やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに
 「口腔組織学・発生学」は歯科医学における顕微解剖学の中心となる学問である.歯あるいは口腔の組織学ならびに発生学の授業に教科書として広く使われている出版物は,世界的にみてもあまり種類は多くない.わが国でもおそらく,ほとんどの大学では,『歯の組織学』(藤田恒太郎著)のほか,数種の外国語書籍の和訳本が使われていると思われる.
 学問の進歩によって基本的知識が年々増加するのは当然としても,これに,続々と発表される現在の最先端の知見などのすべてを盛り込もうとすると,教科書としては不適当な大部なものとなってしまう.同時に,情報化社会のなかでは,知見の置き換わりと追加の頻度が高くなり,教科書も比較的短時間での改訂が必要となる.一方で,代表的な教科書とされる『歯の組織学』が初版以来半世紀にわたり,歯牙の組織学に関する標準記載として引用されている事実は,基本的記載の点でこれを超える内容をもつ教科書が現れなかったことを示している.電子顕微鏡や組織化学等その後に急速に発達した方法論によって得られた研究成果の記載がほとんどないなど,いくつかの欠点が指摘されつつも,歴史的名著といわれるゆえんであろう.
 教科書としてどのようなものが必要かと考えると,これには二つの方向があると考えられる.一つは,外国の多くの教科書にみられるように,まだ定説として認識されていなくても,最近の知見をできる限り盛り込もうとする考え方である.研究者が対象の場合はこれでもよいのであるが,初学者が対象の場合,基本的・古典的と考えられる基礎知識を十分に示す必要があり,適当とはいえない.また,教科書にのった“最新知見”の多くは,出版された段階ですでに最新ではなくなっている場合も多いという欠点もある.
 ほかの一つは,改訂を加えるごとに,新知見を逐次追加する方法である.この方法では,多くの新旧の事項が併記混在されていることが多いため,初学者にとって何が基礎的に重要なのかを読み取ることが困難となる欠点がある.この点を補うためには,授業中に教員が指摘をすれば解決するのであるが,すべてにわたって十分な指摘が可能かという点で疑問が残る.結果として,この魅力に富んだ学問が,学生にとって無味乾燥な「暗記もの」に堕してしまう危険性が増加する.さらに,講義や実習で学んだことをすべて理解すれば,おのずから全体像がみえてくるはずであるとする従来型の古典的な教育は,学生の気質と資質の変化ならびに学ぶべき事項の急激な増加と授業時間の減少により,もはやすべての分野にわたり通用しなくなっている.
 したがって,学問を学ぶうえで基本事項は何かを明確に記載し,さらにその先を自主的に学びたいという学生には,現在どのような点で進歩しつつあるのか,どのような考えが提出されつつあるのかを,明瞭に区分して記載提示するという方法をとることが,教科書としてよりよい形態と考えられる.
 現在,歯学教育は大きな変換期にあたっており,カリキュラムの見直し,共用試験の導入など,いままさに,基本的事項の精選が求められている.この意味でも,本書の編集方針として掲げた“基本的事項の抽出と分離記載”は,時機を得たものと考える.
 これらの点を踏まえて本書では次のような工夫を施した.まず,歯学部学生ならびに歯の研究を始めようとする初学者のために,基本的事項を大きな文字で記載した.そしてひと通り歯学を修得した研究者ならびに歯を研究対象とする多くの研究者にとって役立つように専門的な項目を分けて小さな文字として記載した.さらに,項目ごとに記載の理解のための重要な箇所を太字で表した.付録として,現在行われている歯の研究方法の基本的な点について第11章に述べてある.詳細は専門書を読み,ベテランの研究者から指導を受けてほしい.
 われわれがもっとも苦心した点は「用語の統一」である.歴史的理由,個人の好みによる短縮,あるいは元が外国語の場合における表現の違いなどで,一つの事項について似たような用語がそれぞれの場で使われていることが少なくない.本書では,もっとも普通に使われていると考えられる用語を選択し,別に広く使われている用語がある場合は括弧で示した.欧文用語も英語を基準とし,表記の異なる場合は同様に併記した.
 本書は決して『歯の組織学』の改訂版ではないが,同書は編集にあたってもっとも参考にした書籍である.したがって,全体の構成をはじめ記載内容に同書との類似や付図の引用が少なくないのはこのためである.本書を編集することができたのは,ひとえに一方で『歯の組織学』という優れた先達の存在があり,他方で優秀な組織学教員ならびに研究者に恵まれた現在という幸運があったからである.分担執筆の通例としての欠点も散見されるが,本書が『歯の組織学』と同様に息の長い,わが国における「口腔組織学・発生学」の標準的教科書に育っていけば,編者にとって望外の喜びである.
 本書の刊行にあたり,多くの方々から図版の提供あるいは転載の許可をいただいた.この場を借りてここに厚くお礼を申し上げる.また,本書の完成までに終始励ましと助言をいただいた医歯薬出版株式会社編集部の方々に心からお礼を申し上げる.
