やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに
 近年,歯科医療を取り巻く環境は大きく変化し,歯科衛生士に求められる役割もますます広がっています.歯周病治療においても,歯科衛生士は歯周基本治療や口腔衛生管理,継続的なメインテナンスなどを通じて,患者の口腔健康を支える重要な役割を担っています.
 そのような中,厚生労働省の「歯科衛生士の業務のあり方等に関する検討会」において,歯科衛生士によるSRP時の浸潤麻酔の実施に必要な教育内容について検討が重ねられました.これを踏まえ,厚生労働省は令和7年(2025年)に「歯科衛生士による浸潤麻酔の実施に向けた研修プログラム(例)令和7年度版」を公表しました.歯科衛生士によるSRP時の浸潤麻酔をめぐる議論は,法的な位置づけを確認する段階から,患者安全を最優先に,その実施を支える教育と研修のあり方を具体的に考える段階へと進んでいます.
 しかし,浸潤麻酔は,単に注射手技を習得すれば安全に実施できるものではありません.局所麻酔薬を患者の体内に投与する侵襲的な医療行為であり,解剖学や薬理学の知識に加え,患者の全身状態の評価,バイタルサインの把握,偶発症の早期発見と初期対応等,幅広い知識と適切な判断が求められます.
 そして何より重要なのは,歯科衛生士によるSRP時の浸潤麻酔は,歯科衛生士だけの問題ではないということです.歯科医師には,診断と治療計画に基づき,患者の状態や処置内容を適切に判断したうえで,具体的な指示を行うことが求められます.一方,歯科衛生士には,必要な知識と技能を身につけ,その指示を正しく理解したうえで,患者の状態を十分に観察しながら適切に実施することが求められます.安全な浸潤麻酔は,両者が共通の知識と認識をもち,それぞれの役割と責任を理解し,十分なコミュニケーションのもとで実践することによって初めて成り立ちます.これが,本書のタイトルを「歯科医師×歯科衛生士で学ぶ」とした理由です.
 本書では,法的根拠と責任,浸潤麻酔に必要な解剖学・薬理学,SRP時の患者評価と具体的手技,配慮を必要とする患者への対応,さらに局所・全身的偶発症と緊急時対応まで,臨床に必要な知識を一連の流れとしてまとめました.
 本書が目指すのは,浸潤麻酔という一つの手技を習得することだけではありません.「誰に」「どのような場合に」「どのような指示のもとで」実施するのか,さらに異常が生じたときに「どのように気づき,対応するのか」を,歯科医師と歯科衛生士がともに学び,考えることにあります.こうした共通理解の積み重ねが,患者安全の向上につながるものと考えています.
 本書が,歯科医師と歯科衛生士の間にSRP時の浸潤麻酔に関する「共通の知識」と「共通の安全意識」を育み,両者がそれぞれの専門性と役割を生かしながら,患者にとってより安全で安心できる質の高い歯周治療を実践するための一助となることを願っています.
 最後に,本書の趣旨にご賛同いただき,ご執筆いただいた先生方,ならびに本書の刊行に際してご協力,ご支援を賜りました日本歯科医師会,日本歯科医学会,日本歯科衛生士会の関係各位に,心より御礼申し上げます.
 2026年9月
 東京歯科大学 歯科麻酔学講座 教授
 一般社団法人 日本歯科麻酔学会 理事長
 松浦信幸


発刊によせて
 歯科衛生士法では,「歯科衛生士は歯科診療の補助ができるが,歯科医師が行わないと衛生上危険な行為は,主治医の歯科医師の指示がない限り行ってはいけない」とされ,浸潤麻酔は,薬剤投与に伴う偶発症や全身状態の急変リスクの可能性があるため,「十分な知識と技術,全身管理が必要な行為」として位置づけられています.
