やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

まえがき

 現代学生の理科離れが指摘されて久しい.特に,化学嫌いの学生が多いように思える.私の専門である生化学も医学生や看護学生から最も敬遠されている学問の1つのようである.確かに,同じ基礎医学分野でも生理学や解剖学の教科書は,初心者であってもある程度具体的なイメージを描きながら読み進めていくことができるのに対して,生化学の教科書は専門家である自分にとっても正直言って難解であり,面白味に欠けると感じる.
 その最大の原因は,生化学が実際には目に見えない極小の分子を対象にした学問であり,それを現実の生命現象に結びつけて具体的にイメージすることが容易ではないからだと思われる.また,分子の姿を化学構造式(専門家にとっては最も簡便・適切で,使いやすい記号ではあるが)で表わすことになじみにくさを感じることも一因かもしれない.学生の多くが原素記号で書かれた化学構造式や難解な専門用語の意味を十分に咀嚼できないまま断片的な知識をうのみにしている現状のように思われる.
 生化学を通してみた生命の営みもまた,極めて精緻であり合目的的であり,その神秘性に感嘆せずにはいられない.しかし,その現象があまりにも多様であり複雑であるため,その全体像を把握することは容易でない.特に,最近の分子生物学の目覚しい発展は,個々の生命現象のしくみをより詳細に解明するとともに,各現象相互の関連の複雑さを浮き彫りにし,ますます全体像を把握することが困難になっている.どんな学問であれ,分野であれ,初めに大まかに全体像を把握しておくことは,物事の本質を正しく理解するうえでとても大切なことだと思う.というのも,「盲人の巨象をなでる」に似て,細分化された専門知識にのみ目を奪われると,その本質を見過ごしてしまうことになりかねないからである.
 生化学は,現在,最も高速の発展を続けるライフ・サイエンスを基礎から支えている学問である.朝には新しい知識が生まれ,夕には古い概念が捨て去られるが如き現状である.より正確な知識,より新しい情報を読者に提供するのは,専門書を編む著者の責務であろうが,教育という観点からは必ずしも最優先すべき事項ではないかもしれない.詳細な最新知識の無原則な提示が,かえって読者の理解を混乱させることはしばしば経験されることである.特に,初めて生化学を学ぶ学生にとっては,本質的に重要な事項をできる限りシンプルに記述する方が,親切と感じるであろう.
 数年前,なるべく化学記号や専門用語を用いずに,生命現象の全体像を分かりやすく楽しく学べる本ができないものかと模索していたときに,Stephen Goldberg博士の「Clinical biochemistry made ridiculously simple」(Goldberg,S.著/神奈木玲児訳:臨床に役立つ 生化学.1997,総合医学社)という本に出会った.生化学の知識が“おとぎの国“風に擬人化されコンパクトにまとめられており,その手法に完全に魅せられてしまった.これこそ,自分が探していたニューテキストの原形だと思った.この本に触発されて,次から次へと頭の中で“生化学の不思議の世界”の空想が広がっていった.
 本書は,大学あるいは専門学校などで初めて生化学を学ぶ学生を対象とし,その学ぶべきレベルを想定し,必要最小限の事項を化学構造式は一切使わず,楽しみながら理解できることを最大の目標に執筆された.また,生化学のエッセンスを断片的な知識として単に覚えるのではなく,生命現象の全体像の中で有機的につながる活きた(応用展開できる智慧を触発する)知識として理解されることを目指した.
 最後に,超一流の生化学者により執筆された名著が数多く出版されている中で,浅学非才の身で厚顔無恥にもこのような本を執筆しようと考えたのは,凡人なるがゆえに,より学生に近い立場で生化学を考えることができるかもしれないと思ったからである.そして,少しでも「生化学」の食わず嫌いをなくすのに貢献できればと願っている.
 2004年1月 前場 良太

はじめに

 本書の最大の特徴は,生化学を学ぶ初心者向けに,学ぶべき必要最小限の事項を楽しみながら理解し,生化学を通して見た生命現象の全体像を平易に把握できるように工夫した点である.そのために,個々の生命現象のしくみの解説よりも,これらの現象が起こる意味・意義を理解させることに重点をおき,その手段として生体分子の相互の関係性を不思議の世界の物語として描いた.物語風にしたのは,分子の化学構造式よりもキャラクターを用いて記述する方が,生命現象の意味・意義をイメージしやすいと考えたからである.そして,楽しく読めるということも重視し,物語の記述の随所にしゃれや遊び心を加え,まんがイラストによる視覚的な効果も活用した.また,各章の物語の文末に,物語中に出てくる重要語句や物語の意味を詳細に述べた解説を加え,併せて,物語と解説の双方に随時,参照を入れ,全体の中での位置付けや関係性を確認できるようにした.また,各章ごとにまとめを入れ,学んだことが整理できるようになっている.さらに,フットノートとして,解説に関連した重要事項や臨床に役立つ知識を加えた.
 付録として,物語のキャラクターと従来の生化学の本に記載されている化学構造式との対照表が付いているので,従来の教科書でさらに生化学を学んでみようと思った人は,参考にしていただきたい.また,簡単な生化学の試験問題が載せてあるので,この本でどのくらい生化学の知識が身に付いたかを試してほしい.問題を解きながら,物語や絵が頭に浮かんでくればしめたものである.
 我々の体を構成する1つひとつの細胞は,それ自身が生きていくための営みとともに,人間としての個全体の生命を支えるための機能も分担している.高等生物では,このように細胞レベル,臓器・組織レベル,個体レベルと,重層的に生命現象が営まれている.個体としての生命現象を臓器・組織レベルで論ずる生理学や,細胞としての生命現象を器官レベルで論ずる細胞生物学では,その現象が体や細胞のどこで起こっているかを具体的に指し示す必要がある.
 しかし,発現レベルが異なる生命現象を一律に物質次元から論じようとする生化学においては,その発現の場を具体的に示しながら論ずるよりも,物質次元の新たな枠組みを設けてその中で整理して論ずる方が理解しやすいと考えられる.したがって,私たちは生化学の不思議の世界の地図をもって,生命の神秘を見学する旅に出発する.この地図に描かれている村や建物は,体の中の具体的な場所や細胞の中のどこかの器官を指しているとは限らない.しかし,全くの架空の世界の地図という訳ではない.生化学の不思議の世界は,すべての生物の中に実在し,この世界で行われていることによって我々の生命は支えられているのである.
まんがイラストでマスター 生化学 ふしぎの世界の物語 目次