 2006年7月
 編者一同
第1編 口腔組織・発生学総論
 第1章 歯と口腔の概説(脇田 稔)
  1 歯とはなにか
  2 歯の種類
   1 永久歯列を構成する歯
   2 乳歯列
  3 歯の外形
  4 歯の内景
  5 歯の固定と支持組織
  6 硬組織
   1 硬組織の生活力
   2 エナメル質
   3 象牙質とセメント質
   4 歯を構成する硬組織の物理化学的性状
 第2章 歯と口腔の発生
  1 顔面と口腔の発生(天野 修)
   1 発生第1・2週
   2 発生第3週以降
   3 胚子の屈曲と胚葉の分化
   4 神経堤細胞の移動と分化
   5 口腔諸器官の発生
  2 歯の発生と成長(野吉郎)
   1 はじめに
   2 ヒトの歯の発生と成長
   3 歯の初期発生
   4 歯冠形成と歯根形成
  3 歯の構造と硬組織形成(野吉郎)
第2編 口腔組織・発生学各論
 第3章 エナメル質
  1 概説(脇田 稔)
  2 エナメル質の発生(内田 隆)
   1 エナメル質形成の特徴とその概要
   2 エナメル芽細胞の分化
   3 基質形成期エナメル芽細胞の微細構造
   4 エナメル小柱とトームスの突起の形態
   5 基質形成期幼若エナメル質の形成機構
   6 移行期エナメル芽細胞
   7 成熟期エナメル芽細胞
   8 退縮(縮合)エナメル上皮
   9 中間層の細胞
  3 エナメル質の構造
   1 エナメル小柱(山本敏男,脇田 稔)
   2 シュレーゲル条(山本敏男,脇田 稔)
   3 レチウス条(山本敏男,脇田 稔)
   4 エナメル叢とエナメル葉(山本敏男,脇田 稔)
   5 象牙細管のエナメル質内突起(山本敏男,脇田 稔)
   6 歯小皮(山下靖雄)
   7 歯頚部エナメル質と歯頚線(土門卓文)
   8 根分岐部のエナメル質の形態(土門卓文)
   9 エナメル質結晶の構造(裄V孝彰)
  4 臨床的考察(裄V孝彰)
   1 エナメル質の構造および組成とエナメル質の外傷
   2 エナメル質の構造および組成とエナメル質齲蝕
 第4章 象牙質・歯髄複合体
  1 概説(小澤幸重)
  2 象牙質・歯髄複合体の発生(小澤幸重)
   1 象牙質形成の概要と歯乳頭から歯髄への分化
   2 象牙芽細胞の分化と石灰化の進行
  3 象牙質の構造(脇田 稔)
   1 総論
   2 象牙細管
   3 象牙質の成長線
   4 象牙質の成長と石灰化
   5 象牙質の経年変化
   6 エナメル象牙境
  4 歯髄の構造(脇坂 聡)
   1 歯髄の機能
   2 歯髄の細胞
   3 歯髄の細胞外基質
   4 歯髄表層の構造
   5 歯髄の加齢変化
  5 臨床的考察〜修復学研究者からみた象牙質・歯髄複合体〜(吉山昌宏)
   1 慢性齲蝕が象牙質に及ぼす変化
   2 摩耗と咬耗
   3 象牙質知覚過敏症
   4 象牙質表層に形成される樹脂含浸層
   5 直接覆髄に対する歯髓の反応
  6 臨床的考察〜歯内療法学の立場から〜(興地隆史)
   1 口腔内細菌の意義
   2 象牙質の物質透過性
   3 象牙細管経由の刺激侵襲に対する歯髓の応答
 第5章 歯の支持組織
  1 概説(山下靖雄)
  2 支持組織の発生(矢嶋俊彦)
   1 ヘルトウィッヒ上皮鞘の形成
   2 歯根形成
   3 セメント質形成
   4 ヘルトウィッヒ上皮鞘の運命
   5 歯の支持組織の系統発生
  3 セメント質(山本恒之)
   1 概説
   2 セメント質形成
   3 セメント質の微細構造
   4 エナメル質とセメント質の境界
   5 加齢変化
  4 歯根膜(歯周靭帯)(矢嶋俊彦)
   1 概説
   2 歯根膜の発生
   3 歯根膜細胞
   4 細胞外基質
   5 血管分布
   6 神経支配
   7 歯根膜の機能
   8 歯周組織の改造
   9 加齢変化
  5 歯槽骨(笹野泰之)
   1 概説
   2 歯槽骨の発生
   3 歯槽骨の構造
   4 骨のリモデリング
   5 加齢変化
  6 歯肉(山下靖雄)
   1 概説
   2 歯肉上皮
   3 歯肉固有層
   4 歯肉の血管と神経
  7 臨床的考察(下野正基)
   1 歯肉
   2 歯根膜
   3 セメント質
   4 歯槽骨
 第6章 歯と歯周組織の神経と脈管
  1 概説(前田健康)
   1 歯と歯周組織の神経
   2 歯と歯周組織の脈管
  2 歯の神経支配(前田健康)
