やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はしがき

 最近の医療界においては,医療関係者と患者との信頼関係の重要性が広く認識され,インフォームド・コンセントの必要性が異口同音にさけばれている.これは,医療において患者の「生命および健康」が大切にされることはもとより,どのような医療を行うかについて「患者の意思」が尊重されるべきことを意味している.近代以降,人々の医療を受ける権利(医療権)ないし健康に生きる権利(健康権)が追求されてきたが,さらに現代では,医学・医療の発達により診療の方法や結果につき多様な可能性が存するようになったことから,それを選択する自由(患者の自己決定権)が主張されるようになった.とくに患者の人生観ないし価値観にかかわる終末医療や生殖医療においては,この患者の自己決定権と,医学の精神ないし医療の理念との相克もみられ,その間にいかにして調和をみいだすかが大きな課題となっている.
 一方,医学教育の改革に関して『医学教育の改善に関する調査研究協力者会議・最終まとめ』(文部省高等教育局医学教育課,1987)は医学教育が今後重視すべき分野として「複雑な医療制度のもとで医療を実施していくために必要な医療管理に関する教育,将来一層複雑化する病院の管理に関する教育,医療の経済的側面や保障制度に関する教育」や「脳死,臓器移植,体外受精,遺伝子治療等,新たに研究及び診療上生じてきた生命倫理に関わる課題に関する基礎的教育」などをあげている.同じく『歯学教育の改善に関する調査研究協力者会議・最終まとめ』(同上)も,新しい歯科医学教育の内容として「社会歯科学,歯科医療管理学の立場から,歯科医療に従事する上で必要な知識を学習させ,これには,歯科医師に関連する法規,医療保険制度,地域医療及び予防行政の役割,医療管理の実際等が含まれる」ことをあげ,今後「医事法や医療に関する経済(医療保障制度を含む)などの社会歯科学の分野も国民医療の観点から重視すべきである」と指摘している.
 こうした医学教育ならびに歯科医学教育の改善に関する提言は,医事法学またはこれに関連する学科目の教育の重要性を示唆しているものといえる.これに対して,医科大学・歯科大学における医事法教育の実態はどうであろうか.全国の医学部・医科大学を対象とした医事法学会の調査(1990年,年報医事法学6号)によると,医事法教育を実施している大学は70.4%であるが「医事法(医事法制)」という独立した科目を設けているのはまだ16.8%にすぎない.医事法の授業時間は,10時間未満が3分の1を占め,そのほか15時間未満11.3%,20時間未満6.6%,25時間未満7.3%,30時間未満2.6%などとなっている.その授業においてとりあげられている40余項目のうち,頻度の高いものを順にあげると,つぎのようになる.
 (1)医師・歯科医師の身分・業務
 (2)医師―患者関係
 (3)インフォームド・コンセント
 (4)医行為・医療行為
 (5)医療事故・医療過誤
 (6)病院,診療所その他の医療施設
 (7)患者の権利
 (8)診療録その他の医療文書
 (9)死の判定・脳死
 (10)診療契約
 (11)その他の医療関係者の身分・業務
 (12)受診拒否・受療拒否・輸血拒否
 (13)安楽死・尊厳死
 (14)臓器移植・人工臓器
 (15)救急医療・診療拒否
 (16)薬禍・薬害・予防接種
 (17)避妊・中絶
 (18)紛争処理・鑑定
 (19)医療保障・医療保険
 (20)死体・献体・解剖
 筆者もこの実態調査の調査員として各大学を訪ねたが,その際に関係者から,医事法に関する適切な教科書や参考書がないことが指摘された.歯学部・歯科大学における医事法教育の調査はないようであるが,実態はほぼ同様と推察される.
 本書は,上記のような状況および実態を考慮して,現代医療に関する法的問題の概要を論述したものである.これを医学部・歯学部の学生用のテキストとして,また,現に診療に従事しておられる医師,歯科医師,その他の医療関係者の参考書として,医療に関する法的な問題を考える際にご活用いただければ幸いである.なお,歯科医療事故に関する判例は,まとまった形で公刊されたものがまだないことにかんがみて,各事例の概要と判決の要旨およびその解説を本書の第4編として収録した.これも本書の特徴をなしている.
