やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

序にかえて
 石井拓男
口腔と全身の健康
 1996(平成8)年に8020運動が始まってから8年,口腔と全身という切り口で一つの大規模な厚生科学研究が始まった.この研究事業は,当時の厚生省厚生科学課,歯科衛生課そして国立健康・栄養研究所さらに日本歯科医師会,日本歯科医学会から構成された「口腔と全身の健康についての研究事業運営協議会(平成8年度)」を設置するという,かつてない規模と構想のものであった.
 この研究の総括主任となったのは,国立健康・栄養研究所長の小林修平であった.研究班の初めての報告書が,財団法人口腔保健協会から1997(平成9)年7月に「口腔保健と全身的な健康」として出版された.その巻頭に小林修平の「出版にあたって」がある.それをみると,本書の「かかりつけ歯科医のすすめ」が1996年から10年以上の年月をかけた大規模な研究活動の成果であることが理解できる.
 「歯の健康状態や咬合の状態と全身の健康との間に深い関係のある可能性については,かなり以前から専門家の間のみではなく,広く一般の間でも話題となっていたが,伝統的ともいえる医科の世界と歯科の世界との,どちらかといえば疎遠な関係といったこれまでの状況下で,大規模な組織的研究体制が組まれたことは無かった」として,小林は医科と歯科の研究における連携がこれまではなく,この厚生科学研究が空前のものであることを明らかにしている.次いで,
 「しかし,わが国における急速な高齢化社会の到来と医療費の増大という昨今の情勢は,予防医学の重要性とともに健康科学の新たな局面の開拓の必要性をもたらすこととなった」というように,健康科学の新たな局面として口腔と食と健康の関係を見直す必要が生じ,厚生省としても初めてのプロジェクトが実現することとなった経緯を説明している.
 この研究をマスメディアも注目した.1996年7月6日の朝日新聞夕刊1面に,「かむ能力高ければ全身丈夫に?」という見出しで「歯と健康,本格調査へ」「厚生省,秋にも研究班」と大きく報道されている.そこでは「むし歯,歯周病などの歯の病気や,噛み合わせが悪かったりすることが,脳や内臓,手足の病気などと関連があるのではないかと,厚生省はかむことと全身の健康との関係を調べる研究に初めて本格的に取り組むことをきめた」ことを記載している.
 この研究班は,スタート時に学際的なワークショップを開催した.そこで取り上げたテーマは下記のとおりであった.
 1.歯科からみた咬合治療の展開
 2.口腔と運動機能
 3.口腔領域における宿主抵抗性因子の研究
 4.医科からみた咬合治療の展開
 5.口腔機能と脳神経の相互作用
 6.口腔領域から派生する各種疾患
 7.口腔と全身の健康に関する調査研究(1)
  ・インスリン非依存型糖尿病患者における口腔内症状に関する研究
  ・口腔疾患と代謝疾患の関連に関する研究―糖尿病患者における口腔疾患の合併と病態
  ・成人歯科健診でみられる全身状態に関連した口腔症状―歯の喪失と消化管疾患および降圧剤由来の歯肉増殖
  ・学力と顎力
 8.口腔と全身の健康に関する調査研究(2)
  ・高齢者の咀嚼機能と全身状態との関連性
  ・地域高齢者の咀嚼能力と生活活動能力との関連性
  ・口腔保健活動による行動変容と医療費の変化
  ・咬合状態に起因する他臓器異常の疫学的研究を実施するための咬合評価指標の必要性―高齢者の口腔健康状態と全身健康との関連性
 その他,基礎的な研究も課題としてあげられ,検討された.
8020者のデータバンクの構築
 上記の研究課題のほかに,この厚生科学研究班が行ったのは「8020者のデータバンクの構築」であった.研究に携わった森本基は,このデータバンク構築について,WHOの提示した口腔保健の推移を監視するためのデータベースシステムを確立することの必要性から,1996年度に8020データバンク構築事業委員会を作り,全国の自治体,大学,歯科医師会などから8020関係のデータ収集を試みた.しかし,口腔診査票の不統一などの問題点が生じたためデータバンク構築に支障があったとした.さらに森本は,8020運動を推進するにあたり,厚生労働省の歯科疾患実態調査では80歳のサンプルは37人でしかなかったという状況を示したうえで,1997年から厚生科学研究で全国の80歳の口腔状況と健康状況を調査し,全国統一のデータすなわち8020者のデータバンクを作成することとなった,としている3).
