やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

Prologue プロローグ
語り継がれる“伝説の歯科医療”に感謝の思いを込めて
 歯科大学を卒業し,歯科医師免許を手にした頃の私は,目の前の患者さんの抱えた問題解決のために治療技術を身につけることに日々追われていました.
 そこには知識と技術が足りない“ できない自分” がいました.
 でも,いったい何を勉強すればいいのかわからず,むやみに本を読み,模型や歯を削り,技術セミナーを受講しました.
 しかし,いくら本を読んでも,削っても,セミナーを受けても,一向に自分の中の不安が解消されないのです.
 「何かが足りない」
 いつの間にか時間が経ち,患者さんの抱えた問題に応えられるようになると,開業歯科医師として歯科医院経営を考えさせられるようになりました.“ 経営” という数字に追われ,スタッフに翻弄され,慌ただしい毎日を送るようになりました.
 そこには,治療はできても経営者として未熟な自分がいました.
 経営のセミナーには数知れず通いましたが,どこで習った経営手法も歯科医療としてこれでいいのか? と,医療倫理と経営との矛盾を感じました.
 同じひとりの歯科医師ですが,治療をする技術提供者としての側面と開業歯科医師という経営者としての側面があるのです.
 多くの歯科医師が“ 経験” という変化の中でこのような試練の時を迎え,それは歯科医師の成長のプロセスでもあるのです.
 これは決して私だけの経験ではなく,歯科医師が誰でも経験することなのです.
 そんな私は,親子診療という環境の中で父と度々ぶつかるのでした.
 父の存在は歯科医師としての技術や知識,経験の先輩であり,かたや親子という何とも難しい関係にありました.
 父の言葉は,自分なりに一生懸命な私の気持ちに突き刺さり,口惜しさと情けなさが反発心となり抵抗するのです.
 そんなある日,父の書棚の1 冊の本に目がとまりました.その本は,表紙はボロボロ,ページは黄ばんで手垢がついた何度も読み返された跡がわかるものでした.
 『A Philosophy of the Practice of Dentistry』“ パンキーフィロソフィ”
 この本の第1 部で自らの人生を語ったパンキー先生の自伝ともいうべき記述は,私の悩みと重なり,読むほどに共感していったのです.
 このような歯科医師の悩み,葛藤は,私にだけあることではなかったのです.
 歯科医療がはじまったころから課せられてきたもので,偉大な過去の歯科医師たちはこの試練を自らの努力によって乗り越え,現在の新しい歯科医療を築いてきたのです.
 私の父の時代1960 年代はテレビも十分に普及していない,宅配便もない,東京-大阪間が電車で6時間もかかる時代でした.そんな時代にどのようにして歯科医療を学んだのか? と考えると,なんと現在は恵まれていることでしょう.当時は,海外に渡航した英語が堪能なごく限られた歯科医師だけが海外の最先端の歯科医療に触れ,大きな刺激を受け,日本の歯科医療の今を創ってきたのです.時代背景を考えるとその努力は計り知れません.
 近年,日本の歯科医療を牽引してきたこうした著名な歯科医師たちが高齢となり,次々とこの世を去っています.
 過去の著名な歯科医師たちが切り拓いた歯科医療は,決して過去のものではありません.
 ただの伝説的偉業ではなく,今に通じる価値ある歯科医療がそこにはあるのです.
 私は,父から歯科医療の多くを学び,多くの著名な歯科医師を知り,多くの影響を受けてきました.
 何も考えず,ただ目の前の患者をこなし,生活のため,稼ぐために働いていた駆け出しの頃を思い出すと恥ずかしくて言葉も出ません.
 でも,その時期を恥ずかしいと思えるようになったことは,とても幸せなことなのだと思うのです.
 近年,歯科医療の技術進歩は目覚ましく,患者さんへの普及によってQOLの改善に大きく貢献しています.ですが,歯科医師や歯科医療従事者が父の時代より幸せな時代になっているか? と考えると「昔は良かった」ときっと言われると思うのです.
 これほど恵まれた環境にありながら,決して良い時代とは言えないのです.
 歯科医療は,残念ながら世の中から決してよい話題とならなくなり,若き歯科医師に,そして次世代への継承にさえ不安を抱かせているのが現状です.
 歯科医療の現状は,急にこのようになったものではありません.今日まで歯科医療が積み上げた結果が今を創っているのです.だからといって過去の歯科医師たちや歯科医師会,行政,制度に文句を言っても,何か変わるとは思えません.
 今,目の前で起きている自分自身の歯科医療の現状は,“ 自分” が積み上げてきたことの結果なのです.
 私は,歯科医療の師である父から,語り継がれたパンキー先生をはじめとする著名な歯科医師が築いた“ 伝説の歯科医療” を知りました.
 その教えはひとりの歯科医師として,そして歯科医院の経営者として,乗り越えなければならなかった“ 壁” にぶち当たるたびに,私に大きな力をくれました.
 歯科医師となり30 年となる今,私は開業歯科医師の仕事が楽しくて仕方ありません.
 社会的にみても誇りであり素晴らしい職業だと思うのです.
 なぜこんなに奥深く面白い職業に就こうとする人が減ってしまうのか?
 チーム医療の一員であるはずの歯科技工士や歯科衛生士の離職率が高いのはなぜ?
 こんなに素晴らしい仕事なのに,どうして患者さんは歯科医院を嫌うのでしょう?