 本書の編集においては,学際的な著作であることを考えて,まず菅野が医事法学の立場から原稿を執筆し,これに対して,高江洲が社会医学ないし社会歯科学の立場から検討を加え,相互に協議しながら作業をすすめることにした.これまでの学界の研究成果を広く参照して,可能な限り客観的に論述したつもりであるが,必ずしも完璧を期オえたとはいえない.不備な点も多々あろうかと思われるので,今後折をみて検討を加え,よりよいものに改めていきたいと考えている.
 なお,本書の出版については,医歯薬出版の方々のご配慮に与かり,とくに編集部の吉原巖氏には企画の段階から刊行に至るまで懇切なるお世話をいただいた.また,原稿の準備や校正については,北村陽子さん(岩手医科大学法学研究室)の手も煩わせた.ここに記して,謝意を表する次第である.
 1992年10月20日 菅野耕毅 高江洲義矩

凡 例

 I 法令名略語
 あ
 あへん あへん法
 あん摩 あん摩マッサージ指圧師,はり師,きゅう師等に関する法律
 い
 医 医師法
 医療 医療法
 え
 栄改 栄養改善法
 か
 外国臨修 外国医師又は外国医師歯科医師が行う臨床修練に係る医師法十七条及び歯科医師法十七条の特例等に関する法律
 介保 介護保険法
 学教 学校教育法
 学保 学校保健法
 感染症 感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律
 き
 行手 行政手続法
 狂予 狂犬病予防法
 け
 刑 刑法
 刑訴 刑事訴訟法
 結予 結核予防法
 憲 憲法
 検疫 検疫法
 献体 医学及び歯学の教育のための献体に関する法律
 健保 健康保険法
 健保則 健康保険法施行規則
 こ
 戸 戸籍法
 公害補償 公害健康被害の補償等に関する法律
 厚生告 厚生省告示
 厚生令 厚生省令
 厚設 厚生省設置法
 国保 国民健康保険法
 し
 歯 歯科医師法
 歯衛 歯科衛生士法
 歯技 歯科技工士法
 死体 死体解剖保存法
 自治 地方自治法
 視能 視能訓練士法
 児福 児童福祉法
 柔道 柔道整復師法
 商 商法
 消防 消防法
 食衛 食品衛生法
 診技 診療放射線技師法
 身障 身体障害者福祉法
 せ
 生活保護 生活保護法
 精保 精神保健及び精神障害者福祉に関する法律
 船員 船員法
 戦援 戦傷病者特別援護法
 船保 船員保険法
 そ
 臓器 臓器の移植に関する法律
 則 施行規則
 た
 大麻 大麻取締法
 ち
 地域保健 地域保健法
 知的障害 知的障害者福祉法
 は
 罰金臨措 罰金等臨時措置法
 ひ
 被爆者 原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律
 ほ
 母子保健 母子保健法
 母体保護 母体保護法
 保助看 保健婦助産婦看護婦法
 墓地 墓地,埋葬等に関する法律
 ま
 麻薬 麻薬及び向精神薬取締法
 み
 民 民法
 民調 民事調停法
 や
 薬剤 薬剤師法
 薬事 薬事法
 よ
 予接 予防接種法
 り
 理作 理学療法士及び作業療法士法
 療養規則 保険医療機関及び保険医療養担当規則
 臨衛技 臨床検査技師,衛生検査技師等に関する法律
 れ
 令 施行令
 ろ
 労安 労働安全衛生法
 労基 労働基準法
 老保健 老人保健法
 II 判例集名・雑誌名の略称
 民録 大審院民事判決録
 民集 大審院民事判例集
 最高裁判所民事判例集
 刑録 大審院刑事判決録
 刑集 大審院刑事判例集
 最高裁判所刑事判例集
 高民集 高等裁判所民事判例集
 高刑集 高等裁判所刑事判例集
 下民集 下級裁判所民事裁判例集
 下刑集 下級裁判所刑事裁判例集
 医関判集 医療関係判例集(第一法規)
 医過民判集 医療過誤民事裁判例集(東京法令)
 東高民時報 東京高等裁判所民事判決時報
 東高刑時報 東京高等裁判所刑事判決時報
 高刑裁判特報 高等裁判所刑事裁判特報
 刑月 刑事裁判月報
 家月 家庭裁判月報
 判時 判例時報
 判タ 判例タイムズ
 ジュリジュリスト
 法時 法律時報
 法教 法学教室
 法セ 法学セミナー
 司法 司法研究
 新聞 法律新聞
 III 引用条文の項・号の略表示
 (1)・(2)………1項・2項を示す.
