やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社



 今年平成15(2003)年,ついにヒトゲノム解読完了宣言がなされた.これは直接「ゲノム」を相手とする研究者だけでなく,広く生命科学,さらに医療の現場にも大きな革命を呼び起こすことになるだろう,と予測されている.折しも今年は,ワトソン・クリックによるDNA二重らせんモデル提唱から50周年であり,生命科学にとってepoch-makingな年になるであろう.
 日本でも平成12(2000)年度より「ミレニアム・ゲノム・プロジェクト」としてゲノム関係の国家研究が進行しており,五大疾患(がん,高血圧,痴呆,糖尿病,アレルギー・喘息)の遺伝因子の解明はそのメインテーマの1つである.糖尿病については,文部科学省系の12大学と,厚生労働省傘下の施設として私どもの国立国際医療センターが,省庁を超えてタッグを組み,あるときは理化学研究所,国立がんセンターなどの大規模ゲノム解析センターと協力して,またあるときは独自に解析を進めている.
 ところで,糖尿病外来を受診する人たちをみると「糖尿病」に対する受けとめ方がさまざまであることがわかる.それは,とりもなおさず一般の方々が「糖尿病」ひいては「生活習慣病」に対してもっているさまざまなイメージを反映しているといえる.
 その1つに,「体質」という考え方がある.「体質」とはきわめて包容力のあるコトバであるが,一方非常にあいまいな表現である.生まれながらの「体質」の大部分がゲノムで決定されているのであれば,ヒトゲノムの解明によって糖尿病の「体質」の本体は解明された,あるいはすぐに解明されるのだろうか.それが明日からの糖尿病の実地臨床に反映されるのであろうか.
 実はゲノムの研究が進めば進むほど新たな謎が次々に生じていると言える.また,ゲノムには一人ひとりの違い(SNPなど)が非常に多いことがわかるにつれて,「個人の違い」を受容できる社会の必要性が高まっており,生活習慣病などもそうした「個人の違い」の延長線上でとらえられつつある.
 21世紀をむかえた前後は,ゲノム科学の進展がごく近い将来生命科学の変革をもたらすと期待された.1999年米国Pfizer社のSilberが呈示したゲノム関連の未来予測の「2003年」の項をみると,「20大疾患の関連遺伝子がクローン化される」とある.こうした予測はほとんどの場合,前倒しで実現されてゆくものだが,糖尿病を含めて生活習慣病の原因遺伝子についてはまだ全体像を明らかにするにはほど遠い状況にある.すなわち「疾患遺伝子研究」だけは大幅に予測より遅れていることがわかる.
 本書はこうした視点をバックにして糖尿病とヒトゲノムの関係を解説した.
 従来このような糖尿病と遺伝子に関しては,解明されたいくつかの具体的な遺伝子について詳しく述べたすぐれた成書や特集は多数存在する.一方で糖尿病の全体像の中での遺伝子の位置づけは実感しにくいことが多かった.本書では,できるだけ「糖尿病と遺伝子との関係をどのようにとらえるか」に主眼をおき,国立国際医療センタースタッフを中心に,さまざまな立場からこの問題を論じていただいた.決して負の部分ばかりを強調せず,一方で楽観しすぎず,かつ今後の発展をとりこめるように解説していただいたので,バランスのとれた未来像が浮き彫りにされたと思う.
 また「遺伝子」というと,「倫理」が面倒くさいとか,具体的に臨床の場でどう必要なのかわかりにくいという声も多いので,この点も専門の方に解説をお願いした.一方で遺伝子の各論に関しては,あえて踏みこまなかった部分が多いので,適宜類書で補っていただきたい.詳しく説明しようとしてやや分厚くなってしまったが,「どこからでも読める」ように配慮したつもりなので気楽にページをめくっていただきたい.
 とくにQ & Aは本書でもっとも工夫した点である.実地医家や医療スタッフの方々がよく耳にし,マスコミでもとりあげられるものが多いので,ここをざっと読むだけでも参考になることが多いと思う.
 糖尿病の遺伝子研究は一筋縄ではいかないが,それはとりもなおさず糖尿病の多様性,奥深さを示しているといえよう.さまざまな情報が交錯する中,現場でそのような「奥深さ」に接している方々にこそ,この本を読んでいただきたいと思った.
 さまざまな筆者の方にできるだけ自由に述べていただいたが,全体の調整など本書の内容に関する責任はすべて安田にある.糖尿病の病態についての研究も,ゲノム科学も,日進月歩であり,考え方や価値観も多様であろう.ぜひ忌憚のない御意見,御批判をお寄せいただければと思う.
 本書ヘ非常に多くの方々の支えによりできあがった.大量の原稿を整理して下さった,尾島恭子さん,三浦香乃子さんに感謝の意を表したい.とくに尾島さんには,悪筆から驚くほど忍耐強く文章を起こしていただいた.また,日ごろ「糖尿病の臨床は長期戦」と言っている私どもも恐縮するほど辛抱強く本書の仕上がりを待ち,励まして下さったプラクティス編集室のお力なくして,この本は決して誕生しなかった.あらためて敬意を表し御礼を申し上げる.
 最後に,ミレニアム・プロジェクトをはじめこうした研究に協力して下さっているスタッフの方々や患者さんの方々にも,心から御礼を述べたいと思います.