   1 歯髄の神経分布
   2 歯髄の自律神経
   3 歯髄神経の微細構造
   4 歯の痛みの発生機序
   5 歯髄のペプチド作動性神経
   6 歯髄神経の発生
  3 歯周組織の神経支配(前田健康)
   1 歯根膜の神経分布
   2 歯根膜神経の終末
   3 歯根膜神経の発生
   4 歯根膜神経の再生
  4 歯肉の神経支配(前田健康)
  5 歯と歯周組織の脈管
   1 血管系(岸 好彰)
   2 リンパ管系(前田健康)
  6 臨床的考察
   1 歯の痛みの臨床的側面(興地隆史)
   2 窩洞形成に対する歯髄神経の動態(前田健康)
   3 炎症に伴う歯髄神経の分布構築の変動(興地隆史)
   4 歯髄神経と血管系の相互作用(神経原性炎症)(興地隆史)
 第7章 歯の交換
  1 概説(明坂年隆)
  2 歯の運動様式とその組織学(金田一孝二)
  3 歯の運動のメカニズム(金田一孝二)
  4 歯の萌出(金田一孝二)
  5 歯の脱落とその組織学(明坂年隆)
  6 歯の吸収と脱落の機序(明坂年隆)
   1 歯の脱落の要因
   2 歯根吸収のメカニズム
  7 臨床的考察(木裕三)
   1 歯根吸収に影響を与える因子
   2 歯根吸収の異常による歯科臨床上の問題
 第8章 顎関節
  1 概説(城戸瑞穂,田中輝男)
  2 顎関節の構造(城戸瑞穂,田中輝男)
   1 下顎窩と下顎頭
   2 関節滑膜
   3 関節円板
   4 神経分布
  3 顎関節の発生(野澤-井上佳世子,前田健康)
   1 顎関節の発生の概略
   2 初期発生
   3 下顎頭と下顎窩の発生
   4 関節円板と関節腔の発生
   5 滑膜の発生
  4 臨床的考察
   1 顎関節の構造と臨床的現象(木野孔司)
   2 顎関節のバイオメカニクス(中沢勝宏)
 第9章 口腔の軟組織
  1 概説(脇田 稔)
   1 粘膜
   2 唾液腺
   3 舌
   4 リンパ組織
  2 口腔粘膜(長門俊一,藤 英俊)
   1 粘膜上皮
   2 粘膜固有層
   3 粘膜下組織
   4 口腔粘膜の分類
   5 各部位の粘膜の特徴
  3 唾液腺(天野 修)
   1 唾液と唾液腺
   2 唾液腺組織の基本構造
   3 腺房の構造
   4 導管の構造
   5 大唾液線
   6 小唾液線
  4 舌(豊島邦昭)
   1 舌筋
   2 舌乳頭
   3 舌の発生
   4 味蕾
   5 舌腺
  5 リンパ系(中村雅典)
   1 リンパ系とは
   2 リンパ節
   3 扁桃
   4 舌のリンパ
  6 臨床的考察
   1 口腔粘膜(泉 健次)
   2 唾液腺(橋本貞充)
   3 舌(脇坂 聡)
 第10章 顎骨
  1 概説(山下靖雄)
  2 発生(明坂年隆)
   1 下顎骨の発生
   2 二次軟骨の出現
   3 下顎正中部における骨の癒合
   4 上顎骨の発生
   5 上顎骨のなかの切歯骨
  3 構造(井上勝博,加納 隆)
   1 上顎骨
   2 下顎骨
  4 臨床的考察(井上 孝)
   1 顎骨と歯科
   2 顎骨の喪失と再生
   3 置換医療における顎骨
   4 置換医療と顎骨再生に影響を及ぼす因子
 第11章 歯の研究法
  1 光学顕微鏡〜とくにデジタル画像について〜(脇田 稔)
  2 電子顕微鏡(網塚憲生,前田健康)
   1 電子顕微鏡の原理の概要
   2 電子顕微鏡の種類
   3 電子顕微鏡の試料作成
   4 電子顕微鏡の細胞組織化学への応用
  3 蛍光顕微鏡と共焦点レーザー顕微鏡(網塚憲生,前田健康)
  4 免疫組織化学と組織化学(網塚憲生,前田健康)
   1 免疫組織化学
   2 酵素抗体法
   3 蛍光抗体法
   4 金コロイド法
   5 酵素組織化学
   6 in situハイブリダイゼーション
  5 顕微エックス線法(コンタクトマイクロラジオグラフィ)(脇田 稔)
   1 試料の準備
   2 フィルム
   3 撮影
   4 現像
   5 観察
   6 撮影とデータの保存
  6 組織培養(名和橙黄雄)
   1 Trowellの改良法
   2 寒天またはコラーゲンゲル埋入培養法
   3 フローティング法(浮遊培養法)
   4 歯根の培養
   5 歯胚の脾臓内移植
   6 幹細胞培養法
  7 分子生物学的手法(羽地達次)
   1 ウエスタンブロット法
   2 PCR法
   3 RNAi法
・索引