やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

第2 版の序
 近年における科学的根拠の蓄積によって,運動学習理論を適用したリハビリテーション治療の重要性がますます注目されてきている.学習理論の展開には様々な立場や考え方があるが,本書が目指すのは,難しい論理解釈は抜きにして,目の前の患者さんに練習課題を提供するうえで,どのような方法を思い浮かべる必要があるか,その方法を支持している理論的裏付けはいかなるものかを見出していただくこと,それを実践して成果を検証していただくことにある.ゆえに,運動学習理論を言及するうえで述べなくてはならない多くの重要な論理が割愛されてしまっていることをご容赦いただきたい.しかしながら,すぐに試みることができて,効果を感じ取ることができる臨床上のヒントが随所に見て取れるはずである.課題のなかで,ある感覚情報に関連する言葉をかけるとパフォーマンスはどう変化するのか,練習スケジュールを変えると翌日にどのような効果が期待できるのかを予測し,検証いただいて,運動学習の思考過程に基づいたリハビリテーションを実践いただくことこそが執筆者全員の望みである.
 本書の初版刊行(2008 年)から7 年余りを経て,運動学習理論には非常に多くの重要な知見が追加されてきている.そのなかから,第2 版改訂にあたり理論編に追記した事項は,運動学習における脳神経機構をより明確にするための感覚運動学習(sensorimotor learning)の概念,速効系学習機構と遅効性学習機構を想定した学習曲線の構造と運動学習の干渉効果,スポーツ界でエキスパートに実践されるエラー増幅練習(error-augmented practice)と差動学習(differential learning)のリハビリテーション医療への応用,運動学習を推し進めるシステムの構成についてである.運動学習を展開するための練習スケジュールや課題設定におけるエラー情報の管理,運動学習の進展を支えているシステムからふまえた練習支援機器の扱い方など,臨床現場で考慮するうえでの参考となれば幸いである.
 また,運動学習において欠かすことができなくなっているロボティクスについて,大畑光司先生に最新の知見をご執筆いただいた.補装具を含めて,練習支援機器を使いこなすことができるようにならなくては,近未来のリハビリテーション医療を担っていくことはできないであろう.加えて,本書が運動学習のための課題設定において重視している,内在的フィードバックおよび外在的フィードバック付与法の具体的な方略について,いくつかのコラムを設けて紹介した.これらの他にも魅力的な運動学習理論が提示されてきているが,限られた紙面のなかで,リハビリテーションの臨床へ直結させることができる項目をできる限りわかりやすく記述することを心掛けた.
 また,実践編では,非常に長期間の運動学習を展開しなくてはならない小脳性失調の歩行障害,ボトムアップ処理とトップダウン処理を要する課題を駆使して治療を行う必要がある肢節運動失行についての症例,ならびに,脳損傷患者の運動学習においてしばしば問題となる姿勢制御に関する垂直性(verticality)について詳述したコラムを追加した.これらをもって,生活に必要となる運動スキルを医学的見地から習得させる治療技術(therapeutic exercise)の提供に本書が役立つことができれば本望である.
 運動学習は,セラピストが提示した感覚情報を学習者である患者が処理することによって初めて進展する.リハビリテーション医療における運動学習は,急性期から回復期,生活期のそれぞれの時期において,必ず必要となる基本的な治療技術である.その最も基礎的な理論と治療戦略について,DVDによる視覚イメージとともに読者の皆様にふれていただくことが本書の役割である.
 2016 年4 月吉日
 長谷公隆

はじめに
 リハビリテーション医療における運動療法は,パフォーマンスにおける何らかの問題を運動そのものによって治療する場面である(therapeutic exercise).運動には,身体を支える筋骨格機能,エネルギーを供給する心肺機能に加えて,運動様式を決定し,さまざまな機能を統合して運動を実現する神経系の機能が必要である.人体を自動車に例えると,筋骨格系は車のボディやタイヤに,心肺系はエンジンや吸排気システムに相当する.そして神経系は,発進・走行・停止の指令を出すドライバーであると同時に,ドライバーが操作したアクセルやブレーキ,ハンドルなどの信号を伝達する自動車そのものの制御システムでもある.車体やタイヤの耐久性・安全性・クッション性などが進歩し,ハイブリッド技術などで燃費性能が向上しても,それらを動かすための指令が伝達されなければ車は動かない.現代における自動車社会の安全と利便性を担保しているのは,ドライバーの教習もさることながら,まさに,自動車の各パーツの機能を連携させて自動的に快適な走行を提供してくれる制御システムの発展によって支えられていると言えよう.