 平成15年 夏
 安田和基
序  安田和基

第1章 Q & A
 (安田和基/梶尾 裕/本庶祥子)
 ◆患者からの質問に答える
  Q1 1型糖尿病の女性です.夫は病気にとても理解があるのですが,医師に「この病気は遺伝する」といわれ,妊娠・出産を迷っています.
  Q2 1 型糖尿病の女性です.無事出産したのですが,生まれた子どもが将来1型糖尿病になるかどうか遺伝子で診断をしてほしいのですが.
  Q3 一家で誰も糖尿病でないのに自分だけが糖尿病になりました.そんなに極端な生活もしていないし,不思議です.なぜでしょうか?
  Q4 顔や性格は母親似なのに,糖尿病の体質は父親からもらったようです.そんなことがあるのでしょうか?
  Q5 糖尿病だといわれましたが,2〜3カ月生活に注意してから尿検査をしたら「もう糖は出ていない」といわれました.軽い糖尿病だったので「治った」のだと思いますが,どうでしょうか.糖尿病は治ることはあるのでしょうか?
  Q6 生来カゼひとつひかず「体は丈夫」なのに,糖尿病でしかもその病気の体質は強いと医者からいわれました.納得がいかないのですが…….
  Q7 新聞で,「糖尿病の遺伝子解明」という見出しをよく目にします.糖尿病の発症因子についてはもうすっかりわかってしまったのですか?
  Q8 糖尿病や肥満の体質を遺伝子解析してくれるサービスができたと聞いたので,受けてみたいです.費用はどのくらいかかりますか? またどこに連絡すればいいのですか?
  Q9 糖尿病の薬で命に関わる副作用が出たと新聞で報道されています.よく名前を見てみると自分が長年飲んでいる薬でしたので,恐くなりました.飲むのをやめたいのですが…….
  Q10 雑誌の広告で「医者もビックリ・糖尿病がみるみる治った」という薬/食品をみつけました.漢方や食品ならば副作用がないと思うので,試してみたいのですが…….
  Q11 糖尿病発見から2年未満で透析になる人もいれば,血糖値が200mg/dl以上もあるのに,何も合併症がない人もいます.それはなぜですか? 糖尿病の合併症の生じやすさは遺伝しますか?
  Q12 私はやせているのに典型的な2型糖尿病といわれました.太っていなくても糖尿病になるのですか?
  Q13 糖尿病と肥満,高血圧,高脂血症などの体質は別のものなのですか?
  Q14 糖尿病の主治医にいつも「やせなさい」といわれるのですが,自分は水を飲んでも太る体質なんです.遺伝子で調べてください.
  Q15 日本には糖尿病の人が690万人いると聞きました.どうして糖尿病がこんなに日本で増えてきているのですか?
  Q16 糖尿病の遺伝子の研究に協力してくださいといわれました.どんなことを何回くらいされて,どんな結果を教えてもらえるのでしょうか.
  Q17 糖尿病の遺伝子の研究から,新しい薬が生まれるのですか?
  Q18 糖尿病の遺伝子の研究に協力してくださいといわれましたが,家族に迷惑はかからないでしょうか?
 ◆スタッフからの質問に答える
  Q1 遺伝子解析についての「倫理指針」とはどのようなものですか?
  Q2 糖尿病に遺伝が関与しているという証拠はあるのですか?
  Q3 糖尿病の遺伝子の特徴は何ですか?
  Q4 どんな患者さんが単一遺伝子病の糖尿病か,見分けるコツはありますか?
  Q5 糖尿病の発症に関する遺伝子はいくつわかっているのですか?
  Q6 よくマスコミなどに出てくる「SNP(スニップ)」とは何ですか?
  Q7 糖尿病はすでに,糖負荷試験をはじめ診断基準が確立していると思います.遺伝子検査や遺伝子診断に,本当に意味があるのでしょうか.将来は遺伝子検査が糖負荷試験にとってかわる日がくるのですか?
  Q8 糖尿病の遺伝子診断はいつ,どのようなかたちで可能になるのですか?
  Q9 遺伝子情報を利用した「オーダーメイド医療」とは何ですか? 今でも患者さん一人ひとりに合わせた治療法を考えているのですが,何が変わるのでしょうか?
  Q10 糖尿病「診療ガイドライン」と糖尿病遺伝子診断との関係は?
  Q11 生活習慣病の診療/教育のなかで,患者さんに対して「遺伝」「体質」のことをどの程度まで,どのように説明するべきでしょうか?
  Q12 糖尿病の「遺伝子」の研究と,「遺伝子治療」とは関係がありますか?
  Q13 糖尿病の遺伝子診断が始まった場合,個人の情報はどのように保護されるのですか?
  Q14 患者さんから「私の糖尿病遺伝子を調べてください」といわれたときに,現状ではどう対応すればいいですか?
  Q15 MODYの遺伝子異常を調べてほしいという患者さんがいますが,どうすればいいのでしょうか?
  Q16 糖尿病の合併症に関する遺伝子はどのくらいわかっているのですか.
  Q17 ミトコンドリア異常の糖尿病について教えてください.
  Q18-1 糖尿病の遺伝子研究に協力したいと思いますが,どのようなものがありますか?
  Q18-2 糖尿病の遺伝子研究に協力したいと思います.何をどのようにしたらよいですか?

