やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

序文

 私が東京歯科大学を卒業して口腔外科学教室に在籍した1970年代当時は,歯科界全体が顎関節症に対する認識は浅かった.私の研究テーマが顎関節症に関するものであったので,臨床でもこの患者を扱いはじめた.その途端,先輩の先生方は,たくさんの患者を回してくれた.
 その当時の顎関節症に対する治療は,鎮痛消炎剤や筋弛緩剤の投与をして医師がサジを投げるか,患者があきらめるかのどちらかであった.ときにはなにもしなくても症状が改善することもあるので,見かけ上治療する例もまれではなかった.このころを振り返ってみると,私たちはほとんど顎関節症を理解していなかったといっても過言ではない.
 日本で顎関節症に対する認識が高まりはじめたのは,1980年代の半ばごろであった.このころから顎関節内障の概念が流布しはじめ,顎関節症の病態がかなり明らかにされてきた.
 ところが,顎関節症という病名で全身疾患とのかかわりに目を奪われ,その本体を見失ったような概念がマスコミなどにもてはやされ,歯科の雑誌などにもそれが掲載されるなどした.そのために,せっかく明らかになりはじめた顎関節症像が再びぼやけはじめてしまったことは,歯科医学を学び,それを臨床の場で生かすという科学者としての歯科医の立場からも,非常に残念といわざるをえない.
 大学卒業後二十数年来,顎関節症と“お付き合い”をしてきたが,最近になってようやく治療のシステム化が進み,特殊な例を除いてほとんどの症例を治癒に結びつけることができるようになった.
 治療のシステム化が進んだきっかけは,東京歯科大学解剖学教室で顎関節部の構造を勉強させていただいたことと,顎関節内障の概念を身につけたことによる.これらの知識をもとに,私が大学院で行ってきた生理学的な研究の知識を加え,顎関節症の病態を想像したことにある.
 すなわち,顎関節症を特殊な疾患としてとらえずに,通常の組織の損傷としてとらえ,そこに解剖学的な特徴と力学的な特徴を加味した治療法を考えたことである.それを行うことによって患者がどのように反応するかを考慮して,個々の患者の病態を修正していくうちに,顎関節症の患者をいくつかのカテゴリーに分けることができるようになった[フローチャート参照].それを整理して,ここに示すような治療システムができあがったわけである.
 このたび縁があって,顎関節症に関する基本事項から治療法までを記載した本を出すチャンスに恵まれた.本書は,このシステムを利用して,ふだん顎関節症の治療になじみのない臨床家や,卒業後間もない若い歯科医にも顎関節症の治療ができるような入門書というのがねらいであった.また,コンパクトに分かりやすくということが基本的なコンセプトでもあったが,あれも載せたいこれも載せたいということで少々グラマーになってしまったきらいがある.しかし,それにめげずに読みとおしていただければ,毎日の臨床の一部が楽しくなることは間違いないと思う.
 それによって,読者の顎関節症に対する認識と診療内容が少しでも向上すれば,著者としてこのうえない喜びである.
 本書の冒頭にある解剖学の図譜は,イラストレーターの上村一樹氏,機能的なトレスのほとんどは歯科医師である小笠原庸治氏によるものである( 印).ここに感謝します.
 この本の著作にあたり,私の顎関節クリニックでのよき相談相手である立石 淳先生,丸山弘明先生および歯科補綴の面で私を支えてくれた深沢俊彦主任をはじめとして中村孝博技工士,日比正之技工士に感謝します.また,歯科衛生士の立場からバックアップしてくれた奥 靖子,大木みどり,大屋智恵子,田中優江の各歯科衛生士に深謝します.
 私のよき友人であり苦しいときに支えてくれました古賀正忠先生,下野正基先生,久保田稔先生,橋本佳潤先生,荒川幸雄先生,新倉良一先生に心からお礼の言葉を捧げたいと思います.また,顎関節部の解剖学を御教授して下さいました東京歯科大学解剖学教室井出吉信教授をはじめとする教室員の皆様に深甚なる感謝の意を表します.
 そして,顎関節症という疾患の重要性をご教授くださり,さらに公私にわたりご指導くださいました高橋庄二郎東京歯科大学名誉教授に心から感謝いたします.
 また,このような出版の機会を与えられた医歯薬出版(株)に対して感謝いたします.
 最後に,私の相談相手であり支えでもある妻の照子に,すべての愛情を込めて感謝の気持ちを捧げたいと思います.
 1992年1月 中沢勝宏
I 基礎編

