やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに
 近代がもたらした重要な概念としての“健康”は,科学と,医学・医療技術・医療システムの進歩,それらに裏付けされた公衆衛生の充実,それらをシステムの一部とする近代国家,国際社会の充実とともに発展してきた.現在の日本人なら誰もが健康の重要性を疑わないまでに,健康の価値は当たり前になっている.
 しかし,健康について少し深く考えようとすると,その掴みどころのなさに気付かされる.多くの人達は健康を意識しながらも,あまり健康的でない生活を送っている.それは,疾病リスクにはトレードオフがあり,疾病リスクや死亡リスクをゼロにすることは不可能であることに由来している.そもそも私たちは生まれた時から死ぬことが宿命づけられているわけであって,死を先延ばしさせ,生きている時間の活動性を増やし,苦痛を最小化させることしかできない.種のレベルでいえば,ホモ・サピエンスもいずれは絶滅するだろうが,それを先延ばししたいと願っているだけである.日本は栄養状態,衛生状態,労働状態も良くなり,疾病リスクと死亡リスクを低下させることに成功した.しかし,多くの国ではまだ,健康に対するリスクは大きい.20世紀に考えられていた以上に,人びとの健康状態や衛生状態を向上させることが困難であることが明らかになってきた.
 現在の健康観は,西洋の生物医学の影響を強く受けている.その特徴は,自然や社会からヒト個体を独立させ,さらに臓器,細胞といった人体の下部に疾病の原因を模索し,要素還元的な疫学によって単独の原因(病因)を探ろうとする.この方法は大いなる成功を収めてきた.しかし,それはすべてではない.健康を成立させる要因はほぼ無限といってよいほど存在し,それらは相互に複雑に連関している.生物はその環境から孤立して生きているわけでなく,システムとして生かされている.人間もインディペンデントな存在ではなく,インターディペンデントな存在として生態系,環境,社会の中で存在している.
 こう考えると,医学とそれに基づく公衆衛生だけで健康を語るのは,如何にも不十分なことがわかる.私たちの健康が環境や社会に依存している以上,多くの学問から健康の成立ちを考えていく必要がある.エコヘルスという言葉は,そのような健康の再定義を明示する上で有効だと考えている.
 このような健康概念の再定義は,グローバルにも,ローカルにも色々な形で進行している.ポール・ファーマーらは,グローバルヘルスのイメージを再構築するものとして,バイオソーシャルな視点の重要性を指摘している(西本,17章).それは,貧困や差別など健康の社会的決定要因への注目や,社会疫学分野の発展とも関連している.また,地域レベル,地球レベルの環境問題が重要な健康決定要因となり,地域と地球の繋がりが意識されるようになった.これらの社会や環境・生態系の健康影響は集団としての影響であり,20世紀に生活習慣病とともに広まった「健康は個人の責任」という考えでは対処できない地域集団,あるいは人類全体の共通課題となった.現在では,地球のサステナビリティを考慮したプラネタリヘルスへの関心も高まっている.
 グローバルヘルスやプラネタリヘルスと並べてみると,エコヘルスは地域の生態系とそこに構築された社会と文化に着目する点に特徴がある.地域の人びとの健康は,その地域の社会・生態システム(social ecological system)と不可分であり,その産物だと考える.だからこそ,その地域の人びとの健康を守り,向上させるために,健全な社会・生態システムが必要だと考える.
 そもそもエコヘルスの原型はどこの社会にも,近代的な健康思想が入る前から,不十分ながら存在していたに違いない.しかし,急速な近代化はそれを忘れさせ,機能不全に陥らせてしまった.本来は近代化の過程で融合が図られるべきだった.地域ごとにあるエコヘルスの原型をうまく活用・復活させることが,より効果的で民主的な健康増進に繋がるだろう.これは,地域の多様性を尊重したうえで,グローバルヘルスやプラネタリヘルスをよりボトムアップに構築しようとするものである.エコヘルスは地域再生にも繋がっている.
 本書で示すように,エコヘルスは多くの学問領域が参加してはじめて成り立つ領域である.今回は多くの執筆者に自分の学問領域からみたエコヘルスを書いていただいたが,それぞれの領域においてエコへルス研究を発展させる可能性は無限に近く感じられる.また,ここにはあがっていない多くの分野においてエコヘルス研究が可能であり,必要であると考える.それぞれの執筆者によりエコヘルスの捉え方に幅はあるものの,本書はエコヘルスがひとつの総合領域になる可能性を示していると考えたい.
