やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

推薦のことば

 未知のものに挑戦することは,かなりの勇気を必要とする.大過なく暮らそうと思っている人は,人生における冒険はできるだけ避けようとされるであろう.咬合関連,あるいは顎関節症関連の課題に挑むことは,歯科医師にとって冒険なのである.が,意外に冒険と気づかないで過ごしている場合もある.放っておいて治るという一時的な顎運動の不調もあれば,いろいろと挑戦してもいっこうに出口がみつからない難症例もある.このような難症例を治療対象に取り上げることは,たとえ1例であっても貴重な体験である.ところで丸山剛郎教授の講座の診療室には,顎口腔系の運動機能の不調やそれと関連すると思われる身体各所の不調を訴える受診者が多数来院されるようである.そして,このような受診者のうちで歯科的異常をもつ「患者群」では,そうでない「非患者群」に比べて,明らかに全身随伴症状をもつ患者の比率が高いことが明らかになっている.咬合状態の異常が全身症状として出現する可能性があるという指摘や若干の解説はすでにかなり以前からギシェーその他によっても行われているが,これを整理して,診断・治療体系の構築に役立てようとする試みは茨の道を敢えて通ろうとするのと同じである.このような課題に挑戦することは,多くの迷いを断ち切って初めてできることで,著者の先見性と勇気ある意図に敬意を表したい.
 今回の著書「咬合と全身の健康」は,この方面に関心のある好学の臨床医や研究者にとって必携の書で,大筋で方向性を理解しやすいように要領よく纏められている.この背景には著者の長年にわたるアイディア豊かな研究活動とその集約である発表論文,著書が控えている.換言すれば,著者の目的意識の強烈さを示している.何のための咬合再建なのかという問いに答える姿勢を示したものであるといって過言ではないであろう.
 19世紀の後半から20世紀にかけての歯科医学・医療の発展は,口腔とその周辺の限局した範囲での診断・治療の完結に主眼がおかれてきた.これらの業績はわれわれにとって貴重な遺産であるから,習得吟味してその継承をはかることが大切である.しかし,一方において,過去の世紀という盃に注がれた遺産は,やがてこの盃から溢れ出るばかりになる.次の世紀に生まれでる新しい知見は装い新たな盃に注がれる.21世紀の歯科医学は環境との調和を保ちつつ,口腔およびその周辺領域でおきる病態の治療や再建治療が心身の健康の維持促進に役立つ過程を検証していく科学であり,予防や治療や術後管理はその応用である.そして本書はこれを実践する歯科医師にとって,最良の伴侶になると信じている.
 2000年3月,春の息吹に包まれて 東京歯科大学学長 石川達也

はじめに

 最近になってようやく,顎口腔系,とくに咬合が身体全体の健康にかかわりがあることが認識され,話題になり始めた.歯科医学・歯科医療の対照とするところがまったく局所である歯とその周囲のみの疾病から,顎関節へと広がったのは比較的近年になってからである.この顎関節の疾患は顎関節症として広く知られ,歯科の第1の疾患である齲蝕,第2の疾患である歯周病につづいて,第3の疾患といわれるまでに高頻度にみられるようになった.そのような背景から,小学校,中学校,高等学校における歯科の学校検診においても,数年前からその項目に歯列,咬合,顎関節が取り入れられている.
 さらに,顎関節症患者の診査,診断,治療に従事しているうちに,単に顎関節や咀嚼筋における障害のみにとどまらず,多くの患者たちが,種々の全身的な随伴症状をもっていることが明らかになってきた.この全身的随伴症状は,従来,いわゆる不定愁訴といわれているものである.
 一方,このような顎関節症の診査,診断,治療と関係なく,インレー修復,クラウンブリッジ補綴,義歯あるいは歯科矯正などの治療を通じて,頭痛が消えたとか肩凝りが治ったとか腰痛が治ったなどという,いわゆる不定愁訴が改善されたという臨床経験は多くの歯科医師がもっていることである.もちろん過去において,歯科と全身の健康の関係については,古くに病巣感染説といわれる根尖病巣が全身的疾患と関係があるが,歯周病が全身的疾患とも関係があるとされてきたことは周知のとおりである.