 項の後の数字………号を示す.
はしがき
凡例

第1編 医事法学序説
 第1章 医療と法……2
  第1節 医療と法の関わりの歴史……2
  第2節 近代の医療と法……6
 第2章 医事法と医事法学……10
  第1節 医事法学の展開過程……10
  第2節 医事法学の意義と目的……12
  第3節 医事法学の対象と方法……13
第2編 医療制度の法
 第3章 医療制度の沿革……18
  第1節 明治期の医療制度……18
  第2節 大正期・昭和前期の医療制度……19
  第3節 昭和戦後期の医療制度……20
  第4節 平成期の医療制度……21
 第4章 医療衛生行政……25
  第1節 行政の意義……25
  第2節 衛生行政……26
  第3節 衛生行政組織……30
 第5章 医療関係者の法……35
  第1節 医療関係者法の意義……35
  第2節 医師・歯科医師・薬剤師の法……36
   A 医師法・歯科医師法
   B 薬剤師法
  第3節 保健・助産・看護・診療補助者の法……53
   A 保健婦助産婦看護婦法
   B 救急救命士法
  第4節 放射線・検査・臨床工学技術者の法……56
   A 診療放射線技師法
   B 臨床検査技師,衛生検査技師等に関する法律
   C 臨床工学技士法
  第5節 歯科医療技術者の法……58
   A 歯科衛生士法
   B 歯科技工士法
  第6節 リハビリテーション技術者の法……64
   A 理学療法士及び作業療士法
   B 視能訓練士法
   C 言語聴覚士法
   D 義肢装具士法
  第7節 医業類似行為施術者の法……67
   A あん摩マッサージ指圧師,はり師,きゅう師等に関する法律
   B 柔道整復師法
 第6章 医療施設の法……70
  第1節 医療施設法の沿革……70
  第2節 医療法……71
   1 総説
   2 医療機関の種類と定義
   3 医療機関の開設・管理
   4 医療機関の人員・施設設備
   5 医療機関の指導・監督
   6 医療計画
   7 公的医療機関
   8 医療法人
   9 医業等の広告・診療科名
  第3節 その他の医療施設の法……79
   1 歯科技工所(歯科技工士法)
   2 薬局(薬事法)
   3 施術所(柔道整復師法等)
   4 衛生検査所(臨床検査技師,衛生検査技師等に関する法律)
 第7章 医療衛生の法……84
  第1節 総説……84
  第2節 医事関係法規……84
   A 死体解剖保存法
   B 医学及び歯学の教育のための献体に関する法律
   C 臓器の移植に関する法律
  第3節 保健衛生法規……87
   A 地域保健法
   B 学校保健法
   C 精神保健及び精神障害者福祉に関する法律
   D 母体保護法
   E 母子保健法
   F 老人保健法
  第4節 予防衛生法規……95
   A 感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律
   B 予防接種法
   C 結核予防法
  第5節 生活衛生法規……99
   A 食品衛生法
   B 水道法
   C 墓地,埋葬等に関する法律
  第6節 労働衛生法規……100
   A 労働安全衛生法
   B じん肺法
   C 作業環境測定法
   D 労働者災害補償保険法
  第7節 薬事法規……102
   A 薬事法
   B 麻薬及び向精神薬取締法
   C 大麻取締法
   D あへん法
 第8章 医療保障の法……104
  第1節 医療保障制度……104
  第2節 医療保険の法……105
   A 健康保険法
   B 国民健康保険法
  第3節 公費医療の法……107
   A 児童福祉法
   B 身体障害者福祉法
   C 生活保護法
第3編 医療行為の法
 第9章 医療行為……112
  第1節 医療行為の法的意義……112
   1 医療行為の意義と分類
   2 固有の医療行為
   3 方法上の医療行為
   4 医業類似行為
  第2節 医療行為の法的性質……121
   1 医療行為の法的構成
   2 医療行為の適法要件
