やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに
滋賀医科大学医学部薬理学教室 岡村富夫
 一酸化窒素(nitric oxide:NO)に関する研究はかなり以前から行われていたが,医学との関連については循環器系の研究に端を発するといっても過言でない.ひとつは Muradによる NO自身の強力な血管拡張機序に関する研究であり,それが狭心症治療薬であるニトロ系血管拡張薬の NOドナーとしての再評価につながった.さらに,Furchgottによる内皮由来血管弛緩因子(EDRF)の発見は,内因性 NOの存在とともに,その生物学的な重要性を解明する契機となった.Furchgottとともに EDRFが NOであることを薬理学的に証明した Ignarroを含めた3氏が,“循環器系における信号伝達分子としての NOの発見”という理由で1998年度のノーベル医学・生理学賞を受賞したのは周知のとおりである.現在では内因性 NOは循環系のみならず,神経系や免疫系など,生体のホメオスタシスを維持する重要なネットワークシステムのいずれにおいても,細胞間情報伝達物質として多彩な役割を果たしていることが明らかにされている.
 これまでに NO合成酵素(NOS)の同定,3 種の NOSアイソフォームの精製とそのクローニング,さらにはノックアウトマウスやトランスジェニック動物の作製など,生化学や分子生物学的な方法を用いた解析は確立した感がある.しかし,NOのもつ二面性を把握し,真に医療に役立つ成果が得られたかというと成功例は数えるばかりである.一般的には内皮型(eNOS)および神経型(nNOS)の NOSは構成型であり,その NO産生は種々の因子により調節を受けている.構成型 NOS(cNOS)により産生される NOは少量で,主として標的細胞の可溶性グアニル酸シクラーゼを活性化し,cGMPを介する作用を惹起することにより種々の生理機能に関与すると考えられている.血管内皮由来の NOによる血小板凝集抑制,血管拡張や抗動脈硬化作用,中枢神経系における記憶や学習機能,末梢神経系における NO作動性神経を介する平滑筋拡張作用などがこれにあたる.
 他方,炎症性サイトカインや細菌毒素の刺激により誘導される NOS(誘導型 NOS;iNOS)は多量の NOを産生し,活性酸素と反応することにより周囲の細胞に対して毒性を発揮する.iNOSによる NO産生は cNOSとは異なり細胞内 Ca2+による活性調節を受けず,遺伝子の転写段階で制御されている.したがって,本来は病原微生物や癌細胞を排除する機構として発達したと考えられ,cGMPを介する機序だけでなく,アポトーシスや蛋白質のニトロ化を介する機序が働くと考えられる.
 しかし,iNOS由来の NOはけっして非自己の細胞に対してのみ毒性を発揮するのではない.たとえば,細菌毒素により血管平滑筋で誘導された iNOS由来の多量の NOは,強力な血管拡張と過剰な透過性の亢進を生じ,エンドトキシンショックを誘発する.また,グリア細胞などで誘導された iNOS由来の NOにより中枢神経細胞の変性や脱落が生じることや,I型糖尿病などの自己免疫疾患でみられる細胞障害にも iNOSの関与が指摘されている.したがって,iNOS選択的な阻害薬の開発は以前からの懸案であるが,臨床応用が可能なものはいまだにつくられていない.In vitroや in situの実験レベルでは iNOSに対する高い選択性が得られても,薬物動態学上の問題を含め,in vivoでの有効性が乏しいものが多い.また,cNOSの生理的役割があまりにも重要なので,わずかな交差性でも用量によっては有害作用につながる可能性があり,臨床研究に対する逡巡が予想される.そのためか NOドナーや NOS阻害薬のように,NOの産生に直接影響を与える新規化合物の臨床応用は思うほど進展していないのが現状である.
 剤型や適用経路に対する工夫も重要ではあるが,臨床応用可能な真の選択性を有する iNOS阻害薬の開発には発想の転換が必要なのかもしれない.他方,cGMP分解酵素のアイソフォーム(ホスホジエステラーゼ5型)の組織局在性を利用して開発されたシルデナフィルは,多少の有害作用は認められるが,予想どおりの勃起持続作用が臨床的にも確認され,有用な ED(erectile dysfunction)治療薬として確立している.また,循環系では詳細な機序は不明であるが,eNOS mRNAを安定化することから,スタチン系の薬物やカルシウム拮抗薬が血管内皮機能の維持に役立つと考えられている.
 さらに,これまで精製した NOSでしか観察されないと考えられていたアンカップリングが,いくつかの病態で生じる可能性が報告されている.アンカップリングとは,NOSの二量体形成が不十分になるとドメイン間の電子伝達が障害され,NOSによるスーパーオキシド産生が生じる現象である.生活習慣病のひとつであるインスリン抵抗性状態の血管でみられる内皮機能異常と酸化ストレスの亢進がアンカップリングを是正するテトラヒドロビオプテリン(BH4)の投与で改善することから,BH4を含むプテリジン代謝経路も血管障害におけるあらたな治療対象となる可能性を秘めている.
 また近年,NOSの誘導形態や細胞内局在に関しては,当初考えられていたアイソフォーム間の区別がかならずしも当てはまらない例があることもわかってきた.NOのもつ二面性をよりよく理解するためにも,NO産生機構に関する個別の情報がますます必要になってきている.
 循環薬理を志向する立場から,序文としてはすこし循環系にバイアスがかかってしまったことをお許し願いたい.本書では循環器系だけでなく,神経系,消化器系,呼吸器系,泌尿器系,内分泌系ならびに免疫系において,病態と NOのかかわりに関する最近の知見をそれぞれの専門家にまとめていただいた.本書により病態生理への理解が深まるとともに,医療の分野における今後の NO研究の方向がみえてくれば幸いである.
 最後に,ご多忙にもかかわらず執筆を快くお引き受けいただき,貴重な時間を割いて下さった執筆者の先生方に深謝いたします.
別冊・医学のあゆみ NOと病態 目次
 Pathophysiology of nitric oxide(NO)
 Editor:Tomio Okamura

