やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに
 山田 洋
 筑波大学医学医療系認知行動神経科学研究室

 なぜ私はネコが好きなの?
 それは私の脳がそう感じるから…

 ニューロエコノミクス(神経経済学)は“ヒトの脳が価値を評価する仕組み”を問う学問である.そういわれても,多くの読者は何のことか分からず首をひねる方も多いのではないであろうか.具体的な例をあげると,少し実感が湧くかもしれない.たとえば,スーパーマーケットでご飯の食材を選んだり,ショッピングでアクセサリーを選んだり,宝くじ売り場でどのくじを買うかを選んだりといった,日常生活のなかのさまざまな場面で価値の判断が行われている.われわれヒトの脳は意識的に,または無意識的に物事の良しあしを判断して行動を決めることを繰り返すので,ほぼすべての日常行動が神経経済学の研究対象である.この価値の評価とそれに基づく判断がヒトの脳から生まれる仕組みを探求するのが,神経経済学である.
 日本ではまだまだなじみの低いニューロエコノミクスであるが,2000年初頭のアメリカで産声を上げた.20年ほど前のことになるが,ヒトの価値判断の理解を目指すこの学問は,心理学とミクロ経済学(と,さらに発展した行動経済学)が行動科学の中心となり,行動が生まれる脳の仕組みを知ることを目指す神経科学と一緒になって,神経経済学が生まれた.大昔からの歴史をたどれば,社会科学と自然科学が融合した学際的な研究領域と位置づけられるのかもしれない.心理学やミクロ経済学の体系化された学問が行動を分析する緻密な手法を与え,これらの手法を用いて抽出された代表的なヒトの行動特徴を生み出す脳の価値判断機構が探求されてきた.ヒトやヒトに最も近い脳を持つサルや齧歯類の脳を詳細に調べることで,価値判断を脳が生み出す仕組みが一つひとつの神経細胞単位で探求されてきた.その結果,ヒトの持つ価値観は前頭葉,大脳基底核,辺縁系,脳幹などの,大きく複雑に発達したヒトの脳のさまざまな場所で生み出されることがわかってきた.
 価値観は人それぞれというが,それはこのような脳が学習する物の好き嫌いは,個人の経験に大きく依存するからであろう.現在,価値観を生み出す脳の仕組みの理解が徐々に進みつつある.この進展を踏まえ,その知見を心の病の理解へ適用する臨床的な試みや,福祉政策の立案にいかそうとする公共的な試みもあり,社会への影響を踏まえながら今後も研究が発展していくものと考えられる.
 本特集が,神経経済学という学際的な研究領域を知るよい道しるべとなれば幸いである.
特集 ニューロエコノミクス(神経経済学)とは何か?─ヒトの価値観が生まれる脳の仕組みの理解とその先の未来
 はじめに(山田 洋)
 神経科学的手法を用いた幸福度測定への批判的検討(山田克宣)
 社会科学における実証研究の展開─行動経済学を例として(犬飼佳吾)
 計算論的アプローチによる強迫症のメカニズム解明(酒井雄希・他)
 精神医学と神経経済学─計算論的精神医学(橋英彦)
 意思決定の神経基盤解明のための行動課題の開発(田中沙織・酒井雄希)
 ヒト神経経済学─他者との駆け引きを支える脳の仕組み(鈴木真介)
 単一行動の神経経済学─サルの神経・分子基盤(堀 由紀子・南本敬史)
 霊長類の行動進化と神経経済学─線条体とドパミンの多元的価値表現(網田英敏)
 科学の方法的哲学と潜在能力アプローチ(後藤玲子・神林 龍)
 脳機能イメージングによる効用の個人間比較と再分配政策への応用(松森嘉織好・他)

TOPICS
 病理学 中皮腫瘍病理診断のパラダイムシフト(廣島健三)

連載
臨床医のための微生物学講座(8)
 腸球菌(富田治芳・他)

緩和医療のアップデート(3)
 がん疼痛治療─この30年余で何が変わったか?(余宮きのみ)

FORUM
 死を看取る─死因究明の場にて(9) 死亡診断(1)(大澤資樹)

 次号の特集予告