やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

序にかえて
Dual Useの問題
 近年,痛くない注射針というものが開発されてきているようですが,これは,糖尿病などで頻繁に注射や採血をする必要のある患者や,小児科の患者をはじめ,すべての患者にとってたいへんありがたい発明です.しかし,喜んでばかりもいられません.
 私のように,日頃,犯罪や事故に関係する業務に携わっていると,恐ろしいものができたなあと思わずにはいられないのです.といいますのは,われわれ医療関係者は,注射針は医療にしか用いないものと思い込んでいますが,少し視点を変えてみるとどうでしょうか.この注射針は医療以外にも使うことができなくはありません.これを,悪用して,人を傷つける道具として使えば,知らぬ間に睡眠薬や猛毒を他人に注入したりすることもできるわけですから,これほど恐ろしいものはありません.
 そういったことを防ぐには,使用時に若干の痛みを伴うとか,使用したときに第三者にもわかるように,光や音が発生する装置としか接続できない針にするといったような工夫が必要になってくるでしょう.このような例はいくらでもあります.介護用マッスルスーツでも同様のことがいえます.テロリストや強盗団が使用すれば,逃走が容易になるでしょうし,捕まった場合にも制圧が困難になります.犯罪に用いられることを防ぐには,マッスルスーツにGPS位置確認機能や指紋認証による起動制御を組み込んだり,製造番号を大きく背部に表示したりするなどの工夫が必要かもしれません.
 長い間,学校で科学的知識を学んできた,われわれ医療関係者は,科学はいつも人を幸せにするものと教えられ,そう信じ込んできましたが,それが本来の目的とは違うことに転用,誤用,悪用された場合には,人々に大きな害悪をもたらすことがあります.これは,科学における「Dual Useの問題」として,軍事やテロの問題を考える人たちの間では,かなり前から常識になっています.このようなことは,たいへん特殊な話で,一般市民には無縁の話だと思うかもしれませんが,ダイナマイトの発明や核反応の研究が近代社会の発展に大きく貢献した反面,戦争に用いられたり,原発事故を招いてしまったりしていることは,誰しもが知っていることです.
 本書では,筆者は,医療事故がどのように発生するのか,事故が起こったときに当事者はどのような問題に直面するのか,また,それにどう対応すべきか,事故原因の究明や事故防止策,また医事紛争の回避には何が必要かなどについて,法医学的な視点から述べてみたいと思います.日頃,患者の病気を治すことばかりを考えていることもあって,紛争に対しては無防備な臨床医にとって,必ず役に立つものと信じています.しかし,用い方によっては,医療に対して正当な批判や助言を行ってくれる患者や遺族の方々を遠ざけ,切り捨てる結果にもつながってしまうかもしれません.診療に没頭しておられる臨床医からすれば,そんなひどいことをすることはありえないので,そういう心配はないと思われるかもしれませんが,それだけではありません.本書を裏返して読めば,悪意をもった患者や遺族が,医師を陥れるにはどうすればよいかという,ヒントにもなりかねません.
 本書は,医療事故や医事紛争を裏側からみた法医学者が書いたものですが,読者の方々は,本書に書いてあることを本来の目的に用いて,医療の安全,健全な運営に役立てられることを祈っております.
 最後になりますが,本書の企画から刊行にいたるまで,たいへんお世話になりました医歯薬出版の遠山邦男氏に,心から感謝いたします.
 2016 年4 月
 慶應義塾大学 医学部法医学教室 教授
 藤田眞幸
 序にかえて Dual Use の問題
序章 医療関連死を考える
 最初に知っておくべきこと
 事故発生のメカニズム
第1章 紛争の発端
 遺族が我慢できないこと
  1)家族の死
   家族の死によるつらい気持ち/ 家族の死がもたらすつらい生活
  2)医療の内容
   予想に反した結果/ 何か問題があったのではないか
  3)医師の態度
   生前の態度/ 死亡直後の態度/ その後の態度と対応
 何に我慢できないか
  1)精神面で我慢できないことと非精神面で我慢できないこと
  2)我慢できなくなるとき
第2章 法的責任
 医師の法的責任
  1)法的責任の概要
   刑事責任/ 民事責任/ 行政責任(行政処分)
  2)それぞれの法的責任の関係
 医療における法的責任
  1)医療に関係した刑事罰
  2)医療過誤と刑事罰
  3)医療過誤と民事責任
  4)民事事件における説明義務違反と相当程度の可能性・期待権の侵害
  5)医療事故の行政処分
  6)法的責任が課せられるための要件
  7)法的責任の軽重の参考となるもの
  8)チーム医療における法的責任
第3章 説明のありかた
 医師の説明
  1)生前の医師の説明
   患者や家族の理解力/ 患者や家族の疑問に応える
  2)死後の医師の説明
   死後の医師の説明は生前と違う/ 紛争に発展する可能性が高い場合には弁護士に相談しておく/ まずはこちらが落ち着いて遺族と気持ちを共有してから説明する/ 遺族の攻撃に対して反撃すべきか/ 良くも悪くも気持ちは伝わる/ 本当にそういう気持ちになることが重要である/ 説明中での家族からの医学と関係のない話/ 共有することと共有してはいけないこと
 説明をするうえで重要なこと
  1)誰に説明するか
  2)説明する前から誤解が─初めて会う遺族
  3)誤解は解けても態度は許せない
  4)専門用語をどのように使うか
