まえがき
みなさんは,「暗闇のなかの象」の話をご存知でしょうか.有名な寓話ですので,おそらく,「どこかで聞いたことがある」と感じる方も多いと思います.バリエーションがいろいろあり,同じような話が世界中に広まっています.ところで,なぜ,このような話を唐突に持ち出したかというと,実は,この寓話が,本書の考えを説明するためにまさにピッタリなのです.
そこで,本書のプロローグとして,ペルシア語文学史に現れる詩人ルーミーの詩を引用して,この寓話を紹介します.
象の形
暗い屋内に一頭の象がいた.
印度(ヒンドゥー)教徒たちが見世物にとてつれて来たのだった.
あまたの人がその動物を見に来た,
皆があの真っ暗闇の中にはいって行ったというわけ!
目で見ることはできなかったので,
その暗闇の中では手の平で触さわって見るのほかなかった!
ところが,一人の手は象の鼻に触れたので,
この動物は水管のようだと言った!
別の人の手は耳に触れたので,
象の格好はちょうど扇のように思われた!
一人はその脚に触ったので,
象の姿は柱のようだと思われた!
一人の男はその背を手でなでたので,
この象は王座のようだと彼は言った!
同様に話を聞いた人々には
その人が触った部分のことしかわからなかった!
触ったところがさまざまであったので,
ある人はそれをアリフ(*1)と見なし,他の人はダール(*2)と考えたのだった!
一人一人が蝋ろう燭そくを手にしていたら,
皆の言葉の相違はなかったはずだが!
目の知覚作用は手の平のようなものである,
手の平は象のからだ全体には届かないのである.
(原文ママ)
蒲生礼一訳:精神的マスナヴィー,世界文学大系68,アラビア・ペルシア集,筑摩書房,1964.
*1 アラビア字母の第1番目の文字
*2 アラビア字母の第8番目の文字
東日本大震災という出来事,そして,そこで不幸にして亡くなられた方の身元確認の問題の全体像を知ることは,まさに,「暗闇のなかの象」を知ることと同じように思えます.この問題は人によってとらえ方がまったく異なります.筆者らを含めて,それぞれ断片的な経験や知識を持っていますが,全体像を知ることは容易ではありません.
例えば,学者は,震災における身元確認の問題を,法医学や法歯学の問題としてとらえるかもしれません.確かに,遺体の個人識別の問題は,法医学・法歯学の一分野に位置づけられます.一方,警察官は,自分たちがなすべき大規模な災害対応業務の一環であるととらえるかもしれません.また,身元確認に参画した一般の歯科医師は,自分たちが長年取り組んできた社会貢献活動であると誇りをもっているかもしれません.歯科医師を支援した情報工学の研究者は,先端技術を適用すべき重要な社会課題と認識しているかもしれません.メディア関係者は,自分たちがかみ砕いて,一般に広く伝えるべき大切なテーマであると考えているかもしれません.
このように,私たちは,「暗闇のなかの象」をいろいろな立場で,手探りしているようなものです.もし私たちが,「ろうそく」を手に持っていたのなら,この「暗闇のなかの象」の全体像を,おぼろげながら,つかむことができるのではないでしょうか.そのような思いで本書の執筆を始めました.明るい「ろうそく」を作ることはできないにしても,震災における身元確認の全体像を知るために役に立つような,「現場の事実」をお伝えすることはできるのではないかと思いました.本書を執筆した意図はその一点に尽きます.
東日本大震災で亡くなられた方のご家族,ご親族,ご友人の皆様は,筆者らのような現場実務者とはまったく別次元の,悲しい思いを胸に抱いておられると思います.そのような思いについて,本書の中で,筆者らが言及することは到底できませんでした.皆様が本書を手に取られると,言葉の使い方や事実の述べ方について,たいへん冷たい印象をお持ちになるのではないかと心配しています.本書が提供するのは実務者へ向けた情報です.将来の災害や事故に備えるための知見です.その点,どうかご容赦いただけますよう,お願い申し上げます.
最後になりましたが,東日本大震災の身元確認の作業は,現在も継続されていることを申し添え,このたびの震災により被害を受けられた皆様に,心からお見舞い申し上げます.
2016年10月
筆者ら記す
みなさんは,「暗闇のなかの象」の話をご存知でしょうか.有名な寓話ですので,おそらく,「どこかで聞いたことがある」と感じる方も多いと思います.バリエーションがいろいろあり,同じような話が世界中に広まっています.ところで,なぜ,このような話を唐突に持ち出したかというと,実は,この寓話が,本書の考えを説明するためにまさにピッタリなのです.
そこで,本書のプロローグとして,ペルシア語文学史に現れる詩人ルーミーの詩を引用して,この寓話を紹介します.
