やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

巻頭言
世界でも希有な書
 従来,がん治療における最大関心事は体内に蔓延るがん細胞の殲滅そして転移の防止であった.しかし,次第にがん治療の発展に伴い,AYA世代の生存者が増加するにしたがって,妊孕性温存の必要性が議論されるようになり,この分野が急速な発展を見たことは喜ばしいことである.これは,国家的には少数民族そして社会的にはLGBTQなどのマイナーセクトの権利が重要視される傾向と無関係ではなく,人間社会の成熟を意味する出来事であるとも言える.
 女性側で妊孕性温存に最も適した対象となるものは受精卵の凍結であるが,近年では未受精卵子も同様に凍結可能となっている.さらに,これに加えて最近では卵巣組織の凍結の報告が増えてきた.
 私たちのチームは,鈴木直教授のチームに合流して和歌山県にて卵巣組織凍結および移植実験を行ったことがある.その頃はまだ,この技術は確立されておらず,カニクイザルを用いて本技術の有効性を確認する作業を行った.当時,本技術は手探り状態であったことを思うと,現在では多くの卵巣組織凍結の臨床応用,そして,妊娠の報告があり隔世の感がある.本技術は,抗がん剤や放射線治療までの時間が限られており,採卵をする時間がないときに応用可能である.また,特に採卵が不可能な幼児の妊孕性温存にはきわめて必要な技術となる.
 さて,凍結保存した卵巣組織はどのように利用されうるのであろうか.妊娠を求める時期が来ると,凍結された卵巣組織は融解して利用される.この利用の方法には二種類あり,その一つが卵巣組織の移植である.移植部位としては血流の多い腎皮膜下や腹膜なども考えられたが,最近では採卵時の利便性から元の卵巣部位へ戻す方法が好まれている.凍結時に細切されているので,その小片を複数個ずつ移植するのである.この移植の方法論も種々検討されており,現在では簡便に生着率の高い方法が選択されるようになってきている.もう一つの利用方法は,卵巣組織を培養して成熟卵子を得る方法である.このためには,器官培養法が必要となる.私も若い頃,Trowell Chamberを用いて高濃度酸素下に脱落膜の器官培養を行ったことがあるが,細胞量が多いため壊死が起こりやすく容易ではなかった.卵巣組織を器官培養した後は卵胞を取り出し,卵胞培養そして通常の卵子培養という手順を踏むことになるが,マウスにおける成功例があるだけでヒトでの成功例はいまだ報告されていない.
 本書は,卵巣組織凍結・移植の技術をあらゆる角度から検討した世界でも希有な出版物である.この度,本著が全面改訂されて,初版発行以来の新しい技術を盛り込んだ新版が上梓される運びになったことは,妊孕性温存医療に携わる人々にとっても,この技術を必要とする患者にとってもきわめて喜ばしいことである.これまで,この分野を牽引され本書の誕生に尽力された鈴木直教授および関係する皆様に改めて深甚なる感謝を申し上げたい.
 IVF JAPAN CEO
 森本義晴


序文
 2021年4月から,国は,小児・AYA世代のがん患者等の妊孕性温存療法研究促進事業を開始した.がん患者の妊孕性温存療法に対するこの経済的支援は,従来の特定不妊助成金制度と異なり国の研究促進事業として行われるため,がん・生殖医療の有効性と安全性の検証を兼ねた総合的な事業となっている.本事業においては,研究事業としてアウトカム創出(がん側と生殖側)を目指して,日本がん・生殖医療学会が管理する日本がん・生殖医療登録システム(JOFR)に妊孕性温存療法施行に関する情報が継続的に集積されることで,長期間にわたる患者の健康状況や検体の保管状況等が管理されることになる.本領域に特化した学際的な学術団体である「日本がん・生殖医療学会」が2012年11月に設立されて以来,本邦においてもがん・生殖医療の啓発が進み,近年がん・生殖医療を取り巻く環境が次に示すように変化してきた.
 (1)がん・生殖医療連携のネットワークが47都道府県整備されつつある.
 (2)がん・生殖医療に関わる公的助成金制度が25カ所に拡大した.
