やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに
 2006年初夏に『医学生のための漢方・中医学講座』(『漢方・中医学講座一実践編』と改題)を,2007年には『漢方・中医学講座一基礎理論編』を出版しました.いずれも医学生または医師を念頭において書いたもので,漢方・中医学を易しくかつ理論的に学び,実戦で使えるようになっていただくことを狙いとしたものでした.お蔭様で好評をいただき,特に後者は漢方・中医学の基礎理論の本であるため,医学生や医師に限らず幅広い読者層を得られているようで,著者として望外の喜びであります.
 さて,漢方・中医学の臨床は,前2著で触れたように漢方薬(生薬)によるものばかりではありません.いくつか手段がありますが,鍼灸を忘れてはいけません.
 かつて私が医学部で教えていたとき,学生に質問したところ,「漢方薬を飲んだことのある」者が多かったのは当然なのですが,「鍼を打ってもらったことがある」という学生が多かったのには正直なところ驚きました.その「経験者」の多くがスポーツによる捻挫だとか打ち身だとか,そういうものに鍼を使っていて,そのほとんどが「有効だった」と言います.私のような「漢方屋」としては,「ほとんどの場合に有効」などというハイアベレージな治療効果は残念ながら期待できませんので,治療の対象となる疾患が違うとはいえ,この鍼の鎮痛効果の高さには惹かれるものがずっと以前からありました.実は私自身も,何年も続いた腕の痺れを鍼で治してもらったことがあり,その効果を身を以て体験したことがあります.
 さて,漢方については各大学医学部でも最近教えるようになってきましたので,あなたがいま医学生(=これからの医師)であれば,漢方に関する知識をある程度もって卒業するわけです.あなたがもうとうの昔に医師になっているのであれば,学生時代に漢方教育を受けることがほとんどなかったはずです.それでも,いわゆる卒後教育のひとつとして,あるいは毎日の臨床で必要に迫られて,何とか漢方の知識・技術を身につけてこられていると思います.
 ところで,鍼灸については如何でしょうか.多くの大学では,十数コマある漢方の講義・実習の枠を用いて,一コマほどの時間が鍼灸に割かれているようです.カリキュラムの編成上この程度の時間しか割けないのですが,それでも,実技を見ることも,場合によっては体験することも可能です.百聞は一見に如かず.皮肉なことに,一連の東洋医学の講義後に提出させる学生のレポートには,漢方の講義時間が多いのにも関わらず,鍼灸のことばかり書いてあります.私も患者として鍼を打ってもらった経験がありますが,鍼灸はまさにマジックと言わんばかりの効果を出すことができるので(特に鎮痛効果!),学生の反応はごく自然なものだと思います.その凄さを目の当たりにしているわけですから,その理屈について,つまりマジックの“種明かし”について,時間の制限上簡潔にならざるをえない説明であっても,学生は鍼の何たるかをつかむことができます.一方,あなたがすでに医師になってしまっているならば,こういう経験はほとんどされていないと思います.非常に勿体ないことです.
 さて,あなたの目の前の患者はしばしば痛みを訴えます.あなたが何科の臨床医であっても,痛みを訴える患者がいないということはありえないでしょう.鎮痛剤,消炎鎮痛処置,と様々な治療法を駆使しても,なかなか取れないのが痛みです.これは何かの記事で読んだことがあり,私自身もそう思いますが,患者が医療に対して何を望むかという問いに対し,答えのトップは「痛みを取ってほしい」なのです.2番目が「生活における諸制限の解消」だったのではないかと思いますが,痛みというのはそれほど大きい悩みなのです.「治らなくてもいいから痛みだけは何とか除去してほしい」という方,「治るために痛い検査や治療を受けるのは嫌だから,治るのを諦める」という方もいて,様々ですが,個人的にはこういう方々の気持ちは非常によくわかります.つまり何にせよ痛みを避けたいのです.私も痛いのは嫌です.あなたもきっとそうでしょう.
 さきほど,鎮痛には鍼がよいと書きました.とてもよく効きます.でも鍼そのものが痛いのでは話になりません.しかし御心配なく.鍼は痛くないのです.正確に言うと,まったく痛みがないわけではありません.敢えて言えば“心地よい鈍痛”がありますが,とにかく不快な感覚はほとんどありません.それでいて悩んでいた痛みが,どうかするとほとんど一瞬で取れてしまいます.鎮痛剤などに見られる副作用は皆無と言ってもよいほどのものですし,総合的にみて安価でもあります.