 このような背景から,この全身随伴症状,不定愁訴が歯科治療,とくに咬合と関係があることが徐々に明らかになってきた.ここに至ってようやく,歯科医学,歯科医療が身体全体とかかわりのあることが,認識され始めたといえる.
 一方,前厚生省歯科衛生課課長石井拓男氏は“口腔保健と全身的な健康―平成8年度厚生科学研究”(口腔保健協会,1997)の序文に,次のように述べている.
 『高齢者そのものの持っている健康上の問題が,臨床の場を通して歯科界に流れ込むという状況が生じた.特に不定愁訴と歯科治療との関わりについて,臨床歯科医からの報告が聞かれるようになった.そして興味深いことは,これまでは歯科以外の疾患,いわゆる全身疾患を有する患者に対する歯科治療上の注意といった方向が歯科界における全身疾患のとらえ方であったが,口腔から全身へ歯科治療が全身状況に影響を与えるといった,従来と逆方向のアプローチが数多く見られるようになったのである.一方,8020運動が推進され,多くの8020者を歯科医療関係者が実際に目にすることとなった.そしてその人たちの壮健さが関心を集め,ここでも口腔と全身の関係が注目されることとなった.いずれにしても,昭和の時代にはなかった歯科保健と全身的な保健というものの見方が新しい流れとなって歯科界に生じたのである.』
 咬合と全身の健康とのかかわりについての研究も徐々にではあるがすすめられてきた.さらに,このような臨床経験を中心にすすめられてきた分野を,より学問的レベルに向上させ,ひろく普及させようと,“全身咬合学会”が東京歯科大学教授石川達也先生,尾澤文貞先生,著者を中心に平成7年に設立され,現在すでに会員は千名に達しようとしている.
 全身咬合学会の石川達也会長,尾澤文貞副会長と著者(副会長)との“微笑みをあなたに”(著者発行)1994年4号における対談から,咬合と全身の健康のかかわりに対する考えを引用,紹介する.
 丸 山 なぜ,今,全身咬合か,という点ですが.
 石 川 大学病院でさまざまな不定愁訴のある方を診ていて,歯科治療によって治ったり治らなかったりという現実があります.これを何とかしなくては,と考えていましたが,時代の要請という点からしても,口腔領域と全身のかかわり,とくに咬合と全身の健康との間題に踏みこむ必要があると思いました.この学会の英語名は,丸山先生が“Occlusion and Health”と名付けられたように,Occlusion(咬合)というものが全身的なHealth(健康)にどう関わっていくかということを解明してゆきたいという願望を表しています.臨床経験を積んでいられる先生は,咬合と全身症状の関係の可能性を体験されていると思いますが,具体的に,どう対処したらいいか足ぶみをされている方が多いと思います.
 丸 山 一般の先生方にとって,この全身咬合の分野は難しい,手をつけるとあぶないというイメージがあるかもしれませんが,これをいかに分かりやすく,具体性をもたせ,方向転換して,患者さんの幸せのための医療として発展させていくかです.ああいうタイプの患者さんは難しく,手をつけないと決めつけてしまっては,医学・医療としての進歩も,患者さんの救いもありませんからね.患者さんが喜び,微笑んでくれるような医療をめざしたいものです.
 尾 澤 微笑みという話が出ましたが,全身咬合と美を考えますと,美とは外観だけでなく,健康美,さらにやる気がある健康美,輝いている美のある表情といえるでしょう.
 石 川 私は,心の美しさにふみこめるのは,実はこの全身咬合だと思いますよ.心の状態によって生体の気の流れが出てきて,活動性が変わるのです.まだまだ私たちの知らぬ未知なる分野があり,今後,科学的にも究明され,多くの患者さんの幸せに貢献できるでしょう.