 本書は,週間「医学のあゆみ」Vol.248 No.12〜Vol.250 No.11に“エコヘルスの視点”と題して計16回にわたり連載された論説に,あらたな2章(第9章東城および第17章西本)を加え,総括したものである.「医学のあゆみ」における連載においては,各稿をそれぞれの筆者にタイトルに従う限り自由に執筆いただいた.したがって各章は本来,独立した原稿として書き上げられたものであったが,今回すべての章を一冊の書籍としてまとめるにあたって,より議論の流れを分かり易くするために各章をいくつかのパートに振り分けることにした.
 本書では全体のイントロダクションにあたる第1章と第2章の後,その他の章を下記の基準にしたがって4つのパートにわけている.第1部では,アジア各国に蔓延する寄生虫症に対し,エコヘルス・アプローチのなかでもとくに近隣環境に介入するタイプの様々な研究・施策がどのように有効であるかを説明する.
 つづく第2部では,近年注目を浴びている空間情報技術をエコヘルス研究にどう活用できるかについて事例を紹介する.第3部ではエコヘルスの概念に基づいた教育という視点から,個人への介入策のあり方について説明する.最後の第4部では,視点をより巨視的(マクロな)観点によるものにうつし,ある国やコミュニティ全体の人口,人々の栄養,さらに文化的・生物学的適応といった人類史的要素がどのようにエコヘルスと結びついているかを論じる.
 ここに収録した論文の多くが,総合地球環境学研究所“熱帯アジアの環境変化と感染症(略称:エコヘルス)”プロジェクトと,文部科学省・環境エネルギー課“グリーンネットワークオブエクセレンス・環境情報分野・健康領域プロジェクト”の成果に基づいている.両プロジェクトを支援していただいた関係各位に感謝したい.また,日本語での著作のため,海外の協力者が著者に入っていないが,現地の方々の協力なくしては本書は成り立たなかった.この場を借りて感謝申し上げたい.
 2014年12月
 門司和彦 安本晋也 渡辺知保
 はじめに(門司和彦・安本晋也・渡辺知保)
総論
 1.エコヘルス:健康転換後の健康像(門司和彦・渡辺知保)
  ・近代化と近代医学が健康転換をもたらした
  ・途上国でみられる健康転換の遅延
  ・近代化と近代医学の限界
  ・環境劣化への対処
  ・より統合的なエコヘルスへ
  ・エコヘルスの方法
  ・エコヘルスの多様性を束ねたグローバルエコヘルスへの展望
 2.エコヘルスをめぐる世界の動向(ハイン・マレー)
  ・エコヘルスの三大潮流
  ・生態系のなかでの人間の健康
  ・ワンヘルスの挑戦
  ・『エコヘルス』誌の動向からみたエコヘルス研究
第1部 近隣環境を対象としたエコヘルス・アプローチ:アジアにおける寄生虫症対策の事例
 3.歴史研究とエコヘルス(福士由紀)
  ・狩猟採集から農耕へ
  ・文明と疾病
  ・開発と疾病
  ・近代医学と帝国医療
  ・東アジアの近代と健康観の変化
  ・戦後東アジアにおける日本住血吸虫症対策
 4.寄生虫学からみたエコヘルス―タイ肝吸虫を例に(サトウ 恵・マルセロ・オオタケ・サトウ)
  ・寄生虫学は生態学である
  ・エコヘルスのなかでの寄生虫
  ・ラオスにおけるタイ肝吸虫Opisthorchis viverrini,宿主,そして環境
  ・タイ肝吸虫の感染予防とその実際
  ・エコヘルスからみた肝吸虫対策
  ・環境の変化と寄生虫感染症への影響
 5.生態学からみたエコヘルス―稲作栽培様式の近代化に伴う水田生態系と感染症リスクの変容(神松幸弘・他)
  ・方法
  ・結果
  ・考察
  ・展望
 6.人類生態学からみたエコヘルス(蒋 宏偉)
  ・エコヘルス研究の実践:ラオスのタイ肝吸虫病研究
  ・エコヘルス研究における人類生態学研究手法の活用
  ・エコヘルス研究からの収穫
 7.環境DNA:エコヘルス研究の新しいツール(源 利文)
  ・環境中のDNAで大型動物の在/不在がわかる
  ・DNA量を測定することでバイオマスもわかる
  ・水を汲むだけで生物相が推定できるか
  ・従来の手法に対するメリット
  ・環境DNAはエコヘルスにどのように貢献できるのか
  ・タイ肝吸虫症とはどのような感染症か