はじめに 岡 村 富 夫……1

■第1章 神経系
1.中枢神経変性疾患とNO 赤池昭紀……5
 Neurodegenerative disorders and NO
 ●Parkinson病と中脳黒質ドパミンニューロン死
 ●FCS由来神経保護活性物質セロフェンド酸の単離と化学構造の決定

2.NOのニューロン死制御―ミトコンドリアとカスパーゼの関与 野村靖幸……10
 NO-induced neuronal death with special reference to mitochondria and caspase
 ●NOのニューロンアポトーシス惹起機構
 ●低濃度NOのニューロン死抑制作用
 ●NOのニューロン死惹起機構

3.NOによる疼痛刺激伝導系の制御 上崎善規……14
 Regulation by nitric oxide in noxious signal transduction
 ●痛覚刺激伝導系の制御
 ●NOによる神経活動の制御

4.網膜神経細胞死におけるNOの関与 真鍋伸一・柏井 聡……19
 Involvement of nitric oxide in retinal neuronal death
 ●虚血とグルタミン酸
 ●グルタミン酸毒性とNO
 ●緑内障とNO

■第2章 循環器系
5.動脈硬化の病態におけるeNOS/NO系機能障害の役割 川嶋成乃亮……25
 The role of eNOS/NO system dysfunction in hyperlipidemia and atherosclerosis
 ●高脂血症・動脈硬化における内皮依存性血管弛緩・拡張反応
 ●NOと動脈硬化病変

6.インスリン抵抗性に伴う血管障害とNO 篠崎一哉・岡村富夫……29
 Role of nitric oxide in pathogenesis of insulin resistance syndrome
 ●インスリン抵抗性と心血管疾患
 ●インスリン抵抗性に伴う血管障害の分子病態

7.高血圧とNO 平田恭信……34
 Nitric oxide in hypertension
 ●本態性高血圧症におけるNO
 ●NOと高血圧の病態
 ●NOと高血圧・動脈硬化
 ●酸化ストレスとNO

8.NOからみた虚血性脳細胞障害 松居 徹……38
 Ischemic brain damage from a viewpoint of NO-induced neurotoxicity
 ●脳虚血後のNO産生系を中心とした脳細胞障害機構の解析
 ●脳虚血に伴うNO産生酵素の変化
 ●NOの細胞障害機構

9.NOと心血管病―最近の知見から 平川洋次・下川宏明……43
 NO in cardiovascular disease
 ●心血管系におけるNO研究の歴史
 ●冠危険因子とNO
 ●炎症性サイトカインとNO
 ●RhoキナーゼとNO

10.血管リモデリング―NOと動脈硬化 北本史朗・江頭健輔……47
 Vascular remodeling
 ●eNOSノックアウトマウスと血管リモデリング
 ●薬理学的NO産生抑制モデルと血管リモデリング
 ●血管傷害後リモデリングとNO
 ●今後の展望

11.NOと血管新生―心血管系における役割 勝田洋輔・今泉 勉……52
 NO and angiogenesis
 ●内皮の増殖・遊走におけるNOの役割
 ●VEGFによるNO産生とその情報伝達経路
 ●NOによる血管新生―その治療における可能性

12.人工赤血球 佐久間一郎・北畠 顕……57
 Artificial red blood cell
 ●人工赤血球としての無細胞性Hb修飾体
 ●Hb修飾体による血管収縮
 ●Hb修飾体の血管内皮細胞間透過性
 ●Hb修飾体による血小板凝集増強と消化管収縮性亢進
 ●SNO-HbとSNO-PEG-Hbの人工赤血球としての応用
 ●人工赤血球開発の現況と展望

■第3章 消化器系

13.NOと胃粘膜―NOの粘膜保護・修復促進作用と傷害誘起作用 竹内孝治……65
 Nitric oxide and gastric mucosa-mucosal protective,healing promoting,and proulcerogenic action
 ●胃腸粘膜におけるNO合成
 ●胃粘膜保護作用とNO
 ●NOの傷害誘起作用