 (3)日本癌治療学会の「小児,思春期・若年がん患者の妊孕性温存に関する診療ガイドライン2017年度版」が導入されたことによって,がん治療医と生殖医療医との連携が加速した.
 (4)第3期がん対策基本計画(AYAがんの充実)が導入されたことによって,地域におけるがん診療連携拠点病院のがん・生殖医療に関する連携体制構築などが進んだ.
 (5)がん患者に対するがん・生殖医療に関する情報提供が進んだ結果,妊孕性温存療法の実情が変化してきた.具体的には,がん治療開始前に,未受精卵子凍結,胚(受精卵)凍結そして精子凍結が数回施行されるケースが増え,小児・思春期がん患者(0-14歳)に対する卵巣組織凍結が対象となった.
 ベルギーのDonnezらによって卵巣組織凍結・移植による生児獲得の報告が2004年にLancet誌に掲載されて以来,現在まで本技術によって200名以上の生児が誕生している.現在欧米等では,「卵巣組織凍結保存は,早期閉経発来や緊急体外受精を施行しなければならない卵巣毒性を有する治療を受ける全ての若年女性がん患者に,選択肢として提供すべき医療行為である」と認識されている.しかしながら,本技術の安全性や有効性などに関する評価が依然必要である.特に,小児・思春期世代の患者が,卵巣組織凍結の対象となることが少なくないことから,実際に凍結卵巣が使用されるまで10年または20年以上の長期にわたる経過が必要となる.現在この世代のがん患者が凍結融解・卵巣移植によって生児獲得した報告はごく僅かであることから,引き続き卵巣組織凍結・移植は研究段階の技術となることを認識し,患者とその家族に説明する必要性がある.さらに,現在の世界の標準的な卵巣組織凍結技術が緩慢凍結法であることも十分に理解した上で,ガラス化凍結法による卵巣組織凍結技術の臨床応用を進めるべきである.
 2013年に発刊された「卵巣組織凍結・移植」に関する本邦初のテキストの新版として,本書には最新の情報が加わり,さらに卵巣摘出や卵巣組織凍結,卵巣移植の動画を加えて改訂させていただいた.出版にあたっては,企画当初から全般にわたり多大なご助言を頂いた鈴木秋悦先生,卵巣組織凍結の研究を進めるにあたり多大なるご指導を頂いた森本義晴先生,医歯薬出版の岩永勇二氏,ならびに関係各位に厚く感謝致します.
 2021年8月
 聖マリアンナ医科大学 産婦人科学講座
 鈴木 直
 巻頭言(森本義晴)
 序文(鈴木 直)
 執筆者一覧
 本書に付属する動画について
第1章 卵巣組織の凍結の基礎
 01 卵巣組織凍結の歴史(古井辰郎・山本晃央・寺澤恵子ほか)
  卵巣組織凍結保存に関する論文数の推移
  凍結・移植方法
  妊娠出産例
  悪性細胞の再移植
  おわりに
 02 卵巣組織凍結の現状(海外ならびに日本におけるガイドラインを含めて)(北島道夫)
  妊孕性温存療法における位置づけ
  海外およびわが国におけるガイドライン
  治療成績
  おわりに
 03A 卵巣組織凍結・移植の現状(乳がん)(齊藤芙美・緒方秀昭)
  乳がんの疫学
  乳がん治療の現状
  国内ガイドラインにおける妊孕性温存術
  国内ガイドラインにおける卵巣組織凍結の位置づけ
  海外のガイドラインにおける卵巣組織凍結療法の位置づけ
  乳がん領域における卵巣組織凍結の現状
  おわりに