 この調査は,1917(大正6)年生まれの人だけを対象とし,わが国の気候風土などを勘案して,岩手,福岡,新潟,愛知の4県で実施された.調査期間は,1997年9月13日から翌1998年11月8日までの1年2カ月ほどを要した.
 調査内容は口腔内診査にパノラマX線撮影を加えた.そのため全調査地にX線撮影装置を装備した車を搬送した.さらに生化学的診査と運動能力のチェックも行った.調査した80歳の人は2,124人であった.おそらく,80歳に限ったこれだけの人数を調査した例は世界的にもまれなものと思われる.このような,高齢者を対象とした学際的な研究であったことから,歯科医学だけでなく,医学,運動科学,栄養学といった広い領域から関心を持たれることとなった.
 8020者のデータバンク構築のための調査であったが,新潟では,70歳のコホート研究も実施された.調査開始時点で70歳の人を,その後連続して毎年調査するというものであった.本書にあるように,この研究が大変貴重な結果をもたらすこととなったのである.
研究の進展と波及
 1989(平成元)年に始まった8020運動は,高齢社会に歯科保健医療を位置づけることに一定の成果をもたらした.1996年に始まった上記の厚生科学研究も8020運動のもたらしたものであった.さらに,この研究成果を保存蓄積し,より一層の進展を期すために財団を創設すべきという考えが日本歯科医師会に芽生えた.それが2000(平成12)年の8020推進財団の誕生となって実現したのである.
 口腔の機能とほかの臓器,いわゆる全身的な疾病や健康についての研究はこの時期を境として急速に進展した.時をほぼ同じくして,1991(平成3)年に新聞が,東北大学医学部老人科教授の佐々木英忠の,老人の肺炎は誤嚥によるものであり,口腔清掃と食後に上体を起こしておくことで予防できるという研究成果を発表した.いわゆる口腔ケアの重要性が,医科の領域から発信されたのである.佐々木英忠の研究に参加した歯科医師により,口腔と健康についての研究はさらに進展した.本書にもその一端が紹介されている.
 1995(平成7)年岩手県歯科医師会が企画したヘルスパイオニア事業のシンポジウムで,国保加入者の80歳の人の年間医療費と歯の数との関係を研究した報告があった.8020者は,そうでない者と比べ年間医療費が有意に少ないという研究結果であった.この研究はその後全国の国保診療所の共同研究として実施され,同様の結果を得ている.さらに,全国で8020者とそうでない者の医療費の比較がなされ,本書に示したようにことごとく8020者の医療費が少ないという結果となった.
 8020者は健康であり,歯の数や口腔の正常な機能は高齢者の健康と密接に関係する.このことはほぼ間違いのない事実である,という確信が歯科界に広まってきた.さらに,高齢者の歯が多いという状況はそこに歯科保健医療の介入があるため,ということも容易に推察されたのである.このことを明確に立証したのが,星旦二の研究であった.かかりつけ歯科医を持つ人は長寿であるという事実が確認されたのである.この研究は本書の主要な部分を占めている.
口腔と全身の研究の先にあるもの
 昭和の時代は,う蝕とその継発症への対応で終始した歯科界であった.う蝕対策に邁進するだけで歯科界は十分使命を果たし,国民も納得していたものと思われる.一方で,う蝕とその継発症対応の時代は,歯科完結型の時代であった.歯科医療について,医師や看護師が口を挟むことはほとんどなかった.関心がなかったともいえよう.歯科のことはよくわからないので,というのも正直なところのようであった.小児う蝕の蔓延と歯科患者の増加は国会でも取り上げられ,文部大臣が答弁にあたる一幕もあった.う蝕そのものが社会問題となり,歯科保健医療が国家的な問題となったが,それは歯科医師をはじめとする関係者がきちっと対応するべきことと認識されていたと思われる.