 神経系の障害によって運動制御が困難になった患者を治療するためには,神経機能の回復を促すとともに,運動の指令そのものを変換したり,運動制御の方法を組み換えたりして,その運動様式が円滑に機能するように学習させなくてはならない.その意味でセラピストは,修理工であり,教習所の教官であり,そして開発部門のエンジニアでもある.もし,正常な指令が伝達されなければ,その指令によって実現できるパフォーマンスを最適なものとするために,「代償」の適用や,運動を行うための制御システムそのものを組み換えることで,安全と効率を確保しなければならないのである.この「代償」の適用ならびに「運動スキル」の再構築の過程は,運動を司る神経機構に精通し,最大限の機能を引き出すために必要な解剖学ならびに運動力学的知識に基づいたセラピストの課題設定に依存している.
 本書の各論では,臨床の第一線で活躍されている理学療法士・作業療法士の諸先生に,脳卒中を中心に,小脳・基底核疾患,末梢神経損傷によって運動制御が困難となった症例を呈示していただき,
 「学習目標となる運動スキル」→「学習前における標的動作の状況」→「動作分析に基づいた課題設定(運動学習のターゲット)」→「代償手段等を適用した標的動作・運動の再現法」
 という形式で,パフォーマンスの機能的な再構築に必要な課題設定とその再現に至る諸先生の思考回路をわかりやすく解説していただいた.標的となる動作の状況や設定した課題の再現法については,付属のDVDに収録されている動画をご参照いただきたい.ここでは患者の皆様のご了解とご協力を得て,生の臨床場面での映像が収録されている.そのうえで,読者の皆様がこれらの課題を目前の患者に用いることができるか否かを明確にするための「Inclusion criteria(取り込み基準)」,「課題を再現するためのポイント」,そして運動学習に基づく治療を「ステップ・アップ」させるために利用できる知見が紹介されている.臨床の現場で何気なく実践している治療の過程を段階的に形式化し,問題解決のために考慮している事象を改めて抽出・列挙するという思考過程は,運動療法を実践するうえでの新たな視点を教示してくれるであろう.また,本文中に掲載できなかった臨床上のヒントがコラム欄に記載されているので,こちらにも是非ご注目いただければと思う.
 これらの各論にみる運動学習の展開をサポートする形で,運動制御の組み換えを導くために必要な“エンジニア”としての基礎知識を,理論編に集約した.運動力学に基づいた動作分析と学習に関わる脳機能の知識を整理し,
 ・障害に対して患者が適用している運動制御が,まさに安全と効率を得るための一つの手段であり得ること,
 ・脳機能の障害部位に対応した代償の適用と運動学習の展開こそが,運動スキルの最適化を誘導するリハビリテーション医療従事者の使命であること,
 ・運動学習を支えるフィードバックは,設定された課題の難易度によって変化する感覚情報に基づいて入力されること,
 をご理解いただければと思う.
 学習とはさまざまな情報(フィードバック)に基づいて,学習者自身が誤り(エラー)を修正し,特定のスキルを身につけることである.そのノウハウを学習者である患者に提供する役割を担う我々には,安全と効率を具現化させるプロフェッショナルとしての知識と技術が求められる.それらは,ナビゲーション・システム導入に際して運転中の安全確保に配慮すべきドライバーへの情報入力法の設定や,イージー・ドライブを実現するためのトランスミッションのオートマチック化など,動きの制御に関わるあらゆる場面への対応に相当する.しかも,運動療法の臨床では,疾病の特性や患者個々に特有の病態・病期・生活環境に応じて,運動スキルの目標や運動学習の手段を変えていく能力が要求される.片麻痺患者に立位をとらせるというような,普段から実践している運動療法のプロセスは,患者のさまざまな条件を考慮し,患者の脳に入力される種々の情報を管理しながら,最適化された運動スキルを制御するための神経機構を定着させるという,脳機能へのアプローチに依存しているのである.本書が,読者の皆様にとって,課題設定に基づく情報管理の手法についての理解に少しでも役立つことを期待している.