14.炎症性腸疾患とNO-誘導型一酸化窒素合成酵素は治療標的分子となりうるか 内藤裕二・吉川敏一……70
 Inflammatory bowel disease and nitric oxide
 ●炎症性腸疾患におけるNO測定,iNOS遺伝子発現
 ●遺伝子欠損マウスを用いた成績
 ●特異的iNOS阻害薬とその効果
 ●NOによる大腸炎の抑制

15.ガスメディエータによる肝・門脈循環調節機構と病態 末松 誠……75
 Gaseous mediators as a new class of regulators for hepatoportal circulation
 ●肝におけるHO-CO系を介した臓器機能制御
 ●肝硬変症におけるHO-1誘導と門脈血行異常
 ●門脈圧亢進症とNO生成動態

16.Helicobacter pyloriの胃内生存戦略―NOの生体防御機能とH.pyloriの胃内生存戦略 朴 雅美・井上正康……80
 Bactericidal action of NO and survival mechanism of H.pylori
 ●胃内でのNO生成
 ●胃の感染防御機構
 ●胃潰瘍とNO
 ●H.pyloriの特徴
 ●H.pyloriの耐酸性機構
 ●H.pyloriのNO耐性機構

■第4章 呼吸器系

17.新生児NO吸入療法―新生児遷延性肺高血圧症の理想的な治療 鈴木 悟・戸苅 創……87
 Neonatal inhaled nitric oxide
 ●NO吸入療法とPPHN
 ●新生児領域におけるNO吸入療法の歴史
 ●NO吸入療法の実際
 ●わが国およびアメリカにおける新生児NO吸入療法の成績
 ●NO吸入療法と肺の病理
 ●成人領域におけるNO吸入療法
 ●NO吸入療法の将来

■第5章 泌尿器系

18.NOと腎疾患 今 西 政 仁……95
 NO in renal diseases
 ●腎におけるNOの合成酵素と局在
 ●NOと腎疾患

19.EDとNO 安屋敷和秀・岡 村 富 夫……101
 ED and NO
 ●NO作動性神経
 ●勃起のメカニズム
 ●EDの治療薬

■第6章 内分泌系
 20.1 型糖尿病とNO-NOによる膵β細胞破壊 永田正男……109
 Type 1 diabetes and NO
 ●1型糖尿病における自己免疫
 ●膵β細胞に対するNOの作用
 ●1型糖尿病モデルにおけるNOの役割

■第7章 免疫系

21.細胞内寄生菌感染とNO 土 屋 晃 介・光 山 正 雄……115
 Role of NO in infection with intracellular parasitic bacteria
 ●マクロファージ活性化とNO
 ●NOの感染防御における重要性
 ●サイトカイン産生およびTh1の分化にNOが及ぼす影響

22.気管支喘息とNO-NOの気道における生理と喘息病態への関与 杉浦久敏・他……120
 Involvement of nitric oxide in bronchial asthma
 ●肺におけるNOの産生と生理的作用
 ●肺疾患とNO
 ●気道炎症とNO

23.NOと発癌 澤 智裕……126
 Nitric oxide and carcinogenesis
 ●NOの代謝と活性窒素酸素種の生成
 ●NOと癌遺伝子・癌抑制遺伝子
 ●NOによる遺伝子損傷とその修復システムへの作用
 ●NOとアポトーシス
 ●NO生成に関連する遺伝子多型

24.一酸化窒素による癌細胞のプログレッション―NOと癌細胞のプログレッション 岡田 太……132
 Nitric oxide and tumor progression
 ●プログレッション過程における一酸化窒素(NO)の役割
 ●炎症を基盤とした発癌
 ●炎症を基盤とした癌細胞のプログレッションモデル

25.感染症の病態を操る分子:NO-感染症におけるNOの役割 赤池孝章……138
 NO in infectious diseases
 ●細菌感染とNO
 ●ウイルス感染とNO
 ●ニトログアノシンとニトロ化ストレスの発現

●サイドメモ
 セロフェンド酸(serofendic acid)……5
 カスパーゼの活性制御……10
 アロディニアと痛覚過敏,および
 そのモデル動物……14
 グアニル酸シクラーゼとcGMP……16
 アポトーシス促進性と抑制性情報伝達……20
 動脈硬化の発症機序……26
 NOと血管新生……35
 PARS阻害の意義……39
 NOにかかわる細胞障害機構……40
 冠微小血管攣縮性狭心症……44
 アンジオテンシンIIと動脈硬化・
 血管リモデリング……49
 アンギオスタチン……53
 ヘモグロビンと酸素親和性……57
 カプサイシン感受性知覚神経……66
 H.pyloriの遺伝的多様性……80
 血液シャントの原理……88
 尿細管糸球体フィードバック……97
 劇症(1)型糖尿病と緩徐進行型1型糖尿病……112
 ニトロ化とニトロソ化……128
 発癌・プログレッションの原因……132
 ニトロ化ストレス……141