 昭和の末期,う蝕とその継発症への対応にメドがみえ,ようやく一息ついた歯科界に,高齢化社会の到来に対するわが国の懸念が影響しだした.歯科完結型からの脱却が,歯科界に求められたのである.
 ヨーロッパでは,う蝕の減少とともに歯科医師養成を減じ歯科界を縮小したが,それとは異なるのがわが国の歯科界のようである.高齢者の抱える問題と歯科保健医療が密接に関係していることから,わが国では医科歯科連携をはじめ各方面との連携機能を持った新しい形の歯科保健医療も必要とされるようになると思われる.このことは,世界でもまれな長寿と数の高齢者を抱えるわが国特有のことのようであるが,口腔と全身という課題は世界共通のものであり,今後の歯科保健医療の研究と現場に普遍的なものと思われる.特殊な事情のわが国が,他国に先んずることができたのであろう,という推測はあながち間違ってはいないようである.
 序にかえて(石井拓男)
BOOKI かかりつけ歯科医の必要性
 Chapter1-かかりつけ歯科医と生存維持(星旦二,田野ルミ)
  はじめに かかりつけ歯科医と生存維持 生存維持に役立つかかりつけ歯科医機能と関連要因メカニズム 2008年かかりつけ歯科医受診者2,800人の調査結果 かかりつけ歯科医の実態 かかりつけ歯科医とは おわりに
 Chapter2-かかりつけ医とかかりつけ歯科医の制度上の問題(石井拓男)
  はじめに かかりつけ医,かかりつけ歯科医と制度 歯科とかかりつけ かかりつけ歯科医 医療法改正で新たに定められた医療計画とかかりつけ歯科医 おわりに
 Chapter3-国民の歯科医療に対する意識調査(恒石美登里)
  はじめに 歯や口の中の悩みや気になること(自覚症状の有無)は増加している! 歯や口の中の悩み事の内容 歯科受療の状況―この1年間に歯科で診療を受けたかどうか 歯科診療所を選ぶ理由 おわりに
 Chapter4-歯の健康と医療費の関連(恒石美登里)
  はじめに 兵庫県 香川県 山梨県 茨城県 北海道 長野県 島根県 おわりに
 Chapter5-食育の試みと必要性(武井典子,石井拓男)
  はじめに 学齢期の食育の必要性―小学生の咀嚼と肥満に関する研究からわかったこと 学校における食育の試み―今後の学校歯科保健における食育の提言 成人期の食育の必要性―就業者の咀嚼と肥満に関する研究からわかったこと おわりに
BOOKII 歯・口腔と全身の健康の関係における医学的根拠
 Chapter1-歯数と寿命(深井穫博)
  はじめに 歯がなくても生きられるか 15年間の追跡調査―宮古島スタディ 歯を失うと早く亡くなる 多数歯を失った人の死亡原因 歯を失っても義歯によって生命予後は改善される 歯の喪失と身体的不調との関係 歯の保存状況の改善と平均寿命の延伸 おわりに
 Chapter2-歯の数・咀嚼機能と寿命の関係(安細敏弘)
  はじめに 先行研究について―歯の数と寿命についての研究 歯の数・咀嚼機能と寿命の関係を説明する2つの説 福岡県8020コホート調査研究から―咀嚼機能と死亡との関係 おわりに
 Chapter3-歯の数・口腔機能と健康(葭原明弘,宮ア秀夫)
  はじめに 歯の本数が多いほど,総医療費が低い 歯の喪失原因はう蝕と歯周病である 歯の健康状態と全身健康状態の関連 おわりに
 Chapter4-歯周治療と糖尿病(片桐さやか,新田浩,金澤真雄,井上修二)
  はじめに 糖尿病と歯周病 おわりに
 Chapter5-現在歯数と栄養素・食品群摂取との関係(若井建志,内藤真理子,内藤徹,小島正彰,中垣晴男,梅村長生,横田誠,花田信弘,川村孝)