象の形
暗い屋内に一頭の象がいた.
印度(ヒンドゥー)教徒たちが見世物にとてつれて来たのだった.
あまたの人がその動物を見に来た,
皆があの真っ暗闇の中にはいって行ったというわけ!
目で見ることはできなかったので,
その暗闇の中では手の平で触さわって見るのほかなかった!
ところが,一人の手は象の鼻に触れたので,
この動物は水管のようだと言った!
別の人の手は耳に触れたので,
象の格好はちょうど扇のように思われた!
一人はその脚に触ったので,
象の姿は柱のようだと思われた!
一人の男はその背を手でなでたので,
この象は王座のようだと彼は言った!
同様に話を聞いた人々には
その人が触った部分のことしかわからなかった!
触ったところがさまざまであったので,
ある人はそれをアリフ(*1)と見なし,他の人はダール(*2)と考えたのだった!
一人一人が蝋ろう燭そくを手にしていたら,
皆の言葉の相違はなかったはずだが!
目の知覚作用は手の平のようなものである,
手の平は象のからだ全体には届かないのである.
(原文ママ)
蒲生礼一訳:精神的マスナヴィー,世界文学大系68,アラビア・ペルシア集,筑摩書房,1964.
*1 アラビア字母の第1番目の文字
*2 アラビア字母の第8番目の文字
東日本大震災という出来事,そして,そこで不幸にして亡くなられた方の身元確認の問題の全体像を知ることは,まさに,「暗闇のなかの象」を知ることと同じように思えます.この問題は人によってとらえ方がまったく異なります.筆者らを含めて,それぞれ断片的な経験や知識を持っていますが,全体像を知ることは容易ではありません.
例えば,学者は,震災における身元確認の問題を,法医学や法歯学の問題としてとらえるかもしれません.確かに,遺体の個人識別の問題は,法医学・法歯学の一分野に位置づけられます.一方,警察官は,自分たちがなすべき大規模な災害対応業務の一環であるととらえるかもしれません.また,身元確認に参画した一般の歯科医師は,自分たちが長年取り組んできた社会貢献活動であると誇りをもっているかもしれません.歯科医師を支援した情報工学の研究者は,先端技術を適用すべき重要な社会課題と認識しているかもしれません.メディア関係者は,自分たちがかみ砕いて,一般に広く伝えるべき大切なテーマであると考えているかもしれません.
このように,私たちは,「暗闇のなかの象」をいろいろな立場で,手探りしているようなものです.もし私たちが,「ろうそく」を手に持っていたのなら,この「暗闇のなかの象」の全体像を,おぼろげながら,つかむことができるのではないでしょうか.そのような思いで本書の執筆を始めました.明るい「ろうそく」を作ることはできないにしても,震災における身元確認の全体像を知るために役に立つような,「現場の事実」をお伝えすることはできるのではないかと思いました.本書を執筆した意図はその一点に尽きます.
東日本大震災で亡くなられた方のご家族,ご親族,ご友人の皆様は,筆者らのような現場実務者とはまったく別次元の,悲しい思いを胸に抱いておられると思います.そのような思いについて,本書の中で,筆者らが言及することは到底できませんでした.皆様が本書を手に取られると,言葉の使い方や事実の述べ方について,たいへん冷たい印象をお持ちになるのではないかと心配しています.本書が提供するのは実務者へ向けた情報です.将来の災害や事故に備えるための知見です.その点,どうかご容赦いただけますよう,お願い申し上げます.
最後になりましたが,東日本大震災の身元確認の作業は,現在も継続されていることを申し添え,このたびの震災により被害を受けられた皆様に,心からお見舞い申し上げます.
2016年10月
筆者ら記す
はじめに~俯瞰する視点の重要性
1.災害時の問題は同時多発的に起こる
2.全体を説明できる人が必要
3.「あるべき姿」をイメージする
4.本書の目的について
第I部 大震災における身元確認の記録
1 東日本大震災はどのような自然災害だったのか?
1.東日本大震災とは?
2.巨大地震の発生
3.被害状況
4.地盤沈下と移動
5.メルトダウン
2 人的被害と身元確認~岩手・宮城・福島で何が起こったのか?
1.全国の被害状況
2.岩手・宮城・福島で収容された遺体数
3.岩手・宮城・福島における行方不明者数
4.岩手・宮城・福島の人的被害のまとめ
5.岩手・宮城・福島における身元確認の方法
3 宮城県の遺体はどこに収容されたのか?
1.43か所もあった検案所
2.検案所
4 宮城県の身元確認から見えてきたこと~歯とDNAの相補的な活用
1.震災後も継続する身元確認
2.困難を極める遺体の収容
3.時間とともに損傷する遺体
4.DNA型か?歯か?