 さて,鍼は普通「はり師(鍼灸師)」が施術しますが,医師も行うことは可能です.あなたの目の前で痛みに悩んでいる患者を救うには,鎮痛剤,消炎処置だけではなく,自ら鍼を打つ,もしくは鍼灸師に打ってもらうという選択肢も当然出てくるわけです.医師の手持ちの選択肢が多いほど,患者は救われます.ぜひ鍼灸を鎮痛治療の“武器”にしてください.
 「敵を知り己を知れば百戦危うからず」.古代中国の戦略家「孫子」の兵法にある言葉ですが,疾患を正しく捉える,これが“敵を知る”ことだとすれば,自分が疾患と闘うとき,自分の力量について正しく把握しておく(己を知る)ことが必要です.鍼灸を“武器”に加えた今,それについてはどんな局面でどう使うか,効果は如何ほどか,守備範囲はどの程度か,などについてしっかりと把握しておくことが必要となるわけです.
 しかし,あなたがすべてを自ら行う必要はありません.あなたが内科医ならば,手術が必要と判断した患者をしかるべき外科へ送るでしょう.それと同じことをやればよいだけです.しかるべき鍼灸師のもとへ患者を送ればよいのです.医師,特に東洋医学家は西洋医学の全科に対応せざるをえないためか,得てして何でも自分でやらないと気が済まない人が多いのですが,ちょっと考えてみてください.漢方処方ひとつを取っても,それを選んで組み合わせるのはあなたかもしれませんが,エキス剤を作るのは漢方メーカーですし,煎じ薬のもとである生薬を栽培,採取し届けてくれるのは誰でしょうか…….すでにあなたは多くの人の手を借りているのです.あなたが,診ている患者に鍼灸を受けさせるのが適当だと判断したら,鍼灸師の力を借りればよいのです.別の表現をすれば,オーケストラの指揮者になればよいのです.すべての楽器の鳴り方,性質,各演奏家の力量などはきっちり把握しておかねばなりませんが,あなたが全部の楽器を演奏できなければならないという必要はまったくないわけです.
 鍼の鎮痛効果について強調し過ぎたかもしれませんが,鍼は鎮痛だけに効くのではありません.わが国では制度の問題からなかなか疼痛除去以外に使われづらい面がありますが,本場中国などでは,むしろ疼痛除去よりも一般の疾患の治療に用いられています.
 鍼灸のもうひとつの要素である灸は,鍼とは違って一般の方でも家庭で行えるような治療技術です.鍼を実際の臨床で使うことがあっても,灸はそれほど使う機会がないかもしれません.しかし,応用範囲は決して狭いわけではありません.
 この本は,現在わが国で行われている鍼灸について,鍼灸とは何か,何をどういうときに使うのか,どのような理論のもとに行われるのか,効果はどのようなものか,どうやって効果が発現されるのか,などの疑問に一から答えることを目的としています.また,鍼灸の歴史や,鍼灸を取り巻く様々な事情についても触れています.結果として盛りだくさんになってしまいました.
 しかし,上にも述べましたように,決してすべてを知っておかねばならない,自分ですべてできなくてはならない,ということはありません.鍼灸とはこんなものなのかと実感し,疾患と闘う武器には鍼灸もあるのだということを理解していただければ,多くの医師にとってはそれで十分ではないかと私は思っています.
 もしあなたが本格的に鍼灸を始めたいというのであれば,本書には鍼灸独自の理論や治療の実際についてもある程度書いていますし,実技については別添のDVDで解説していますので,この本だけで鍼灸治療を始めることも不可能ではありません.鍼を打つこと自体は簡単なのです.灸を据えることも簡単です.しかし,それですぐに効果が安定して出せるほど鍼灸は易しくはありません.それ相当の修行が必要な高度な医療技術です.ぜひ適切な指導者に師事して,知識と技を磨いて行ってください.
 2007年秋
 著者を代表して 入江祥史
 はじめに
 《DVDのご使用にあたって》
第1章 医療現場は鍼灸過疎地帯
 1.鍼灸をはじめた理由-加賀の場合
 2.鍼灸をはじめた理由-入江の場合
 3.鍼でどんな疾患を治療できるか?