 日本歯科医師会では,厚生労働省,日本歯科医学会,日本歯科衛生士会,全国歯科衛生士教育協議会の有識者の参加のもとで「歯科衛生士の浸潤麻酔等研修に関する検討会」を令和7年9月に立ち上げ,情報交換,情報共有を行ってきました.日本歯科医師会が実施する研修は,基本的には会員歯科医師のために行うものであり,歯科衛生士に対しても全身管理や危機管理に対する研修という形で検討会の内容をまとめる方向で検討されてきました.ついては,日本歯科麻酔学会が中心となって実施されてきた厚生労働科学研究結果のコンテンツを活用する方向で研修内容をまとめてきています.
 本検討会では,歯科衛生士に浸潤麻酔の行為を推奨するためのものではなく,歯科医師の指導,指示のもと,歯科衛生士の業務範囲(SRP)において必要な際の浸潤麻酔の行為に限定するものですが,浸潤麻酔の行為ありきではなく,全身管理や危機管理について研鑽するものであり,安全,安心な歯科医療を確保するうえで必須の知識と技術を身につけるものです.厚生労働省は,「歯科衛生士の浸潤麻酔を積極的に推奨するものではないが,法的に不可能とは言えない状況であるからこそ学会中心で構築された正当なプログラムのもとで研修を行ってほしい」と述べています.
 なお,今後実施していくプログラムは,就業している歯科衛生士の再教育を目的に実施しますが,全国歯科衛生士教育協議会においては,厚生労働科学研究の特別研究事業として「歯科衛生士による浸潤麻酔遂行のための教育カリキュラム作成のための研究」において学生教育でのカリキュラム構築の検討を行っています.今後歯科衛生士教育機関を卒業し,国家試験に合格,歯科衛生士として就業する場合には,浸潤麻酔を行ううえで必須の知識,技術を有するものとする教育がなされていくと予想されます.また,本研修プログラムは日本歯科医師会が日本歯科医学会傘下の学会の協力を得て実施するもので,倫理・法制関係に関しては会員歯科医師も必ず研修を行い,そのほかのカリキュラムについても再確認することが望ましいと考えます.会員歯科医師に対しては,eラーニングの研修単位を付与し,歯科衛生士に対しては「受講修了証」が発行されます.
 本研修プログラムは,さらなる安全な歯科医療を目指して日本歯科医師会が会員および会員診療所に勤務する歯科衛生士の資質向上のために実施するもので,今回発刊される本書は前述の研修プログラムを踏襲し,歯科医師の指示のもと歯科衛生士が安全,安心に浸潤麻酔を行うことを前提として詳細にまとめられた書籍です.臨床現場における歯科医師,歯科衛生士のみならず歯科衛生士の教育現場においても有効に活用していただきたいと思います.
 2026年8月
 公益社団法人 日本歯科医師会
 常務理事 末瀬一彦
CHAPTER 1 法的根拠と規制
 SECTION 01 歯科衛生士業務の法的範囲,責任(小畑 真)
  1 「歯科診療の補助」の意義
  2 業務範囲の判断基準
   1)絶対的歯科医行為
   2)相対的歯科医行為
  3 「指示」の4要件
  4 責任の所在
  5 まとめ
 SECTION 02 医療事故と法的対応(小畑 真)
  1 インフォームド・コンセントの必要性と実務対応
  2 リスクの直視
  3 事故発生時の法的義務と対応
  4 法的証拠としての記録の重み
   1)処置の具体的な内容
   2)処置中・処置後の経過
  5 まとめ
 SECTION 03 歯科衛生士に求められる倫理的姿勢(武藤智美)
  1 歯科衛生士自身にとっての倫理
  2 医療関係者との関係性を構築する行動
  3 患者との信頼関係を担う行動