5.DNA型親子鑑定による絞り込み
6.歯による個人識別の威力
5 警察はどのように動いたか?~検視・身元確認の体制
1.検視について
2.東日本大震災の検視体制
3.歯科医師の役割
4.警察のキーパーソンとのつながり
5.警察業務の全体像
6.検視・身元確認に従事した警察官
6 歯科医師はどのように動いたか?
1.全国から駆けつけた歯科医師たち
2.宮城県における歯科医師たちの活動
7 時系列で読む身元確認チームの闘い~発災直後から現在まで
1.発災直後~指揮命令系統の混乱
2.組織的活動の開始~全体把握と調整の重要性
3.大量検死への対応
4.日本歯科医師会からの派遣開始
5.検案所設置時の初期対応でその後が決まる
6.教育システムの構築
7.各種会議等での状況報告
8.レセプトデータの活用
9.遺体の侵襲行為~刑法第35条の正当業務行為とは?
10.身元確認の高度化
11.ポータブルエックス線撮影装置導入のための準備を開始
12.資料の受け渡しの整理を行い「三種の神器パッケージ」ヘ
13.Dental Finderの開発と運用
14.気仙沼のデンタルエックス線はなぜか画像が薄い
15.日本歯科医師会からの派遣終了
16.3県のデータ統合
17.宮城県歯科医師会会員への情報提供と協力依頼
18.似顔絵による情報の開示
19.厚生労働省による「歯科診療情報の全国標準化」の流れ
第II部 身元確認のシステム化
8 遺体情報収集機材のパッケージ化
1.まずはデンタルチャート
2.歯科的個人識別の三種の神器とは?
3.口腔内写真と歯科エックス線撮影はできるだけ早期に!
4.標準機材のパッケージ化とは?
5.身元確認の資料を集めるのは何が難しかったのか?
6.現物主義での受け渡しを徹底
7.歯科的個人識別のワークフローへ
9 デンタルチャート
1.歯科的個人識別の要(かなめ)はデンタルチャート
2.たいへん重宝した「歯科用語スタンプ」
10 口腔内写真
1.客観的資料としての口腔内写真の重要性
2.機材の選定(防塵・防水・耐衝撃・乾電池活用ほか)
3.撮影方法
11 エックス線写真~遺体の口内法撮影
1.客観的資料としてのエックス線写真の重要性
2.機材の選定
3.撮影方法
4.エックス線撮影記録用紙
5.エックス線防護
6.汚染防護
7.エックス線写真のデータベース化
12 生前資料の収集~生前資料をどう読むか
1.生前情報の種類と入手方法
2.生前情報の分析と取りまとめ
3.その他の資料からの身元確認情報の抽出
13 照合~異同識別について
1.照合とは
2.各歯の一致・不一致の判定
3.総合判定
4.留意すべきポイント
14 情報技術の活用
1.資機材をいかにして準備するか
2.歯科情報照合ソフトウェアDental Finderの開発と運用
3.被災地の歯科情報から見えてきたこと
15 データで読みとく東日本大震災
1.はじめに
2.宮城県における遺体収容に関する分析
3.宮城県における歯科医師出動に関する分析
4.宮城県における警察出動に関する分析
5.宮城県における検案所の稼働状況に関する分析
6.身元確認手法に関する分析
7.総括
16 身元確認のための歯科診療情報の標準化
1.震災前からの取り組み~身元確認におけるICTの活用
2.「情報的存在」としての歯
3.震災から浮き彫りになった課題
4.歯科診療情報の標準化とは何か
5.標準化事業がスタートした経緯
6.これまでの標準化事業の流れ
7.標準化によって何が可能になるか
8.いろいろな意味にとれる「データベース」
9.「岡山県歯科医師会」および「うすき石仏ねっと運営協議会」の先進的な取り組み
10.災害時のみならず平時にも重要な歯科情報
11.将来は画像ベース個人識別へ
17 これからの警察歯科医~まとめ
1.一人の警察歯科医から見える世界~「玉ねぎ」ワールド
2.これからの警察歯科医はネットワーキング
歯科用語解説
よくある質問
18 むすび~感謝を込めて
謝辞
文献
索引
1.災害時の問題は同時多発的に起こる
2.全体を説明できる人が必要
3.「あるべき姿」をイメージする
4.本書の目的について
第I部 大震災における身元確認の記録
1 東日本大震災はどのような自然災害だったのか?
1.東日本大震災とは?
2.巨大地震の発生
3.被害状況
4.地盤沈下と移動
5.メルトダウン
2 人的被害と身元確認~岩手・宮城・福島で何が起こったのか?