 4.鍼の魅力
 5.疼痛以外に鍼が効く例
 6.こんなものにも鍼が効く
 7.気持ちのいい鍼感
 8.鍼灸をとりまく環境について
 9.鍼灸の将来性
 10.終わりに
第2章 鍼灸とは何か
 1.本章のはじめに
 2.鍼灸とは
 3.鍼について
  1.鍼はどのようなモノか
  2.鍼の目的
  3.ツボの選び方(処方)
  4.鍼は清潔に
  5.鍼の刺し方
  6.鍼は痛いのか
  7.鍼はどんな症状に効くのか
  8.鍼はどこで打ってもらえるのか
  9.鍼は日本だけのものか
 4.灸について
  〈附〉刺絡について
 5.本章の終わりに
第3章 鍼灸の種類
 1.本章のはじめに
 2.鍼の種類と用途
  1.三稜鍼
  2.毫鍼
  3.ディスポーザル鍼の利点
 3.灸の種類と用途
  1.灸の種類
  2.灸の用途
 4.新しい鍼灸
 5.本章の終わりに
第4章 鍼灸のメリット・デメリット
 1.本章のはじめに
 2.鍼灸のメリット
  1.安全である
  2.痛みがない
  3.効果が高い
  4.安価である
  5.鍼灸しか使えない疾患がある
 3.鍼灸のデメリット
 4.本章の終わりに
第5章 鍼灸の技術
 1.本章のはじめに
 2.鍼の技術
  1.受診
  2.診察
  3.施術
  4.フォローアップ
 3.灸の技術
 4.本章の終わりに
第6章 鍼灸の注意点
 1.本章のはじめに
 2.鍼灸の注意点
  〈附〉瞑眩
 3.本章の終わりに
第7章 鍼灸診療における法律関連の諸問題
 1.本章のはじめに
 2.針灸治療を行うための資格
  1.資格
  2.鍼灸所
  3.鍼灸関連団体
 3.健康保険診療と自費診療
  1.健康保険による施術
  2.同意書
  3.自費による施術
  4.医師が針灸治療を行うには
 4. 本章の終わりに
第8章 鍼灸の歴史とacupuncture
 1.本章のはじめに
 2.東洋医学における鍼灸の歴史
  1.中国における鍼灸の歴史
  2.わが国における鍼灸の歴史
 3.世界鍼灸の歴史・教育・資格・法整備・医療における位置付け
  1.アメリカ合衆国の例
  2.EUの例
  3.韓国の例
  4.WHOの例
 4.本章の終わりに
第9章 鍼灸のサイエンス
 1.本章のはじめに
 2.経穴の正体は何か
  1.経穴の解剖学的特徴
  2.経穴の生理学的特徴
 3.経絡の正体は何か
  1.経絡の存在
  2.経絡の正体
  3.良導絡について
 4.鍼灸の効くメカニズム:科学的解明
  1.鍼灸の鎮痛メカニズムについて
  2.疼痛制御以外の鍼灸の効果
  3.鍼の副作用のメカニズム
  4.鍼灸の効果に関する臨床試験
  5.本章の終わりに
第10章 経絡理論:その1
 1.第10章,第11章のはじめに
 2.経絡とは何か
 3.経絡の存在
 4.経絡の分類
  1.経脈
  2.気血の流れ(流注)
  3.正経各経脈の循行
第11章 経絡理論:その2
 1.奇経
  1.奇経八脈の循行
  2.奇経八脈の作用
 2.経別
 3.十二経筋・十二皮部
 4.絡脈
 5.孫絡
  1.臨床における経絡の運用
 6.第10章,第11章の終わりに
第12章 経穴の基礎理論
 1.本章のはじめに
 2.経穴とは何か
 3.ツボを治療点として使う
 4.重要な経穴
  1.五輸穴(五行穴)
  2.原穴
  3.絡穴
  4.げき穴
  5.背兪穴
  6.募穴
  7.下合穴
  8.八会穴
  9.交会穴
  10.八脈交会穴
 5.本章の終わりに
第13章 治療理論-取穴と配穴
 1.本章のはじめに
 2.取穴法・配穴法
  1.経穴の定位法
  2.処方と配穴の原理
 3.臓腑の生理作用・失調と治療法則
  1.肝
  2.心
  3.脾
  4.肺
  5.腎
  6.胆
  7.小腸
  8.胃
  9.大腸
  10.膀胱
  11.三焦
  〈附〉経穴名の由来について
 4.本章の終わりに
第14章 鍼灸と湯液(漢方薬)との関連
 1.本章のはじめに
 2.鍼灸と湯液
  1.歴史に学ぶ
  2.鍼灸と湯液における融合の困難さ
  3.併用について克服すべきこと
  4.併用はどこまでできるか
 3.本章の終わりに

 付録 主な経穴の取穴法と効能
 参考文献
 索引
 あとがき