1章 顎関節症を理解するために,ぜひとも知っておいてほしい顎関節の構造と機能……3
 I 顎関節の構造と働き……3
   1.全体像……3
   2.下顎頭……4
   3.下顎窩……5
   4.関節円板……8
   5.関節包……10
   6.咀嚼筋……10
2章 顎機能について知っておくべきこと……19
 I 中心位……19
   1.中心位の解剖学的な意義……20
   2.中心位の臨床的意義……21
   3.中心位の記録法……22
 II 咬頭嵌合位の意味……22
 III 下顎限界運動……24
   1.下顎切歯点の限界運動領域……24
   2.下顎頭部における限界運動……25
 IV 咀嚼運動……27
 V アンテリア・ガイダンスの意味……27
 VI 下顎運動の運動制御……28
 VII 筋肉のエネルギー供給……28
3章 病的な咬合とはなにか……29
 I 正常(機能的)咬合……29
 II 異常(非機能的)咬合……29
 III 咬合干渉……30
   1.咬合干渉とは……30
   2.咬合干渉の種類とその影響……31
 IV 咬合高径の異常……33
 V 歯ぎしりと噛みしめの害……34
   1.歯ぎしり……34
   2.噛みしめ……34
4章 咀嚼筋などの痛みはなぜ起こるのか……37
 I MPD症候群とは……37
 II MPD症候群が生じる生理学的説明……38
   1.α型筋緊張亢進……38
   2.γループによる緊張性歯根膜咀嚼筋反射……38
   3.筋緊張亢進と疼痛……40
5章 患者の心理的要因と顎機能とのかかわり……41
 I 精神的ストレスが咬合に与える影響……41
 II 咬合異常が精神的なストレスの原因になるとき……41
 III 心身症……41
   1.心身症の定義……41
   2.心身症の位置づけ……42
   3.心身症の治療……42
6章 顎関節内障……43
 I 顎関節内障の病態……43
 II 顎関節内障の臨床症状……44
   1.初期の段階……44
   2.やや進行した状態……45
   3.進行した状態……45
   4.さらに進行した状態……47
   5.末期的な状態……48
 III リモデリング……49
 IV 顎関節内障の原因……50

II 臨床編
7章 顎関節症とは,どのような疾患か……57
 I 顎関節症の病態……57
 II 顎関節症の見つけ方……61
   1.疑わしい症例の鑑別診断……61
   2.手をつけてはいけない症例……62
8章 初診時の診察で行うべきこと……63
 I プロトコールによる診査……63
   1.主訴……63
   2.既往歴……65
   3.現病歴……65
   4.現症……66
   5.その他……80
   6.資料……80
   7.ビジトレーナーのデータの読み方……80
   8.チューイング・パターンをどう読むか……81
   9.MPIシステムによる下顎の変位の計測……84
9章 [フローチャートを用いて]治療の進め方……93
 I フローチャートの基本……93
 II 4つのグループ……95
10章 [フローチャートA]を適用する場合――一般的な顎関節症の症例……97
 I 症例の特徴……97
 II スタビライゼーション・スプリント……97
   1.スタビライゼーション・スプリントがもつべき条件……99
   2.スタビライゼーション・スプリントの製作に必要な器材……99
   3.スタビライゼーション・スプリント製作の実際……100
 III スタビライゼーション・スプリントが有効であった場合……122
   1.なぜ,スタビライゼーション・スプリントで症状が消失したのか……122
   2.咬合干渉の除去法〈1……中心位における閉口位と咬頭嵌合位のずれが小さい場合〉……123
   3.咬合干渉の除去法〈2……中心位と咬頭嵌合位のずれが大きい場合〉……132
 IV スタビライゼーション・スプリントが無効であった場合……153
   1.スタビライゼーション・スプリントが無効であったことのもつ意味……153
   2.精神的な要因をもつ症例……154
   3.その他の疾患……154
   4.顎関節内障……156
 V 3度目の鑑別診断……158
 VI 前方位型スプリント……159
11章 [フローチャートB]を適用する場合――きわめて疼痛が著しい症例……165
 I 症例の特徴……165
 II 来院時にまずすること……165
 III 投薬すべき薬剤の種類……167
 IV 投薬などにより疼痛がある程度治まったらする処置……168
12章 [フローチャートC]を適用する場合明らかなクリックや急性のクローズド・ロックがある症例……169
 I 症例の特徴……169
 II 明らかなクリックのある症例に対する処置……169
   1.リポジショニング・アプライアンスの機能……171
   2.セラピューティック・ポジション……172
   3.リポジショニング・アプライアンスの作り方……173
   4.リポジショニング・アプライアンスの使用法……175
   5.装着時の注意……176
   6.経過観察の要点……176
   7.セラピューティック・ポジションの確認……177
   8.関節包内が安定してきたかどうかを見分ける……177
   9.どうしても関節包内が安定しない場合……177
 III 明らかな急性のクローズド・ロックであることがわかった場合の処置……180
   1.マニピュレーション・テクニックの意味とその方法……180
   2.マニピュレーション時にイメージする顎関節の構造物の硬さ,流れなどの物性……181
   3.マニピュレーションに成功した場合に行うべきこと――再びスリップアウトさせないため――……181
   4.マニピュレーションが成功しなかったら……184
   5.いつマニュピレーションをやめたらよいか……184
13章 [フローチャートD]を適用する場合――精神的要因の強い症例……191
 I 症例の特徴……191
 II 精神的要因の強い症例の見分け方……191
 III 精神的要因の強い症例に対する対処の仕方……193
 IV 精神的要因の強い症例に用いるスプリント……194
 V スプリントが無効であった場合の考え方……196
 VI スプリントが有効であった場合には,術者と患者が納得できる咬頭嵌合位をさがす……196
 VII 経過観察の要点……198
14章 矯正治療と顎関節症……201
 I 矯正治療は顎関節症を起こすとはかぎらない……201
 II 矯正治療の適応症で顎関節症に罹患しやすい症例……201
   1.患者のもつ関節包の強度……201
   2.アングルII級2類の症例……202
   3.アングルII級1類の症例……203
 III 顎関節症を生じさせる矯正力……204
   1.MPD症候群と矯正力……204
   2.顎関節内障と矯正力……204

引用文献……207
索引……210