やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに
 “Tooth Wear“には決まった日本語訳がまだありません.筆者は「歯質消耗症」と訳すことも考えたのですが,英語のままの病名が徐々に認知されはじめているため,そのまま“Tooth Wear”としました.歯が靴底のようにすり減り,氷のように溶ける進行性の疾患という意味で使われます.
 さて,新型コロナウイルス感染症対策のための受診抑制とストレスの増加は,Tooth Wear患者さんの増加を引き起こしました.マスク着用の習慣は口呼吸による口腔乾燥と,口唇の運動不足による唾液の循環不良をもたらし,Tooth Wearの悪化を招きました.こういった状況も背景にあってかTooth Wearへの認知が高まり,第32回歯科衛生士国家試験では,全220問中2問もTooth Wear関連の問題が出題されました.
 本別冊では齲蝕や歯周病とはまったく異なるアプローチが必要なTooth Wearという疾患について,20年にわたる経験と毎日10名近くの患者さんを治療することで得られた知見を,多くの口腔内写真と具体例を示して,歯科衛生士の皆さんにお伝えしたいと思います.
 私は神奈川県の田舎町,高座郡寒川町で,相模線というローカル線の駅から25分も歩く不便な場所で歯科医院を開業して40年になります.20年ほど前から,Tooth Wearのなかでも特に重症化しやすい酸蝕に注目して,その予防と治療に取り組んできました.特にその修復においては,齲蝕がなく歯が溶けたりすり減ったりする疾患なのだから,健康な歯質を切削するべきではないという方針を一筋に貫いてまいりました.
 数年前からはその方法が認知されはじめ,とても不便な立地にもかかわらず,北海道や沖縄の離島から,さらには海外からもTooth Wearの改善・治療を主訴に患者さんが来院されます.東京や大阪といった,歯科医院が多い大都市からも来院されるので,どうしてお近くの歯科医院で治療をされないのかと尋ねると,(1)治療はできない,(2)治療をする必要はない,(3)歯を削ってクラウンを被せる治療方針を示されたからと,多くの患者さんは口にします.残された健康な歯をどうしても削りたくないと思い,健康な歯を削らないでTooth Wearを治すという治療方針の歯科医院をインターネットで探して,何件も歯科医院を受診したあげく,最終的に当院にたどり着いたそうです.受診したなかには,Tooth Wearについてあまり理解がないと患者さんが感じられた歯科医院も多いようです.
 その理由として,現状の歯科教育ではTooth Wearについてまとまった授業が少なく,さまざまな背景を抱えた実際の患者さんについて,正確で十分な説明や指導が受けられる機会が少ないことが考えられます.さらに,治療法も従来の支台歯形成,印象採得,修復物装着という流れ,つまり,齲蝕治療と同様の治療が実際の臨床現場の主流になっています.しかし,齲蝕と違って細菌感染による疾患ではないのですから,歯質切削はできるだけ避けるべきです.多くの患者さんも歯を削らないで治してもらいたいと願っています.
 さらに,Tooth Wearの原因には心理的・社会的な要素が大きくかかわっているため,とても繊細な患者さんが多く,治療するうえでは特別な配慮が必要です.患者さんの期待に十分に応えられないと転院を繰り返し,Tooth Wearの進行を抑制できないばかりか,患者さんの日常生活への影響も大きくなります.
 本別冊では,Tooth Wearの早期発見,予防と対応,治療説明まですべてをご理解いただけるようにまとめました.特に歯科衛生士が指導を行ううえで大切にしてほしい,患者さんの精神面や経済面にも配慮した内容にしてあります.Tooth Wearはスケーリングなどのような技術の修練や熟練よりも,「知識」が対応の決め手となる疾患です.本別冊を読んでいただいた方なら,新卒の方でもTooth Wearに精通した,患者さんの心に寄り添える歯科衛生士になれるはずです.
 患者さんがどの歯科医院に行っても,Tooth Wearの早期発見と適切な対応をされ,重症化せずに進行防止のための十分な指導と最適な治療を受けられるようになることを願っております.
 2024年10月
 神奈川県高座郡・西村歯科医院
 西村耕三
CHAPTER 1 Tooth Wearを紐解く
 1.Tooth Wearの定義と種類
 2.Tooth Wearの頻度と特徴
 3.齲蝕と酸蝕の違いと共通点
 4.NCCL(非齲蝕性歯頸部歯質欠損)とアブフラクションの関係
 5.歯科衛生士が知っておきたい! Tooth Wearにおける治療の考え方
 6.Tooth Wear患者さんに勧めたい製品の例
CHAPTER 2 Tooth Wearの理解と対応
 1.Tooth Wearを加速させる要因
 2.食事指導
 3.生活指導
 4.口腔衛生指導
 5.ドライマウスへの指導・対応
 6.スポーツ,職業,食習慣別のリスクと指導
 7.持病によるリスクと指導
CHAPTER 3 臨床におけるTooth Wear
 1.Tooth Wearにおける歯科医師の役割・歯科衛生士の役割
 2.Tooth Wear早期発見のポイント
 3.Tooth Wear進行度(TW1〜5)に応じた対応と指導
CHAPTER 4 症例で学ぶTooth Wear
 症例(1)フルーツ好きの患者さんのTooth Wear
 症例(2)ボート部員の酸蝕症
 症例(3)消防士のTooth Wear
 症例(4)NCCLと咬合力の関係
 症例(5)摂食障害患者さんの審美改善
 症例(6)笑顔がつくれない患者さん
 症例(7)義歯不適合の原因となったTooth Wear
 症例(8)摂食障害により酸蝕を発症した30歳女性柔道選手
 症例(9)原因不明の歯の短縮を訴えた28歳女性
 症例(10)矯正治療中の不均一なTooth Wear
 症例(11)摂食障害により酸蝕を発症した18歳女性
 症例(12)複雑な心理に揺れる,反芻習慣をもつ患者さん
 症例(13)アルコール依存症と摂食障害
 症例(14)摂食障害に起因する重度のTooth Wear

 Column
  舌側に象牙質露出が多くみられる理由
  治療後に補綴物が脱離しやすい?
  歯磨剤やPMTC用ペーストのRDA値
  ハイリスク患者さんへのセルフケア指導
  無糖の炭酸水でも酸蝕になるの?
  Tooth Wearにつながる健康習慣をもつ患者さんへ指導することの難しさ
  喫煙とTooth Wearの関係は?
  運動とスポーツドリンク
  うがい用重曹水の作り方
  Tooth Wearにおけるマウスガードの利用
  スポーツ競技者と摂食障害
  チーズが齲蝕や酸蝕の予防になる?
  酸蝕になりやすい職業のかつてといま
  ベジタリアンとTooth Wear
  Tooth Wearにおけるメール相談の利点
  患者さんの心を大切にする新概念“Advanced MID”とは
  クイズ! 酸蝕リスクが高いのはどっち?
  切縁の透明感と酸蝕恐怖症
  ペットボトルシンドロームにご用心
  マウスピース矯正による酸蝕のリスク
  Tooth Wearと象牙質知覚過敏症の関係

 Supplement
  酸蝕歯の治療と患者さんの気持ち
  メインテナンスにおけるPMTCとPCTE

 Episode
  私のTooth Wear
  タダより高い物はない
  定年退職後男性の歯の審美性の考察