序
「義歯は粘膜の海に浮かぶ船である」
恩師・河邊清治先生の至言であり,私はこの一言こそが“臨床技工の本質”を表していると考える.
模型上で作業を行う歯科技工士にとって,この言葉の意味を真に理解することは容易ではない.しかし義歯は,皆違う骨の上の口腔粘膜という柔らかな支持組織の上に存在し,唾液という介在物の中で筋肉により機能し,さらに咀嚼,嚥下,発音などの運動によって絶えず変化する口腔内環境に適応しなければならない.したがって,歯科技工士には,単に模型上で形態を再現するのではなく,動的安定を求めた「生体に調和する義歯」を常に意識して製作する姿勢が求められるのである.
近年では,CAD/CAMや3Dプリンター,光学印象などデジタル技術の進歩によって,義歯製作の環境は大きく変化している.しかし,アナログであれデジタルであれ,経年的に変化し続ける生体を理解し,その変化に対応する技術と感性の重要性は決して変わらない.さらに患者のQOLを向上させるためには,審美性や発音,舌感,嚥下運動,さらには装着時の違和感の少なさなど,個人差はあるが患者の感覚や日常生活に関わる繊細な要素まで考慮する必要がある.それにより,本当に満足できる義歯となるのである.
臨床の現場では,初心者であれベテランであれ,総義歯製作に悩み,苦しむ経験を誰もがする.私自身もその一人であった.歯科技工士にとって最も難しいのは,「生体と補綴装置の調和」とは何かを具体的にイメージしながら,患者像を十分に描けないまま模型上で作業を進めなければならないことである.「臨床の総義歯は難しい」「教科書どおりにはいかない」「何から学べばよいのかわからない」「歯科医師や患者に満足してもらえる義歯をどう作ればよいのか」,こうした疑問は,多くの歯科技工士が抱える共通の悩みではないだろうか.
総義歯製作では,失われた口腔組織という三次元空間から解剖学的指標を見いだし,それを設計基準として患者固有の口腔機能を回復しなければならない.さらに,機能の回復だけではなく,その人らしい自然な口元や表情を含めた「健康美」を表現することも求められる.そして,臨床総義歯は完成した瞬間がゴールではない.患者の口腔内に装着され,実際の生活の中で使用されることで,本来の役割が始まるのである.
患者が求める義歯とは,「噛める義歯」だけではない.「おいしく食事を楽しみたい」「家族や友人と笑顔で会話をしたい」「口元を気にせず自然に笑いたい」,こうした患者一人ひとりの願いをかなえることこそ,総義歯治療の本質である.そのためには,歯科医師と歯科技工士が円滑にコミュニケーションを図り,患者が義歯に何を求めているのかを同じ価値観で理解し,同じスケールで情報と知識を共有することが不可欠である.歯科医師が診療室で得た生体情報と,歯科技工士が模型から読み取る情報を結びつけることによって,はじめて生体に調和した義歯を形にすることができる.
私は,「患者の心に寄り添い,その苦悩に共感し,患者のために真摯に義歯を作る」という姿勢を何よりも大切にしてきた.義歯は単なる人工物ではない.それは,失われた口腔内の形態と機能を回復し,患者の生活そのものを支える補綴装置である.だからこそ私は,義歯を「心でつくる口腔機能回復装置」であると信じている.患者から必要とされ,歯科医師から信頼されてはじめて,歯科技工士は「臨床技工のスペシャリスト」としての第一歩を踏み出すことができるのではないだろうか.
本書では,臨床総義歯を基盤として,教科書技工と臨床技工の間に存在するギャップを埋めるための知識と技術を解説する.また,私が長年の臨床経験から体系化した,解剖学的ランドマークを設計基準とする義歯製作法「Toda Denture System」をもとに,各製作工程における考え方と実践法を詳しく紹介していきたい.「Toda Denture System」が目指すものは,単に一定の手順に従って義歯を製作することではない.患者の生体を観察し,そこから得られる情報を読み取り,形態と機能を関連づけながら,一人ひとりの患者に調和した義歯を構築することである.
本書が,日々の臨床で悩みながら患者のために義歯製作に取り組む歯科医師,そして歯科技工士にとって,新たな視点を得るきっかけとなり,臨床における確かな指針となれば幸いである.
2026年8月吉日
歯科技工士 戸田 篤
「義歯は粘膜の海に浮かぶ船である」
恩師・河邊清治先生の至言であり,私はこの一言こそが“臨床技工の本質”を表していると考える.
模型上で作業を行う歯科技工士にとって,この言葉の意味を真に理解することは容易ではない.しかし義歯は,皆違う骨の上の口腔粘膜という柔らかな支持組織の上に存在し,唾液という介在物の中で筋肉により機能し,さらに咀嚼,嚥下,発音などの運動によって絶えず変化する口腔内環境に適応しなければならない.したがって,歯科技工士には,単に模型上で形態を再現するのではなく,動的安定を求めた「生体に調和する義歯」を常に意識して製作する姿勢が求められるのである.