  5)避けるべき表現
  6)わからないこととわかっていること
  7)質問を受け付ける
  8)同じことを何度も尋ねる人たち
  9)説明の録音について
  10)納得できるかはムードの問題
第4章 医師と病院の対応
 適正で誠実な取り組み
  1)遺族にとって納得のいく方法で
  2)社会にとって納得のいく方法で─適正な手続き
  3)届出すべきか判断に迷うとき
  4)誠実な対応
  5)正確な記録の作成と保存─間違ったものを一度提出するとあとでの修正は困難
 トラブルへの対応
  1)しばらくしてからもめてくる
  2)誰が対応するか
  3)どこで対応するか
  4)迷惑行為
  5)不当な要求
  6)何に気をつけるか,気を配るか
第5章 謝罪のありかた
 謝罪の意義
  1)共感表明謝罪と責任承認謝罪
   共感表明謝罪/ 責任承認謝罪/ 謝罪に用いる表現と受け止められ方/ 共感表明謝罪は重要であり常に必要である
  2)謝罪に関するそのほかの重要な点
   共感表明謝罪について理解を深める/ 力説される正当性の(逆)効果/ 妥当な謝罪/ 謝罪能力─うまい謝罪と本当の謝罪
第6章 紛争時の注意点
 紛争になりやすいとき
  1)紛争が起こりやすい基本的条件
  2)許す・許さないはどう決まるか
  3)医事紛争になる可能性
   経緯が普通ではない/ 医療者側と患者(遺族側)の関係が普通ではない/ 患者側が普通ではない
  4)このままにはしておけない
  5)「このままではやっていけない」
  6)紛争になるということ
   紛争における急性期と慢性期
  1)激しい糾弾
  2)まずは許せない気持ちに応える
  3)論理的な話を始める前に
  4)毅然とした態度
  5)感情的な怒りから論理的な怒りへ
  6)論理的・戦略的な追及
   紛争の経過と展開
  1)新たな紛争・質的な変貌─例:肩が触れた後の言い合いが殴り合いになった場合など
  2)周囲の反応や評価
  3)周囲から受ける影響と行動
 紛争の行方と終結
  1)不満を満たす
  2)譲歩する
  3)周囲に妥協する
  4)それぞれの「土俵」での力関係やルール
  5)裁判所という「土俵」・医療の世界という「土俵」
  6)紛争の終結とその後
  7)紛争の結末は最終的には自分が背負う
第7章 医事紛争・裁判
 医事紛争
  1)紛争のスタート地点
  2)遺族からの要求
  3)医事紛争による精神的負担
  4)理不尽な糾弾をもちこたえる
  5)誰に相談するか
 職務上の相談/ 個人的な相談
  6)被害を大きくするもの
  7)医事紛争の当事者になること
  8)弁護士とのやりとり
  9)医事紛争の解決─どこにゴールを置くか,60 点を目標に,40 点でも最善なら
 裁判
  1)裁判の受け止め方
  2)訴訟の流れ
  3)民事裁判における裁判所の姿勢─裁判所は誰の味方もしない公平なところ
   裁判官は救いの神様ではなく公平な神様/ 民事裁判の基本原則
  4)民事裁判のゴールはどこにあるか─社会的紛争の解決
  5)医療側が納得できないような責任を問われる判決と制度的な問題
  6)裁判所では医師は一当事者にすぎない
  7)専門家の意見─鑑定書の問題点
  8)医師は裁判をみている人にどのように映るか
  9)医療の専門性
  10)裁判で勝つためにはエネルギーとサポートが必要
  11)裁判の結果がもたらすもの
  12)裁判による紛争の終結
終章 安全な医療を目指して
 事故対応と再発防止
  1)事故が起こったら
  2)誠実な医療機関としての初期対応─再発防止と紛争回避(緩和)に向けて
  3)死因究明─事故発生状況の解明と(狭義の)死因究明
  4)死体の診断の難しさ
  5)検案・死後画像診断・解剖─画像撮像装置の死後診断への応用
  6)死因究明結果から医療安全を考える
  7)システムエラーという考え方
  8)安全へのアプローチ
 安全に向けて
  1)安全と技術
   安全に行えるということは高度な技術/ 安全な方法の重要性がわからない人たち/ 安全ではない方法の恩恵を得ている人たち/ 安全ではない方法でどうにか動かしている/ 改善の難しい集団-悪玉腸内細菌叢モデル
  2)安全対策はどこまですべきか
   病院の経営と安全対策/ 社会全体の理解を求めて
付章 法医学と病理学
 法医学的な視点
  臨床診断と法医学的診断の目的
  臨床診断と法医学的診断の行われる背景
  法医学的視点
 病理診断と法医学的問題
  病理診断
  病理診断と法律・制度
 病理診断にかかわる医事紛争
  病理診断における誤診とその影響
  病理診断がかかわる医療過誤と法的責任
  チーム医療のなかで起こる病理診断の誤診とその責任
 病理解剖業務における法医学的問題
  解剖と法律・制度
  異状死体の届出に関する問題と医療事故調査制度設立までの動き
  改正医療法に基づく新しい医療事故調査制度の設立
  医療関連死と異状死・医師法第21 条
  死因究明における解剖の役割
  死因の究明と事故原因の検討
  死因や事故原因の究明とその解釈
  医療事故における過失と責任
  病理学と法医学

 COLUMN 1 法医学と法科学
 COLUMN 2 法的責任
 COLUMN 3 法的紛争になりやすい条件
 COLUMN 4 医療行為が適法であるための要件
 COLUMN 5 診断の構成要素と病理診断の意義
 COLUMN 6 医療における法的責任
 COLUMN 7 法的責任が課せられるための要件

 参考文献
 著者紹介