 03B 卵巣組織凍結・移植の現状(ターナー症候群,造血器腫瘍ほか)(太田邦明・片桐由起子・森田峰人)
  ターナー症候群
  造血器腫瘍
  中枢神経系腫瘍
  横紋筋肉腫
  ユーイング肉腫
  おわりに
 04 凍結生物学Cryobiology(基礎)(枝重圭祐)
  細胞の凍結保存とは
  凍結保存において細胞に傷害を与える要因
  細胞の低温生物学的特性
  組織の凍結保存
  細胞の凍結保存法
 05 凍結生物学Cryobiology(臨床)(銘苅桂子)
  卵子凍結
  精子凍結
  凍結胚を用いた生児獲得率
  日本における妊孕性温存療法の治療成績
 06 卵巣組織の“緩慢凍結法”(筒井建紀)
  緩慢凍結法の原理
  凍結保護剤
  卵巣の処理法
  ヒト卵巣組織の緩慢凍結保存法および融解法
  卵巣組織凍結保存についての臨床成績と問題点
  おわりに
 07 卵巣組織の“超急速凍結法”(橋本 周)
  凍結保存
  超急速凍結法
  卵巣組織の超急速凍結法の構築
  卵巣組織の凍結方法の比較
  卵巣組織の移植部位と卵子の回収ならびに卵子の質
  閉鎖型凍結デバイスの開発
  今後の課題
 08 卵巣組織のガラス化保存法〜Type M(R)とOva Cryo Closed Device(R)について〜(杉下陽堂・鈴木由妃・澤田紫乃ほか)
  卵巣組織ガラス化凍結法
  閉鎖型デバイスOva Cryo Closed Device(R)
  卵巣組織凍結デバイスの熱伝導速度比較(開放型 vs 閉鎖型)
  凍結卵巣組織検体の長期保存における工夫
  長期保存における安全な検体管理
  凍結タンクのスペースの問題
  卵巣組織凍結中のちょっとしたサポートとして
  卵巣組織凍結ガラス化凍結法について
  凍結卵巣組織融解の実際
  おわりに
 09 卵巣組織のガラス化保存法:Cryotissue(R) Kit(薮内晶子・加藤恵一)
  Cryotissue(R) Kitの開発
  Cryotissue(R) Kitプロトコール
   (Square Measureを用いた卵巣組織片の切り出し/卵巣組織片のガラス化保存および融解プロトコール/摘出された卵巣から採取可能な卵巣組織片数について)
  おわりに
 10 卵巣組織凍結に関するその他の話題(鈴木達也)
  Directional freezing
  ガラス化法における合成ポリマー添加
  スラッシュ窒素を用いたガラス化法
  細胞の凍結乾燥技術
  おわりに
 11 卵巣組織凍結法(緩慢凍結法 vs. ガラス化法)(原田枝美・河野康志)
  緩慢凍結法
  超急速凍結法(ガラス化法)
  緩慢凍結法か超急速凍結法か
  卵巣組織凍結の今後
第2章 卵巣組織の採取と移植
 12 卵巣組織凍結における患者説明(白石絵莉子・洞下由記・鈴木 直ほか)
  卵巣組織凍結のメリット・デメリット
  小児に対するインフォームド・アセント
  手術,卵巣組織凍結処理
  凍結更新外来での患者説明
  おわりに
 13 卵巣組織採取の実際〜Reduced port surgeryによる卵巣摘出手術〜(堀江昭史)
  腹腔鏡手術のアプローチ方法
  手術の実際
  卵巣切除方法
  どちらの卵巣を切除するべきか
  卵巣卵管切除
  手術のコツ
  執刀医はだれか?