近年では,CAD/CAMや3Dプリンター,光学印象などデジタル技術の進歩によって,義歯製作の環境は大きく変化している.しかし,アナログであれデジタルであれ,経年的に変化し続ける生体を理解し,その変化に対応する技術と感性の重要性は決して変わらない.さらに患者のQOLを向上させるためには,審美性や発音,舌感,嚥下運動,さらには装着時の違和感の少なさなど,個人差はあるが患者の感覚や日常生活に関わる繊細な要素まで考慮する必要がある.それにより,本当に満足できる義歯となるのである.
臨床の現場では,初心者であれベテランであれ,総義歯製作に悩み,苦しむ経験を誰もがする.私自身もその一人であった.歯科技工士にとって最も難しいのは,「生体と補綴装置の調和」とは何かを具体的にイメージしながら,患者像を十分に描けないまま模型上で作業を進めなければならないことである.「臨床の総義歯は難しい」「教科書どおりにはいかない」「何から学べばよいのかわからない」「歯科医師や患者に満足してもらえる義歯をどう作ればよいのか」,こうした疑問は,多くの歯科技工士が抱える共通の悩みではないだろうか.
総義歯製作では,失われた口腔組織という三次元空間から解剖学的指標を見いだし,それを設計基準として患者固有の口腔機能を回復しなければならない.さらに,機能の回復だけではなく,その人らしい自然な口元や表情を含めた「健康美」を表現することも求められる.そして,臨床総義歯は完成した瞬間がゴールではない.患者の口腔内に装着され,実際の生活の中で使用されることで,本来の役割が始まるのである.
患者が求める義歯とは,「噛める義歯」だけではない.「おいしく食事を楽しみたい」「家族や友人と笑顔で会話をしたい」「口元を気にせず自然に笑いたい」,こうした患者一人ひとりの願いをかなえることこそ,総義歯治療の本質である.そのためには,歯科医師と歯科技工士が円滑にコミュニケーションを図り,患者が義歯に何を求めているのかを同じ価値観で理解し,同じスケールで情報と知識を共有することが不可欠である.歯科医師が診療室で得た生体情報と,歯科技工士が模型から読み取る情報を結びつけることによって,はじめて生体に調和した義歯を形にすることができる.
私は,「患者の心に寄り添い,その苦悩に共感し,患者のために真摯に義歯を作る」という姿勢を何よりも大切にしてきた.義歯は単なる人工物ではない.それは,失われた口腔内の形態と機能を回復し,患者の生活そのものを支える補綴装置である.だからこそ私は,義歯を「心でつくる口腔機能回復装置」であると信じている.患者から必要とされ,歯科医師から信頼されてはじめて,歯科技工士は「臨床技工のスペシャリスト」としての第一歩を踏み出すことができるのではないだろうか.
本書では,臨床総義歯を基盤として,教科書技工と臨床技工の間に存在するギャップを埋めるための知識と技術を解説する.また,私が長年の臨床経験から体系化した,解剖学的ランドマークを設計基準とする義歯製作法「Toda Denture System」をもとに,各製作工程における考え方と実践法を詳しく紹介していきたい.「Toda Denture System」が目指すものは,単に一定の手順に従って義歯を製作することではない.患者の生体を観察し,そこから得られる情報を読み取り,形態と機能を関連づけながら,一人ひとりの患者に調和した義歯を構築することである.
本書が,日々の臨床で悩みながら患者のために義歯製作に取り組む歯科医師,そして歯科技工士にとって,新たな視点を得るきっかけとなり,臨床における確かな指針となれば幸いである.
2026年8月吉日
歯科技工士 戸田 篤
Chapter 1 臨床総義歯の理念と哲学
Chapter 2 義歯製作に必要な情報を共有するためのコミュニケーション
Chapter 3 治療計画および概形印象から研究用模型,個人トレー製作
Chapter 4 精密印象からの作業用模型製作と設計
Chapter 5 基礎床・咬合床
Chapter 6 人工歯選択・咬合器選択および装着
Chapter 7 人工歯配列
Chapter 8 歯肉形成
Chapter 9 人工歯配列口腔内試適から最終印象・重合・研磨・義歯完成
Chapter 10 義歯装着・口腔内調整
Chapter 11 より高い患者満足度を目指す応用的な総義歯
Chapter 12 3Dプリントデンチャー
Chapter 13 総義歯の最終目標
Chapter 2 義歯製作に必要な情報を共有するためのコミュニケーション
Chapter 3 治療計画および概形印象から研究用模型,個人トレー製作
Chapter 4 精密印象からの作業用模型製作と設計
Chapter 5 基礎床・咬合床
Chapter 6 人工歯選択・咬合器選択および装着
Chapter 7 人工歯配列
Chapter 8 歯肉形成
Chapter 9 人工歯配列口腔内試適から最終印象・重合・研磨・義歯完成
Chapter 10 義歯装着・口腔内調整
Chapter 11 より高い患者満足度を目指す応用的な総義歯
Chapter 12 3Dプリントデンチャー
Chapter 13 総義歯の最終目標