  4 知識・技術・倫理を備えて臨床実務へ
CHAPTER 2 浸潤麻酔のための解剖学
 SECTION 01 上下顎骨の特徴(花本 博)
  1 上顎骨
   1)上顎骨の構造
   2)上顎体と歯槽管の網目構造
   3)多孔性と骨の薄さ
   4)骨穿孔
   5)口蓋骨と後方の支持構造
  2 下顎骨
   1)下顎骨の構造
   2)骨質の密度と厚み
   3)下顎管とオトガイ孔
   4)刺入部位に関連した指標
 SECTION 02 神経の走行と支配領域(花本 博)
  1 三叉神経
  2 上顎神経
   1)上歯槽神経
   2)口蓋側の支配
  3 下顎神経
   1)下歯槽神経
   2)舌神経
   3)頬神経
  4 自律神経との関わり
  5 痛点の分布密度
   1)歯列と部位による差
   2)上顎口蓋側の特徴
   3)下顎の特徴
 SECTION 03 歯周組織の構造(花本 博)
  1 セメント質と歯根膜:痛みの発生源
  2 歯槽骨
   1)固有歯槽骨
   2)支持歯槽骨
  3 歯肉
  4 浸潤麻酔における刺入部位
CHAPTER 3 歯科用局所麻酔薬の特徴
 SECTION 01 局所麻酔薬の作用機序(樋口 仁)
  1 局所麻酔薬の作用部位
  2 局所麻酔薬の作用機序
 SECTION 02 局所麻酔薬の種類(樋口 仁)
  1 局所麻酔薬の分類
   1)エステル型局所麻酔薬
   2)アミド型局所麻酔薬
  2 表面麻酔製剤の特徴
  3 注射用局所麻酔製剤の特徴
   1)リドカイン製剤
   2)プロピトカイン製剤
   3)メピバカイン製剤
   4)アルチカイン製剤
  4 局所麻酔薬製剤の使い分け
   1)表面麻酔製剤の使い分け
   2)注射用局所麻酔製剤
 SECTION 03 血管収縮薬(小鹿恭太郎)
  1 血管収縮薬を含有させる目的
   1)麻酔効果に対する作用
   2)安全性に関する作用
   3)手術時の利点
  2 血管収縮薬の種類と特徴
   1)アドレナリン
   2)フェリプレシン
 SECTION 04 局所麻酔薬の奏効に影響する要因(小鹿恭太郎)
  1 局所麻酔薬の奏効に影響する要因
   1)組織のpH
   2)解離定数(pKa)患者常用薬との相互作用
   3)脂溶性
   4)タンパク結合性
   5)血管拡張性
   6)組織浸透性
   7)神経線維の太さ
   8)注射部位
   9)局所麻酔薬濃度と投与量
 SECTION 05 患者常用薬との相互作用(小鹿恭太郎)
  1 局所麻酔薬と服用薬物との相互作用
   1)非選択性β遮断薬
   2)三環系抗うつ薬・MAO阻害薬
   3)麦角アルカロイド
   4)α遮断薬・抗精神病薬
   5)抗不整脈薬
   6)気管支拡張薬
   7)糖尿病治療薬
CHAPTER 4 SRP時の局所麻酔
 SECTION 01 医療面接(城戸幹太)
  1 医療面接の目的と心構え
  2 問診で必ず確認すべき重要項目
   1)全身疾患の有無
   2)服用薬剤
   3)アレルギー歴
 SECTION 02 臨床検査値の理解(城戸幹太)
  1 なぜ臨床検査値を見る必要があるのか
  2 SRPに関連する主要な検査項目
   1)止血に関する項目(出血リスクの評価)
   2)肝機能・腎機能に関する項目(麻酔薬の代謝・排泄)
   3)血糖値に関する項目(糖尿病のコントロール状態)
 SECTION 03 バイタルサイン・生体情報のモニタリングと評価(城戸幹太)
  1 なぜバイタルサインを測定するのか?