まえがき
はじめに

生化学の不思議の世界の地図
生化学の不思議の世界の主な施設
生化学の不思議の世界に登場するメインキャラクター
1.“エネルギーセンター”へようこそ
 ●体の中のエネルギー
 ●化学エネルギーとは
 ●体の中で起こる化学反応(生化学反応)の特徴
 ●体の中でどうやって,エネルギーは作られる?
 ●“解糖系”通路
 ●“TCA”観覧車
 ●アルコールバー
 解説
  1 酵素の働き 2 ATP 3 グルコース 4 解糖系 5 乳酸 6 アセチルCoA 7 クエン酸回路 8 電子伝達系 9 酸化的リン酸化 10 グルコースから生成するATPの数 11 三大エネルギー源
  【フットノート】エネルギー変換効率
  まとめ

2.あなたの大好きな“糖の村”
 ●住人紹介
 ●Mr.グルコースの血液の旅
 ●保管倉庫
 ●ペントース発電室
 ●“抱合”訓練所
 ●糖の村と他の施設との関係
 解説
  1 糖質 2 オリゴ糖 3 でんぷん 4 ホモ多糖 5 ヘテロ多糖 6 血糖調節のメカニズム 7 グリコーゲンの合成と分解 8 糖新生 9 ペントースリン酸回路 10 NADPH 11 リボース 12 抱合
  【フットノート】 血糖値を一定に保つ意義 /糖尿病 /酸化と還元
  まとめ

3.ソーセージの形をした“脂質の村”
 ●住人紹介
 ●保管倉庫
 ●上りのジェットコースター
 ●下りのジェットコースター
 ●あわてんぼうの“ケトン体”
 ●グリセロフォスフォ工場
 ●仕切り壁から生まれる“生理活性”薬剤師
 ●スフィンゴじいさんの骨董屋
 ●イソプレン住人地区
 ●脂質の村と他の施設との関係
 解説
  1 脂肪酸 2 脂質のラジカル酸化 3 中性脂肪 4 脂肪酸の生合成 5 脂肪酸のβ-酸化 6 脂肪酸によるATP産生 7 ケトン体の生成と利用 8 細胞膜 9 プロスタグランジン類 10 スフィンゴ脂質 11 コレステロール 12 ステロイドホルモン 13 胆汁酸
  【フットノート】 中性脂肪の消化・吸収 /アシドーシスとアルカローシス
  まとめ

4.何でも揃う“アミノ酸商店街”
 ●住人紹介
 ●知って得するアミノ酸の売れ筋情報
 ●尿素便所
 ●世界一大きな“タンパク質”デパート
 ●“酵素”のお巡りさん
 ●アミノ酸商店街と他の施設との関係
 解説
  1 アミノ酸 2 非必須(可欠)アミノ酸の合成 3 ケト原性アミノ酸と糖原性アミノ酸 4 アミノ酸からの各種化合物の合成 5 不要となったアミノ酸の処理 6 タンパク質 7 タンパク質の機能 8 食事由来のタンパク質の消化・吸収 9 酵素はなぜお巡りさん? 10 基質親和性 11 酵素活性の制御 12 酵素の補因子 13 前駆体酵素 14 律速酵素 15 化学反応の調節機構 16 逸脱酵素と酵素診断 17 酵素阻害剤
  まとめ

5.文化の薫り“デュオ演劇場”(3幕)
 ●“リポタンパク質”舞台
 ●“糖脂質”舞台
 ●“糖タンパク質”舞台
 解説
  1 リポタンパク質 2 高脂血症 3 動脈硬化症 4 糖脂質 5 糖タンパク質
  まとめ

6.知の宝庫“核酸図書館”
 ●核酸図書館
 ●尿酸便所
 ●DNA大辞典
 ●“DNA”の辞書の複製
 ●“DNA”の辞書のメンテナンス
 ●タンパク工房
 ●核酸図書館と他の施設との関係
 解説
  1 核酸図書館 2 塩基 3 ヌクレオシドとヌクレオチド 4 ヌクレオチドの合成と分解 5 DNA 6 DNAの複製 7 先天性代謝異常 8 転写 9 成熟RNA
10 翻訳
  【フットノート】 痛風 /遺伝子操作 /癌も遺伝する? /DNA診断
  まとめ

7.勇者の故郷“ポルフィリン兵舎”
 解説
  1 ヘモグロビン 2 ビリルビン
  【フットノート】 黄疸
  まとめ

8.癒やし系“健康管理室”
 ●“ホルモン”看護師
 ●ビタミンでリフレッシュ
 解説
  1 ホルモン 2 ホルモンの作用機構 3 ビタミン 4 ビタミンの欠乏症
  まとめ

文献
ふろく
不思議の世界の化学情報―化学構造式一覧
Let's Try ! ―問 題
―解答・解説
あとがき