 読者の皆様には,各論から読み始めていただき,具体的な事例をさらってから理論編をお読みいただいたほうが,理解しやすいかもしれない.しかし,理学療法,作業療法の専門分野に関わらず,各事例の課題設定と運動療法の展開をご通読いただくことで,「運動学習」を提供するプロフェッショナルとしての知識を整理していただければ幸いである.
 2008 年10 月吉日
 長谷公隆
 第2 版の序(長谷公隆)
 はじめに(長谷公隆)
理論編
 1. 学習理論に基づくリハビリテーション医療の重要性(長谷公隆)
  患者が抱えている障害に対応した学習目標の設定
  学習能力に応じた治療環境の提供
   ◎コラム 顕在学習と潜在学習
   ◎コラム プリズム適応課題における小脳の役割
  学習による治療効果の蓄積
   ◎コラム ポートフォリオ-治療スキルを支える貯蔵庫
 2. 運動学習を支える神経機構(長谷公隆)
  大脳皮質における運動学習の神経回路
  大脳皮質─皮質下回路と運動学習
   ◎コラム 系列反応時間課題:serial reaction time task─系列学習における潜在学習効果の評価
  感覚運動学習
  学習曲線の構造
 3. 運動療法で展開される運動学習の戦略(長谷公隆)
  運動学習の過程とフィードバック
   ◎コラム 歩行再建に必要な内在的フィードバック
   ◎コラム 外在的フィードバックの種類と効果
   ◎コラム 運動学習における“感覚ノイズ”の管理と意義
   ◎コラム 動作を学習する際にどんな習熟をめざすのか(大高洋平)
 4. 運動学習の成果を導く課題設定(長谷公隆)
  運動学習の目標
  エラーの管理
  学習方法の選定
   ◎コラム ロボットと運動学習理論
 5. ロボットによる歩行練習(大畑光司)
  運動学習の三法則とリハロボットの役割
  ロボット使用の装着効果と治療効果
  リハロボット戦略の現状での課題
  リハロボット戦略の矛盾
  運動制御と事後効果
  リハロボットにおける運動学習仮説
  リハロボットにおける至適アシスト
  リハロボットの具体例:本田技研製歩行アシスト
  リハロボットを包含した新たな運動学習理論の構築の必要性
実践編I 理学療法編
 1.脳卒中:座位保持─Pusher現象,左半側空間無視(左片麻痺)(宮本真明・網本 和)
   ◎コラム 姿勢制御における垂直性の評価とアプローチ(森 公彦)
   ◎コラム 脳卒中・回復期病棟での治療目標─「最適動作」とは?(宮本真明)
 2.脳卒中:移乗動作(右片麻痺)(宮本真明・網本 和)
 3.脳卒中:立位(左片麻痺)(今井覚志)
 4.脳卒中:歩行─反張膝(右片麻痺)(小林 賢)
 5.脳卒中:歩行─麻痺側下肢制御の再構築(右片麻痺)(鈴木悦子)
 6.小脳失調:歩行(脇田正徳)
 7.パーキンソン病:起き上がり動作(上迫道代)
 8.パーキンソン病:歩行(上迫道代)
実践編II 作業療法編
 9.脳卒中:起き上がり動作(右片麻痺)(倉澤友子)
 10.脳卒中:リーチと把持動作(右片麻痺)(斎藤和夫)
 11.脳卒中:調理動作・麻痺手不使用(右片麻痺)(斎藤和夫)
 12.脳卒中:把握動作(左片麻痺)(阿部 薫)
 13.脳卒中:書字動作(右片麻痺)(阿部 薫)
   ◎コラム 書痙について(阿部 薫)
 14.脳卒中:箸動作(肢節運動失行)(橋本晋吾)
 15.脳卒中:手工芸(認知症)(浅井憲義)
 16.末梢神経損傷:つまみ動作(左正中神経麻痺)(斎藤和夫)

 索引