やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに
 人間は生まれたときから加齢という避けられない生物的な現象のなかで生きていかなければなりません.そしてさまざまな疾病や老化と闘いながら,(一つの)人生の完成としての死を迎えます.「死」を迎えることは何人も避けることができない宿命であり,自然現象です.
 しかし,できることならば,苦しまず,最後まで人間らしい姿と機能,こころをもって寿命を全うしたいと願うものです.こうした願いを別の言葉で表すと,「納得できる人生を送りたい」となるでしょう.そしてこれは,ある意味で人間の尊厳にかかわることです.医療人の務めは,納得できる人生を送ることを,健康面(医療面)から,そしてこころの面から支えることだと思います.
 私は誤嚥性肺炎の研究に入る前,スウェーデン・イエテボリ大学のJan Lindhe教授から指示を受けて,岡本浩先生をはじめとした同志とともに茨城県牛久市での歯周疾患の国際的疫学研究に携わっていました.10年以上にわたるプロジェクトでしたが,地域における歯周疾患予防の基本はプラークコントロールであることを疫学研究で実証しました.この体験は後の「誤嚥性肺炎予防と口腔ケアに関する研究」を推進するための下積みとなる大変貴重な経験となりました.
 1999年にLancet誌に「口腔ケアと誤嚥性肺炎予防」についてのわれわれの研究が掲載されたとき,東北大学医学部老年・呼吸器内科(当時)の佐々木英忠教授が「おめでとうございます.これから忙しくなりますよ」とおっしゃられたことがつい昨日のことのように感じられます.実はこの時期,「口腔ケアと誤嚥性肺炎予防」についての研究は一区切りをつけていましたので,佐々木先生のおっしゃることがわからず,まるで他人ごとのように受け止めていました.
 しかし,研究の成果が拡がるにつれてさまざまなところから声が掛かるようになり,歯周疾患の疫学研究よりさらに多忙な生活を強いられるようになりました.病院や高齢者施設での口腔ケアについていろいろ調査していくうち,世の中には誤嚥性肺炎により生死の境目をさまよっている方が数多くいることに改めて気が付きました.口腔ケアと誤嚥性肺炎予防の関係は単に研究として終わるものではなく,その研究の成果を,社会にもっと訴えて普及していかなければならないという気持ちになりました.幸いなことに看護師さんや歯科衛生士さんが大変な関心を持ってくれるようになりました.ちょうどそのような時期に佐々木先生が日本老年医学会の理事長に就任され,2004(平成16)年には東京大学加齢医学講座(当時)の大内尉義教授が厚生労働省の社会保障審議会(医療保険部会)で,経済面から見た口腔ケアの有意性について専門家としての意見を述べられました.こうしたことがわが国の医療制度の中で口腔ケアが急速に普及していった背景といえます.
 いま,ここに本書を上梓できることは,「口腔ケアと誤嚥性肺炎予防」というテーマについて,多くの方々が大切な時間を割いてご指導,ご協力,ご支援をいただいた,その賜物であると固く信じます.
 そして本書は私自身の人生の一つのまとめであり,まとめを出すことでしばしの安らぎが得られるのではないかと期待しております.
 どうか,本書をお読みいただき,口腔ケアと誤嚥性肺炎予防の世界に心を移入し,目の前にいらっしゃる患者さんに口腔ケアとしてやさしく手を差し伸べていただければ幸いです.
 令和4年新春
 米山武義


推薦文
 わが国の歯科界は,近年に二つの大きなパラダイムシフトを経験しました.一つは1989年に提唱された8020運動であり,他の一つは1999年に権威あるLancet誌に発表された米山先生を中心とした「口腔ケアの誤嚥性肺炎予防効果」についての論文です.この二つは,狭かった歯科の視点を,口腔内から一気に外部に向かって拓く歴史的な役割を果たしてくれました.
 まず8020運動はその深化のなかで,「歯を残すために大切な歯科保健・医療は手段であり目的ではない」と私に教えてくれました.それを受けて,私は,歯科保健・医療の真の目的は「高齢者が自らの人生を生き生きと生ききることであり,われわれの役割はその実現のために必要な健康寿命の延伸を支えることにある」,と訴えてきました.そして,8020運動の存在意義は,「歯科医療中心主義」から一人の人の人生の価値,つまり「文化に関わる運動」へと認識を変化させたことにある,と私は考えています
 一方,口腔ケアは,要介護高齢者を危険な誤嚥性肺炎から守ることにあると当初は理解されていましたが,その後にがん患者やICU,そして手術前の患者の生きる力を医療の現場で守り支えるという思いもしない地平に拡がっていきました.さらにそれだけでなく,口腔ケアはたびたび襲う大災害から被災者の健康と命をも守るという重要な役割を危機のなかで果たすこととなりました.あの2011年の東日本大震災では,われわれの仲間たちが組織的にまたは自主的に多くの避難者へ口腔ケアを実施したことは,今でも深く記憶に残っています.つまり,口腔ケアもまた超高齢社会における新たな「文化に関わる運動」となりました.