  ・環境DNAでタイ肝吸虫の生態を知る
  ・本手法の応用可能性
第2部 空間情報技術を用いたエコヘルス・アプローチ
 8.都市の健康問題とエコヘルス(安本晋也・渡辺知保)
  ・都市の生態系
  ・都市の発展と健康
  ・都市が負の健康影響をもたらすメカニズム
  ・ダッカ市におけるヒートアイランド現象の事例
 【書き下ろし】9.ミクロとマクロをつなげること:地域研究からみたエコヘルス(東城文柄)
  ・地域研究からみたエコヘルス
  ・エコヘルス・プロジェクトにおける取組み:森林生態調査とRS/GIS
  ・バングラデシュにおける内臓型リーシュマニア症研究:広域の空間疫学情報構築のための調査手法
  ・地域研究の立場からのエコヘルス研究の今後
 10.衛生工学からみたエコヘルス(福士謙介)
  ・衛生工学の変遷
  ・地球環境と地域環境の変化に対応する衛生工学
第3部 エコヘルス教育にみる個人への介入策
 11.教育学からみたエコヘルス(朝倉隆司・友川 幸)
  ・エコヘルスと教育
  ・日本における環境教育,公害教育,保健科教育とエコヘルス
  ・学校教育にエコヘルス教育を取り入れるための課題
 12.エコヘルス教育と開発途上国における包括学校保健普及(小林 潤)
  ・FRESHを基盤とした包括的学校保健政策の策定
  ・感染症対策と包括的学校保健の普及
  ・包括的学校保健の政策実施
  ・エコヘルス教育と包括的学校保健
第4部 巨視的観点からみたエコヘルス:人口・栄養・文化的および生物学的適応
 13.人口学からみたエコヘルス(中澤 港)
  ・人口学とはどういう学問か?
  ・地球人口予測
  ・人口と環境の関係
  ・エコロジカル・フットプリント
  ・都市化と健康の重層的な関係
  ・都市環境の脆弱性
 14.エコヘルスの視点からみた母子保健―ラオスの事例から(奥村順子)
  ・人口動態指標の精度
  ・母子保健改善度
  ・保健・人口動態情報システム
  ・母子保健推進に影響を及ぼす要因
  ・疾病罹患にかかる定義と概念
  ・近代医療サービスによる健康推進の限界
 15.疫学からみたエコヘルス―開発途上国における地域住民登録追跡システムと最新技術(金子 聰)
  ・疫学からエコ疫学へ
  ・エコ疫学と開発途上国
  ・開発途上国におけるエコ疫学研究のハブとなるHealth and Demographic Surveillance System(HDSS)
  ・日本発HDSSの試み
  ・静脈認証システムの導入:エコ疫学のためのHDSSのハブ化に向けて
  ・システム構築からエコ疫学へ
 16.食と栄養生態学とエコヘルス(夏原和美)
  ・食と栄養生態学とエコヘルス
  ・環境中から食物を手に入れるための生態学的諸条件(栄養生態学の考え方)
  ・地域ごと,生態系ごとの“自然の条件”の多様性の重視
  ・食をめぐる技術革新のスピードへの対応が迫られている
  ・栄養生態学とエコヘルス研究
  ・人間の健康は多様な生態系がそれぞれ健康であることによって成り立つ
 【書き下ろし】17.社会人類学からみたエコヘルス(西本 太)
  ・社会人類学とはなにか
  ・人間の文化と社会:基本的な考え方
  ・エコヘルスによって開かれる展望
  ・病気に対する住民の認識
  ・健康のもつ意味
  ・エコヘルスとしての自然と社会(文化)の統合と社会人類学の課題
 18.進化とエコヘルス(山本太郎・他)
  ・エコヘルスと健康の進化・適応的視点の位置づけ
  ・環境変化がヒトの健康に影響を与えた例
  ・病気に対する文化的適応とその影響
  ・病気に対する生物学的適応あるいは遺伝的適応

 サイドメモ目次
  健康転換と人口転換
  Caruso
  アジア新興感染症研究パートナーシップ
  Neglected tropical diseases(NTD)
  環境DNA
  ラオス中南部の森林景観
  集団検診におけるGPSロガーと電子質問票の導入
  開発途上諸国における健康/環境教育
  エコヘルスとESD
  コウホート要因法について
  交絡(confounding)と効果修飾(effect modification)
  栄養生態学的諸条件の解説