1.全国の被害状況
2.岩手・宮城・福島で収容された遺体数
3.岩手・宮城・福島における行方不明者数
4.岩手・宮城・福島の人的被害のまとめ
5.岩手・宮城・福島における身元確認の方法
3 宮城県の遺体はどこに収容されたのか?
1.43か所もあった検案所
2.検案所
4 宮城県の身元確認から見えてきたこと~歯とDNAの相補的な活用
1.震災後も継続する身元確認
2.困難を極める遺体の収容
3.時間とともに損傷する遺体
4.DNA型か?歯か?
5.DNA型親子鑑定による絞り込み
6.歯による個人識別の威力
5 警察はどのように動いたか?~検視・身元確認の体制
1.検視について
2.東日本大震災の検視体制
3.歯科医師の役割
4.警察のキーパーソンとのつながり
5.警察業務の全体像
6.検視・身元確認に従事した警察官
6 歯科医師はどのように動いたか?
1.全国から駆けつけた歯科医師たち
2.宮城県における歯科医師たちの活動
7 時系列で読む身元確認チームの闘い~発災直後から現在まで
1.発災直後~指揮命令系統の混乱
2.組織的活動の開始~全体把握と調整の重要性
3.大量検死への対応
4.日本歯科医師会からの派遣開始
5.検案所設置時の初期対応でその後が決まる
6.教育システムの構築
7.各種会議等での状況報告
8.レセプトデータの活用
9.遺体の侵襲行為~刑法第35条の正当業務行為とは?
10.身元確認の高度化
11.ポータブルエックス線撮影装置導入のための準備を開始
12.資料の受け渡しの整理を行い「三種の神器パッケージ」ヘ
13.Dental Finderの開発と運用
14.気仙沼のデンタルエックス線はなぜか画像が薄い
15.日本歯科医師会からの派遣終了
16.3県のデータ統合
17.宮城県歯科医師会会員への情報提供と協力依頼
18.似顔絵による情報の開示
19.厚生労働省による「歯科診療情報の全国標準化」の流れ
第II部 身元確認のシステム化
8 遺体情報収集機材のパッケージ化
1.まずはデンタルチャート
2.歯科的個人識別の三種の神器とは?
3.口腔内写真と歯科エックス線撮影はできるだけ早期に!
4.標準機材のパッケージ化とは?
5.身元確認の資料を集めるのは何が難しかったのか?
6.現物主義での受け渡しを徹底
7.歯科的個人識別のワークフローへ
9 デンタルチャート
1.歯科的個人識別の要(かなめ)はデンタルチャート
2.たいへん重宝した「歯科用語スタンプ」
10 口腔内写真
1.客観的資料としての口腔内写真の重要性
2.機材の選定(防塵・防水・耐衝撃・乾電池活用ほか)
3.撮影方法
11 エックス線写真~遺体の口内法撮影
1.客観的資料としてのエックス線写真の重要性
2.機材の選定
3.撮影方法
4.エックス線撮影記録用紙
5.エックス線防護
6.汚染防護
7.エックス線写真のデータベース化
12 生前資料の収集~生前資料をどう読むか
1.生前情報の種類と入手方法
2.生前情報の分析と取りまとめ
3.その他の資料からの身元確認情報の抽出
13 照合~異同識別について
1.照合とは
2.各歯の一致・不一致の判定
3.総合判定
4.留意すべきポイント
14 情報技術の活用
1.資機材をいかにして準備するか
2.歯科情報照合ソフトウェアDental Finderの開発と運用
3.被災地の歯科情報から見えてきたこと
15 データで読みとく東日本大震災
1.はじめに
2.宮城県における遺体収容に関する分析
3.宮城県における歯科医師出動に関する分析
4.宮城県における警察出動に関する分析
5.宮城県における検案所の稼働状況に関する分析
6.身元確認手法に関する分析
7.総括
16 身元確認のための歯科診療情報の標準化
1.震災前からの取り組み~身元確認におけるICTの活用
2.「情報的存在」としての歯
3.震災から浮き彫りになった課題
4.歯科診療情報の標準化とは何か
5.標準化事業がスタートした経緯
6.これまでの標準化事業の流れ
7.標準化によって何が可能になるか
8.いろいろな意味にとれる「データベース」
9.「岡山県歯科医師会」および「うすき石仏ねっと運営協議会」の先進的な取り組み
10.災害時のみならず平時にも重要な歯科情報
11.将来は画像ベース個人識別へ
17 これからの警察歯科医~まとめ
1.一人の警察歯科医から見える世界~「玉ねぎ」ワールド
2.これからの警察歯科医はネットワーキング
歯科用語解説
よくある質問
18 むすび~感謝を込めて
謝辞
文献
索引











