう,政治的な思想はここでは問題にしません.私も商都大阪の大学に学び,実学の慶應義塾大学に籍を置く者として,こと臨床医学においては実利的でよいではないか,と日々思っています.「白医師」だろうが「黒医師」だろうが,はたまた「まだら模様の医師」だろうが,患者さんにとってそんなことはどうでもよいことなのです.背景にある思想や理屈は何であれ,臨床においては,患者さんを治すのが「良い猫」,すなわち良い医師なのです.
 「良い医師」を目指して,ひとつ頑張ろうではありませんか.
 2007年春 著者識す
 以下,本書で漢方・中医学の区別をつけずに両者をまとめて広義に呼ぶ際には漢方と表記することにします.それぞれ別個に述べる必要がある場合は,「日本漢方」,「中医学」とそれぞれ記載しています.
 *『漢方・中医学講座-実践編』と改題.
 はじめに
第1章 なぜ基礎理論が必要か
 1.本章のはじめに
 2.日本漢方には理論がない?
 3.実践の日本漢方VS.理論の中医学
 4.漢方の“取りあえず”の到達点
 5.漢方エキス製剤を中医理論で使う
 6.『漢方』治療の原則-理・法・方・薬
 7.実際は理論後付け:帰納と演繹
 8.本章の終わりに
第2章 体の構成と機能<総論>
 1.本章のはじめに
 2.機能別分類と臓器別分類:漢方は機能的分類
 3.機能は帰納的に見つかったもの
 4.西洋医学的物質的観点と漢方的機能的観点
 5.病気の治療にも反映される漢方的な観点
 6.全身を見るのが漢方:それを支えるのが体の構成理論
 7.西洋医学を忘れよう?
 8.本章の終わりに
第3章 気血津液(気血水)理論
 1.本章のはじめに
 2.気とは何か
 3.血・津液とは何か?気とは違うのか?
 4.本章の終わりに
第4章 臓腑理論
 1.本章のはじめに
 2.臓腑理論は体の機能を,部位を意識して分類したもの
 3.臓腑理論各論:五臓六腑とはこういう機能
 4.臓と臓の間の相関,臓と腑の間の関係
 5.“臓腑“イコール“臓器”と捉えてもよい場合とは
 6.本章の終わりに
第5章 陰陽五行説
 1.本章のはじめに
 2.陰・陽理論
 3.五行理論
 4.本章の終わりに
第6章 経絡理論
 1.本章のはじめに
 2.経絡とは
 3.経絡は病気も伝達する
 4.経絡上の関所「経穴」
 5.漢方医にとっての経絡
 6.各経の紹介
 7.本章の終わりに
第7章 機能の失調原因(病因)
 1.本章のはじめに
 2.病気とは“正常状態からのズレ”である
 3.病気には原因がある:病因総論
 4.外因
 5.内因
 6.本章の終わりに
第8章 機能の失調のメカニズム:病機1-病機総論/邪盛正衰/陰陽失調/気血津液病機
 1.第8章,第9章のはじめに
 2.病機総論
 3.気血津液病機
第9章 機能の失調のメカニズム:病機2-臓腑病機
 4.臓腑病機
 5.(附)内生五邪による病機
 6.その他の病機
 7.第8章,第9章の終わりに
第10章 診断治療法の基礎1-診断:方証相対と弁証論治(1)
 1.第10章,第11章のはじめに
 2.診断は客観的でなければならない
 3.証
 4.漢方の「方証相対」と中医学の「弁証論治」
 5.弁証の仕方(弁証法)には何通りあるのか
 6.八綱弁証
 7.気血津液弁証
第11章 診断治療法の基礎1-診断:方証相対と弁証論治(2)
 8.臓腑弁証
 9.そのほかの弁証法
 10.第10章,第11章の終わりに
第12章 診断治療法の基礎2-治療
 1.本章のはじめに
 2.証に従ってこれを治せ(随証治療)
 3.治療原則(治則)
 4.治療八法
 5.本章の終わりに:漢方と西洋医学の治療について
第13章 薬と処方の基礎
 1.本章のはじめに
 2.五行と薬論
 3.処方
 4.本章の終わりに
 付録 主な生薬とその特徴
 索引
 あとがき