  小児患児の手術の際の注意点
  ピットフォール
 14 小児・思春期患者に対する卵巣組織凍結保存(木村文則)
  小児がん患者の予後と妊孕性温存としての卵巣組織凍結
  卵巣組織採取についての患児への情報提供とその同意・賛同
  手術前の用意
  卵巣切除方法
  卵巣組織凍結方法
  現在までの実績と今後の課題
  おわりに
 15 卵巣組織移植の最新知見(江正道・鈴木 直)
  卵巣組織移植の位置づけ
  卵巣組織凍結・移植の実施状況
  卵巣組織移植の目的とタイミング
  卵巣組織移植の成績
  微小残存がん病変(MRD)について
  卵巣組織移植後のフォローと卵巣組織再移植の検討
  卵巣組織移植部位と移植方法
  卵巣組織移植成績改善に向けた取り組み
  おわりに
 16 卵巣組織移植の実際〜残存卵巣への同所性移植について〜(出浦伊万里・江正道・鈴木 直)
  手術の流れ
  手術の実際
  おわりに
第3章 卵巣組織の凍結・移植に関する諸問題
 17 化学療法,放射線療法による卵巣毒性(小野政徳・茅橋佳代・山崎玲奈 ほか)
  ヒト卵子数の変化
  卵胞発育過程とその制御因子
  化学療法による卵巣毒性
  放射線療法による卵巣毒性
  卵胞burn out効果
  おわりに
 18 がん細胞の再移入に関して(中尾朋子・木田尚子・岡田英孝)
  凍結卵巣組織中の悪性腫瘍細胞の検出法
  悪性腫瘍の種類と腫瘍細胞再移入のリスク
  おわりに
第4章 卵巣組織の凍結の将来
 19 卵巣輸送(鴨下桂子・田部 宏・岡本愛光)
  卵巣組織凍結の現状
  摘出卵巣組織の輸送環境について──温度・時間・保存液の観点から
  わが国における卵巣輸送の今後
 20 原始卵胞の体外発育-体外成熟(原田美由紀)
  原始卵胞から成熟卵子へ
  現在可能となっている手法
 21 卵子幹細胞(田中恵子・立花眞仁)
  卵子幹細胞について
  卵巣組織からの卵子幹細胞(OSCs)の分離
  卵子幹細胞からの卵子の産生
  多能性幹細胞からの卵子の作成
  卵子幹細胞のがん・生殖医療への応用
  卵子幹細胞の今後の可能性と課題
 22 人工卵巣(岩端秀之・江正道・鈴木 直)
  卵巣組織移植における“がん”の卵巣転移による問題
  卵巣組織移植の代替手段としての人工卵巣
  ホルモン補充療法の代替手段としての人工卵巣
  新規実験系としての人工卵巣の応用
  おわりに
 23 精巣組織凍結(古目谷 暢)
  Oncofertilityにおける妊孕性温存
  妊孕性温存としての精巣組織凍結
  凍結液について
  凍結法について
  凍結精巣組織の移植による精子形成誘導
  凍結精巣組織を用いた体外培養系による精子形成誘導
  今後の展望
  おわりに
第5章 本邦におけるがん・生殖医療への支援
 24 第3期がん対策推進基本計画とわが国におけるAYAがん医療の充実(後藤真紀・梶山広明)
  第3期がん対策推進基本計画の概要
  第1期がん対策推進基本計画とがん・生殖医療
  第2期がん対策推進基本計画とがん・生殖医療
  第3期がん対策推進基本計画とがん・生殖医療
  第3期がん対策推進基本計画中間評価とがん・生殖医療
  第4期がん対策推進基本計画策定へ向けて
 25 がん・生殖医療連携(前沢忠志)
  がん・生殖医療ネットワークについて
  がん診療医・生殖医療医の連携について
  ヘルスケアプロバイダーとの連携
  他科との連携
  他県との連携
  保管体制の整備
 26 がん・生殖医療における妊孕性温存療法に対する公的助成金制度(重松幸佑・井 泰)
  海外におけるがん・生殖医療に伴う経済的負担
  わが国における公的助成制度の現状と課題
  わが国における症例登録制度の現状
  おわりに
 27 法的側面からみたがん・生殖医療(水沼直樹)
  説明義務・説明責任
  生殖補助医療と親子問題
  出自を知る権利
  生殖補助医療に関する新法(民法特例法)の成立
  凍結組織の保管の問題
 28 卵巣組織凍結における長期保管体制(京野廣一・青野展也・橋本朋子)
  卵巣組織凍結の概要
  卵巣組織の搬送・処理・凍結・移植・妊娠管理
  凍結物の安全管理
  自然災害や火事の対策
  長期保存に伴うコミュニケーション・引き継ぎ
  災害時の法的責任
  保険
  おわりに

  【Column】卵巣組織凍結ならびに移植手術の“ 偉人たち”(中村健太郎・鈴木 直)
   Roger Gordon Gosden/Kutluk Oktay/Jacques Donnez/Dror Meirow/Debra Gook/Samuel S Kim/Claus Yding Andersen/Robert Morris
  【索引】