 私は,今から半世紀前の1970年代に,「虫歯の洪水」と名付けられた子どもたちの悲惨な口腔の状況に立ち向かおうと,静岡市歯科医師会(現:静岡市静岡歯科医師会)の理事として,わが国で最初の公共理念に基づく予防活動を始めました.そしてその活動の生物学的な理念は,「さまざまな細菌のエコシステムである口腔内を安定させること」にあり,社会的な理念は,「子どもたちの健康を守ることを通して社会の未来を安定させること」にあると信じて,半世紀に及ぶ「歯科医師会の役員人生」を歩いてきました.
 そんな私の「役員人生」の最終段階で出会った本書は,子どもたちのための半世紀前の私の活動と,現在の超高齢社会の中での米山武義先生の活動とを,50年の時を経て出会わせてくれたのではないか,そんな幻影のような思いに浸っています.
 本書を貫くように流れる米山先生の理念は,序章のタイトル「肺炎という老人の友」に強く表わされています.100年程前に生きたオスラー医師のこの言葉について,米山先生は「オスラー以後の100年間に医療は大きな進歩を遂げたが,高齢者とその友人の肺炎を別れさせることができたか」と自問し,その答えを「イエスでもありノーでもある」と書かれました.先生は,この「イエスとノー」の間,つまり対立する両極性の世界のなかで,先生の役割を果たすべく闘ってこられたのだ,と私は改めて心を動かされています.
 私は,医療や福祉に関わる多くの人々が,本書から深く知識を学ばれ,それを行動に移すことで,「友である肺炎」を高齢者の生から遠ざける道を拓いていただけることを切に願って推薦の言葉といたします.
 元日本歯科医師会会長
 大久保滿男
 はじめに
 推薦文(大久保滿男)
 口腔ケアと誤嚥性肺炎予防の近未来を考える―本書が成り立つまで
序章 「肺炎という老人の友」を考える意味と本書の意図
 1 「肺炎という老人の友」を考える意味と本書の意図
第1章 誤嚥性肺炎の「いま」
 1 よく耳にする「誤嚥性肺炎」
 2 誤嚥性肺炎の「肺炎」は治せるが,「誤嚥」は繰り返し起こる
 3 「誤嚥性肺炎 負のサイクル」の実際
 4 誤嚥性肺炎を起こさなくすることもできる─口腔ケアの威力
 5 診療ガイドラインにおける口腔ケアの扱い
 6 さあ,誤嚥性肺炎予防に取り組もう
第2章 予防のために,誤嚥と誤嚥性肺炎を理解する
 1 「食べる」と「息する」の流れ
 2 ムセない誤嚥である不顕性誤嚥と胃食道逆流
 3 肺炎とは結局どういうこと?
 4 誤嚥+肺炎=誤嚥性肺炎?
 5 多様な細菌が棲む口の中
 6 誰もが自分で歯を磨けるのか?
 7 口腔ケアだけに頼らない誤嚥性肺炎予防もある
 8 誤嚥性肺炎発症のまとめと予防の方向性
第3章 「口にかかわるすべての人」で取り組む誤嚥性肺炎予防
 1 患者さんの状態を見極めよう
 2 誤嚥性肺炎予防でチェックするポイント
 3 誤嚥性肺炎を起こさない口と喉と身体づくり
 4 誤嚥性肺炎の早期発見と早期治療
 5 専門的な口腔ケアについて
 6 誤嚥性肺炎はフレイルやオーラルフレイルともつながる
第4章 誤嚥性肺炎予防の,その先
 1 誤嚥性肺炎予防を続ける意味
 2 平穏死のための誤嚥性肺炎予防
 3 生まれてから死ぬまで,口に関わり続ける

 Column
  多職種連携の実際─口腔ケアネットワーク(三島)
  肺炎の実際
  災害時にも誤嚥性肺炎が起きる
  肺炎のコスト,口腔ケアのコスト
 文献一覧
 誤嚥性肺炎予防の事例集
  私たちの誤嚥性肺炎予防の取り組みと成果
   ─急性期病院(寺中 智)
   ─高齢者施設(今泉克美)
   ─在宅(今泉克美)
   ─在宅(文字山穂瑞)
 まとめと謝辞