  2 血圧測定
   1)血圧の正しい測定手順
   2)血圧値の評価と対応
  3 脈拍と経皮的動脈血酸素飽和度(SpO2)の測定
   1)パルスオキシメータの正しい装着と測定
   2)脈拍とSpO2の評価
  4 呼吸数と体温の測定
 SECTION 04 注射器の取り扱い(塩谷伊毅)
  1 注射器・注射針の種類
   1)注射器の構造
   2)注射器の種類
   3)注射針の構造
   4)注射針の種類
  2 注射器の取り扱い
   1)注射器の組み立て
   2)注射器の持ち方
   3)注射器に関わる留意点
  3 注射針の取り外しと廃棄
 SECTION 05 浸潤麻酔の実施(塩谷伊毅)
  1 適応とリスク評価
   1)浸潤麻酔の適応判定
   2)リスク因子と局所麻酔薬の選択
  2 表面麻酔
  3 浸潤麻酔
   1)SRPのための浸潤麻酔の基本
   2)注意すべき刺入点
   3)薬液の注入速度と量
   4)多数歯にSRPを行う場合
   5)部位別の浸潤麻酔手技
CHAPTER 5 配慮が必要な患者への対応
 SECTION 01 妊娠中・授乳中の患者(阿部佳子)
  1 妊娠と授乳
  2 妊娠中の浸潤麻酔に際して注意すること
  3 授乳中の浸潤麻酔に際して注意すること
  4 妊娠中の体位
  5 妊娠関連歯肉炎について
 SECTION 02 循環器疾患(阿部佳子)
  1 高血圧症
   1)高血圧症
   2)浸潤麻酔に際して注意すること
  2 虚血性心疾患
   1)虚血性心疾患
   2)浸潤麻酔に際して注意すること
  3 心不全
   1)心不全
   2)浸潤麻酔に際して注意すること
 SECTION 03 代謝性疾患(阿部佳子)
  1 甲状腺機能亢進症
   1)甲状腺機能亢進症
   2)浸潤麻酔に際して注意すること
  2 糖尿病
   1)糖尿病
   2)浸潤麻酔に際して注意すること
   3)糖尿病患者と歯周病
CHAPTER 6 合併症と緊急時の対応
 SECTION 01 局所合併症と対応(前田 茂)
  1 遷延性感覚障害
  2 内出血・紫斑
  3 感染
  4 粘膜の潰瘍・壊死
  5 口唇・舌・頬粘膜の咬傷・障害
  6 注射針の破折・迷入
 SECTION 02 全身的偶発症と対応(松浦信幸)
  1 偶発症発生時の対応の要点
  2 歯科衛生士が押さえるべき実務(報告と記録)
  3 全身的偶発症の特徴と対応
   1)血管迷走神経反射
   2)過換気症候群
   3)アドレナリンに対する過敏反応
   4)アナフィラキシー
   5)局所麻酔薬中毒
   6)メトヘモグロビン血症
 SECTION 03 酸素ボンベの取り扱いと酸素療法(讃岐拓郎)
  1 酸素療法の基礎:酸素療法の目的と注意点
  2 酸素ボンベシステムの構成要素
  3 酸素ボンベ残量の確認と投与可能時間の計算
  4 酸素ボンベシステムの取り扱い
   1)酸素ボンベシステムの使用手順
   2)吸入酸素濃度(FiO2)
   3)酸素ボンベシステムの安全な管理
 SECTION 04 一次救命処置(讃岐拓郎)
  1 歯科診療における局所麻酔時の一次救命処置の重要性
  2 一次救命処置の基本手順(医療従事者用成人の1人法)
   1)反応の確認
   2)呼吸と脈の確認
   3)胸骨圧迫の開始
   4)気道確保と人工呼吸
   5)自動体外式除細動器(Automated External Defibrillator:AED)の使用
付章 日本歯科麻酔学会の診療ステートメント
 SECTION 01 安全な歯科局所麻酔に関するステートメント(日本歯科麻酔学会)(讃岐拓郎)
 SECTION 02 高血圧患者に対するアドレナリン含有歯科用局所麻酔に関するステートメント(日本歯科麻酔学会)(讃岐拓郎)