 著者自身,古くから咬合と全身とのかかわりに関して種々の研究を行い,さらに多くの臨床経験も蓄積してきた.そして,この咬合と全身の健康のかかわりの診査,診断,治療にあたっては,著者の唱えてきた臨床生理咬合の概念がきわめて有効であり,この臨床生理咬合の概念をさらに全身の健康とのかかわりへと発展させてきた.
 本著においては,上述のような考えを背景に,著者の数かずの研究データをもとに基礎的に解説し,さらに,著者の数千という患者の臨床経験を通じて,臨床的に解説を行いたい.この分野は,まだ学問的にも臨床的にも解決が得られていないが,ある解決の糸口になればと考えている.
 著者は,本著が医科の種々の分野において,種々の検査を受けたにもかかわらず“異常なし”と診断され,不定愁訴という谷間に落とされ,悩み,苦しみ,自殺をも考える患者を少しでも救う一助にでもなればと念じている.歯科医学が医学の一分野でありながら,口腔にのみ限局してきた,あるいはさせられてきた過去から,身体全体へと復権し,大きく患者の幸せに貢献できることになる.近い将来そのような時代が到来するであろうと信じている.歯科医学,歯科医療の栄光の時代の到来であり,これこそ著者の考える“健康歯科医学”であり,“幸福歯科医学”そのものである.
 2000年1月1日 丸山剛郎
推薦のことば……iii
はじめに……v

1章 臨床生理咬合における咬合と全身の健康……1
 I 臨床生理咬合からの全身の健康……1
 II 臨床生理咬合の概念の展開……2
 III 咬合崩壊のもたらすもの……3
  III・1 咬合崩壊のもたらす問題……3
  III・2 咬合異常関連症候群……5
  III・3 最近の子どもたち,そして100年後の日本人……14
2章 下顎位……19
 I よい下顎位とは……19
 II 下顎位と咀嚼運動……20
3章 咀嚼運動……25
 I 咀嚼運動と咬合……25
  I・1 よい下顎運動とは……25
  I・2 限界運動と咀嚼運動……25
  I・3 臨床生理咬合における咬合分析……27
  I・4 犬歯誘導と咀嚼運動……29
  I・5 非作業側干渉と咀嚼運動……31
  I・6 正常咀嚼運動のガイダンス……33
  I・7 異常咀嚼運動のガイダンス……36
  I・8 異常咀嚼運動と咬合・顎関節・咀嚼筋……38
  I・9 異常咀嚼運動の分類……42
 II 咀嚼運動のための咬合器……42
 III 異常咀嚼運動による咬合異常診断……46
  III・1 異常咀嚼パターンと咬合異常の照合……46
  III・2 咀嚼運動からの咬合異常の診断……47
 IV 顎口腔形態と咀嚼運動……50
  IV・1 歯列弓形態と咀嚼運動……50
  IV・2 咬合彎曲と咀嚼運動……53
  IV・3 顎顔面形態と咀嚼側……54
  IV・4 咀嚼側と姿勢……56
  IV・5 下顎左右対称性と咀嚼運動……57
  IV・6 下顎頭の発育と咀嚼……59
  IV・7 頭位と咀嚼……61
  IV・8 頚部・背部の筋群と咀嚼運動……63
  IV・9 心理的要因と咀嚼運動……64
4章 発語……67
 I 被験文……67
 II 発語運動の恒常性……68
 III 正常咬合者の発語運動……68
 IV 咬合異常と発語運動……68
  IV・1 前歯部咬合異常について……69
  IV・2 臼歯部咬合異常について……72
  IV・3 咬合異常の解放に伴う発語運動域の変化……73
 V 聞き取りやすさと咬合異常……74
 VI 顎偏位と発語運動……74
  VI・1 側方的下顎偏位……74
  VI・2 片側垂直的顎偏位……76
5章 顎関節症……79
 I 定義……79
 II 顎関節症と咬合……80
 III 顎関節症と不定愁訴……84
 IV 顎関節症とCMI……87
6章 身体と咬合……93
 I 不定愁訴……93
  I・1 不定愁訴と下顎偏位……93
  I・2 不定愁訴と咀嚼運動……96
  I・3 下顎位と手指末梢血流……98
  I・4 腰痛治療の姿勢矯正と下顎位……100
  I・5 顔貌の左右対称性と不定愁訴……103