 第10章 医療契約……124
  第1節 医師等と患者の法律関係……124
  第2節 医療契約の意義……125
   1 医療契約の内容
   2 医療契約の態様
   3 医療契約の法的性質
  第3節 医療契約の成立……130
   1 医療契約の成立要件と有効要件
   2 医療契約の申込
   3 医療契約の承諾
   4 医療契約と契約自由の原則
  第4節 医療契約の当事者……132
 @ 1 患者側
   2 医療側
   3 保険医療における契約の当事者
  第5節 医療契約の効果……137
   1 医療側の義務
   2 患者側の義務
  第6節 医療契約の終了……149
 第11章 説明と承諾……153
  第1節 インフォームド・コンセントの法理……153
  第2節 患者の承諾……155
  第3節 説明義務……159
  第4節 説明・承諾が不要な場合……164
 第12章 医療文書……166
  第1節 診療録……166
  第2節 診断書……173
 第13章 医療事故……180
  第1節 医療事故と医事紛争……180
  第2節 医療事故の法的責任……184
  第3節 医療事故の不法行為責任……186
  第4節 医療事故の債務不履行責任……196
  第5節 医療事故の刑事責任……200
 第14章 医療と人権……203
  第1節 脳死・臓器移植と人権……203
   1 死の概念と脳死
   2 臓器移植と法
  第2節 安楽死・尊厳死と人権……210
  第3節 生殖医療と人権……215
  第4節 精神医療と人権……218
  第5節 臨床研究と人権……220
第4編 歯科医療判例の理論
 第15章 歯科医療判例の概要……226
  第1節 歯科医療判例の増加……226
  第2節 歯科医療判例の概観……226
  第3節 歯科医療判例の推移……228
  第4節 歯科医療判例の内容分類……229
 第16章 診断……231
  第1節 診断の意義と裁量性……231
  第2節 誤診とその判断基準……232
  第3節 問診の義務……233
  第4節 診断修正の義務……234
  第5節 受診勧告・転医勧告の義務……235
 第17章 検査……236
  第1節 検査の意義と種類……236
  第2節 検査の適法要件……236
  第3節 治療・疾病管理のための検査義務……237
 第18章 投薬・注射……241
  第1節 薬剤施用の判断……241
  第2節 薬剤の種類と分量……241
  第3節 薬剤の副作用の防止……243
  第4節 注射の技法等……245
 第19章 麻酔……246
  第1節 麻酔実施における注意義務……246
  第2節 麻酔管理の担当者……248
  第3節 麻酔の術後管理……248
 第20章 治療の方法……251
  第1節 治療方法選択の裁量性……251
  第2節 治療方法の社会的相当性……251
  第3節 歯科治療事故の若干の例……253
  第4節 治療行為における注意義務……256
 第21章 説明・承諾なき治療……258
  第1節 承諾取付義務違反……258
  第2節 説明義務違反……261
  第3節 歯科における説明義務の特徴……261
 第22章 抜歯……265
  第1節 抜歯事故と注意義務……265
  第2節 抜歯による顎骨折……268
  第3節 その他の抜歯事故……272
 第23章 補綴……275
  第1節 補綴法の選択……275
  第2節 義歯……275
  第3節 歯冠補綴物……280
 第24章 歯科器材等の迷入……286
  第1節 歯科用器具等の迷入……286
  第2節 歯・破折歯片の迷入……288
 第25章 口腔内の損傷……291
  第1節 歯科切削研磨機器による傷害……291
  第2節 歯科用器具等による傷害……293
  第3節 薬剤・器具等による火傷……295
 第26章 その他の判例……296
  第1節 その他の歯科医療事故……296
  第2節 診療録・X線フィルム等の請求……296
  第3節 歯科医療技術者の業務範囲……298

参考文献……302
判例索引……305
事項索引……307