第2章 総 論
 遺伝子・ゲノムと疾患  安田和基

第3章 糖尿病と遺伝/体質
 1 糖尿病に遺伝が関与している証拠  安田佳苗・松島雅人
 2 糖尿病遺伝子はどこまでわかったか――既知遺伝子  梶尾 裕
 3 糖尿病の「遺伝」の難しさ――多因子遺伝  安田和基
 4 「集団」としてみた糖尿病の体質――倹約遺伝子  葛谷信明
 5 糖尿病合併症と遺伝子  本庶祥子

第4章 臨床パネルを用いた研究
 1 研究方法と臨床パネル  安田和基
 2 患者への説明・同意取得の現場から  東田美香

第5章 ミレニアム・プロジェクトと世界の動向
 1 ミレニアム・プロジェクトと糖尿病チームの取り組み  三宅一彰・春日雅人
 2 ホールゲノム解析  安田和基
 3 海外の研究進展状況  安田和基

第6章 遺伝子と個人情報
 1 診療・研究の現場から  福嶋義光
 2 ヒト遺伝子検査受託と倫理的問題  高野昇一
 3 臨床の場の応用へ向けて  安田和基

第7章 遺伝子解明は糖尿病の臨床に本当に役立つのか?
 1 EBM・診療ガイドラインの立場から  野田光彦
 2 「環境因子」の重要性  梶尾 裕
 3 これからの臨床研究の形  小野敬子・加藤良枝・前崎史朗
 4 まとめにかえて  安田和基

 イラスト:西山歩(Studio Tortoise)