  歯科医師を対象とした歯と全身の健康,栄養との関連に関するコホート研究―歯科医師自らのエビデンス発信を目指して 歯科医師を対象としたコホート研究 歯科医師集団では確かに一般住民よりも現在歯数は多い 歯科医師集団にあっても,重要な栄養素・食品群の摂取量は現在歯数が多いほど多い ご飯と菓子類は現在歯数が少ない人でむしろ摂取量が多い
 Chapter6-咀嚼と栄養摂取(安藤雄一)
  はじめに 歯の喪失は咀嚼能力の低下を招く 食品・栄養摂取は歯の喪失・咀嚼能力と強く関連する 糖尿病の人は歯の喪失が進んでいる 一般的な歯科治療も糖尿病対策(食生活対策)の礎となる
 Chapter7-歯周病細菌の臓器疾患への影響(田中宗雄,小野高裕)
  歯周病と全身疾患 細菌および炎症メディエーターの入り口としての歯周ポケット 歯周病は動脈硬化とメタボリックシンドロームのリスクファクター 歯周病細菌が主役となる動脈硬化発生経路 歯周病とメタボリックシンドロームの相乗効果 口腔健康を多面的にとらえてメタボリックシンドロームとの関係を探る
 Chapter8-誤嚥性肺炎予防とかかりつけ歯科医の役割(米山武義)
  はじめに 高齢者における誤嚥性肺炎の発症機序 口腔ケアの意味するもの 口腔ケアが咽頭細菌数に及ぼす影響 口腔の刺激による嚥下反射の改善 継続した口腔ケアと誤嚥性肺炎予防に関する検討 誤嚥性肺炎予防の戦略 “ 安全に口から食べること”を支える地域ネットワークの重要性 おわりに
 Chapter9-歯科治療介入と高齢者のQOL(内藤真理子,加藤友久,尾関恩,横山通夫,才藤栄一)
  研究の背景 研究の対象と方法 研究の結果 考察
BOOKIII 地域におけるかかりつけ歯科医の活動
 Episode1-かかりつけ歯科医師のすすめ(新田國夫)
  医師も口腔の観察が必要になった 介護予防で重要なのは食を楽しむ支援 経管栄養・PEGと誤嚥性肺炎 摂食・嚥下機能評価の共有と連携 摂食機能の実態調査と地域としての課題
 Episode2-脳梗塞後遺症による左片側麻痺高齢者への支援(大川延也)
  はじめに 症例:脳梗塞後遺症による左片側麻痺
 Episode3-残された健康生活への支援(佐々木勝忠)
  残された健康生活 噛めないものがある高齢者は低栄養になる 症例1:肺炎で入院した低栄養患者と口腔 症例2:歯科治療によるQOLの改善症例 症例3:認知症患者への義歯の装着 歯科がNSTにかかわる必要性 症例4:ターミナルケアにおける口腔ケアの必要性
 Episode4-かかりつけ歯科医と心の医療(米山武義)
  はじめに これからの歯科医療人に求められるPOHCの考え方 幸せと幸福感 心が開けば,口が開く口が開けば,心が開く 心に響く一言―小さな配慮や気遣いが,安心感を与える リハビリテーション医からかかりつけ歯科医へ 生きる意欲を引き出す歯科医療
BOOKIV 研究の歩みと今後の展望
 Chapter1-健康寿命延伸のためのメカニズムを解明する(花田信弘)
  厚生労働科学研究「口腔保健と全身的な健康状態についての研究」 危険状態とは 最新の厚生労働科学研究報告書と共通危険因子 新潟スタディーと栄養 吹田研究と栄養 歯科医師調査と栄養 国民健康・栄養調査 共通危険因子アプローチの重要性 今後の展望
 Chapter2-日本歯科医師会にとっての“かかりつけ歯科医”(池主憲夫)
  はじめに “言葉“ としての“かかりつけ歯科医” 歯科医師会と“かかりつけ歯科医“の出会い 歯科にとってプライマリケアとは “かかりつけ歯科医”の現状 おわりに