  I・6 全身健康調査表……106
 II 頚椎と咬合……108
  II・1 頚椎彎曲……108
  II・2 頚椎と顎顔面形態……108
 III 身体の平衡と咬合……110
  III・1 下顎位と身体の重量バランス……110
  III・2 下顎位と足底圧……115
 IV 全身のアライメントと咬合……117
  IV・1 全身のアライメントに関与する筋……117
  IV・2 全身のアライメントと下顎位……118
  IV・3 全身のアライメントの調整と咀嚼運動……121
7章 スポーツにおける咬合……123
 I スポーツ歯学……123
 II スポーツにおける咬合……125
  II・1 モーターサイクル競技におけるバイトプレーン装着の影響について……126
  II・2 格闘技におけるマンディブラーポジショニングアプライアンス装着の効果について……134
8章 歯科矯正における咬合と機能……139
 I 各種不正咬合における咀嚼運動……140
 II 各種不正咬合における発語運動……146
  II・1 各種不正咬合における発語運動域……146
  II・2 発語運動域の側方偏位……151
 III 矯正治療による機能改善……152
  III・1 ディテーリングによる機能改善……152
  III・2 リシェイピングによる機能改善……157
 IV 矯正治療後における機能……160
  IV・1 矯正治療における咀嚼運動の異常……160
  IV・2 各種不正咬合と矯正治療後における咀嚼運動との関連性……171
  IV・3 矯正治療後における機能からみた咬合異常……172
  IV・4 矯正治療後における咀嚼運動の異常と咬合異常の関係……173
  IV・5 反対咬合矯正治療後の咀嚼運動……174
  IV・6 各種不正咬合における咬合異常の解放における発語運動……175
  IV・7 下顎側方偏位を伴う不正咬合の矯正治療における咀嚼運動と発語運動……181
9章 顎位の診査・診断……183
 I 咬合と全身の健康の診査・診断……184
 II 不定愁訴……185
 III 生活習慣・習癖……185
 IV 画像の診査・診断……186
  IV・1 パノラマX線写真……186
  IV・2 顎関節X線写真……186
  IV・3 セファロX線写真……189
 V 模型分析……191
  V・1 模型の形態分析……191
  V・2 咬合器装着模型による咬合分析……191
 VI 顎運動の分析……193
  VI・1 開・閉口運動……193
  VI・2 咬頭嵌合位……194
  VI・3 中心咬合位……194
  VI・4 咀嚼……196
  VI・5 発語運動……197
  VI・6 姿勢……197
  VI・7 重心……198
  VI・8 関連筋群の触診……198
  VI・9 顔貌……203
  VI・10 バイトスティック法……203
  VI・11 アプライドキネジオロジー……205
  VI・12 Oーリングテスト……209
10章 治療……211
 I マンディブラーポジショニングアプライアンス……211
  I・1 マンディブラーポジショニングアプライアンスの分類……211
  I・2 マンディブラーポジショニングアプライアンスの製作法……212
  I・3 変法マンディブラーポジショニングアプライアンス……215
  I・4 マンディブラーポジショニングアプライアンスによる下顎位の変化に伴う咀嚼運動と発語運動……215
 II リシェイピング……221
  II・1 リシェイピングの分類……221
  II・2 咀嚼運動のリシェイピング……222
 III 全身アライメント修正(三軸修正法)……225
 IV 歯科矯正……227
  IV・1 全身の健康のための咬合治療における歯科矯正……227
  IV・2 小臼歯抜去の問題……233
 V 歯科補綴(咬合再構成)……234
  V・1 全身の健康とのかかわりからの咬合治療における補綴治療……234

おわりに……237
索引……238
参考文献……241