 「歯科医療って,本当にいい仕事だよ!」
 「歯科医院って,行きたくなるところだよ!」

 この本を手にとってくださったあなたの歯科医療を,そして歯科医院をこんなふうに変えることが,この本の使命です.
 見たことも聞いたこともない歴史上の人物のような“ 伝説の歯科医療” を創った歯科医師たちが残したものに「昔の話」と興味を持てないのもうなずけます.しかし,今,歯科界以外の業界では大企業が過去の記録や書物をきっかけに大きな変革を遂げています.教育においても明治大学教授の齋藤孝先生が『こども孫氏の兵法』や『小学生のための論語』などを出版し爆発的に売れているのです.
 三越伊勢丹ホールディングス社長の石塚邦雄氏は,2008 年経営統合に合意する際,三井呉服店を百貨店の三越に変革した日比翁助という先覚者の口述による『商売繁盛の秘訣』という100年も前の書物を2006 年に手にし今も通用する内容に驚いたと言います.そこには「昔と今とは商売の仕振が違ってきた」とはじまり「己れ利せんと欲せば,先ず人を利し.己れ達せんとせば,先ず人を達せしめよ.是れ商売の秘訣なり」と記されています.
 元伊勢丹社長の武藤信一社長はこの書物を読み,「すごい本だ」と共感し,心を一つに三越伊勢丹ホールディングスは生まれたと言います.
 閉塞した歯科医療経済も“ 伝説の歯科医療“ に見る“ 歯科医療の原点” が改革の大きな力となるでしょう.
 “ 伝説の歯科医療” は,ごく限られた歯科医師だけに語り継がれてきました.
 すでに多くの書籍は絶版となり,伝える歯科医師の高齢化も進み,伝えることも難しくなっています.
 “ 伝説の歯科医療“ は決して“ 時代遅れの過去のもの” ではありません.
 そこには,最新のエビデンスによって解明される,これからの,どのような時代の変化にも耐えうる,歯科医療の根幹となる“ 哲学” があるのです.
 その哲学が,私の歯科医療哲学を創ったように,あなたの歯科医療を強く逞しく育てることでしょう.
 この本は,私と同じように弱く,時代の流れに押し流されてしまいそうな,孤独な歯科医師の心に響き,成長させ,患者さんを幸せに導く,偉大なる歯科医師たちが伝えた“ 伝説の歯科医療”への感謝を込めて次世代へ語り継ぐために書きました.
 この本に綴られるたくさんのエピソードは,あなたの歯科臨床のワンシーンであり,その物語(ナラティブ)はあなたの心に届くことでしょう.
 “ 伝説の歯科医療” は,必ずあなたの歯科医療を,そして歯科医療の未来を明るく照らす光となることでしょう.
 2016 年12 月 山田晃久

先ず,隗より始めよと
 父は,私が知る限り一度だけ入院したことがありました.
 数日の入院でしたが,病床の父に,母が「息子に言いたいことはないの?」と言うと急に厳しい視線になり,こんなことを話してくれました.

 「今の歯科界の現状は,今まで歯科医師がしてきたことの結果なんだ.患者さんを見くびった報いだ.患者さんは,歯科医師が本当に誠実か? 真摯な態度か? ちゃんとみている.素人だから,なんて甘くみたらいけない.常に誠実に,真摯に患者さんに向き合いなさい」

 「先ず,隗より始めよ」とは,遠大な事業や計画を始めるときには,先ずは手近なところから着手するのがいい.また,物事は言い出した者から始めよというたとえ.
 「隗(かい)」とは,中国の戦国時代の人物,郭隗(かく・かい)のこと.
 どうすれば賢者を招くことができるかと燕(えん)の昭王(しょうおう)に問われたときに郭隗が,「まず私のような凡人を優遇することから始めてください.そうすれば優秀な人材が集まってくるでしょう」と言ったという,『戦国策・燕』(紀元前476 年)にある故事に基づく.

 患者さんに誠実で真摯な歯科医療を実践しようとするとき,いくつもの現実的障壁に突き当たります.
 例えば,治療に先立ち患者さんにわかりやすく納得していただけるような説明をしたいのですが,現行の医療制度ではいくら時間をかけて患者さんに説明をしたところで,それに見合った報酬はもらえません.話せば話すほど経営的にはマイナスなのです.ここで葛藤が生まれるのですが,多くは「背に腹はかえられない」と患者さんと話す時間を削ります.
 こんなとき,設備や器材,人材や技術,政策や制度に理想を求めがちですが,これらを実現するには多大な負担を強いられるのです.
 いきなり大きな設備投資をしたり,有能な人材を集めようとしたり,政策や制度に反論するのではなく,まずはひとりひとり来院される患者さんに,そして今いる身近なスタッフに対し誠実に,真摯に向き合うことが大切だと父は言うのです.
 父はその思いを誰よりも身近な私に伝えたのです.
 そして,その考えを知った私自身が,実践し,さらに理想とする歯科医療に近づけることが“ 継承” だと思うのです.

歯科医療という素敵なステージで
 歯科医療の真実の物語は,とても感動的で,素晴らしいミュージカルのように素敵です.
 私は,この50 年ほど,すっかり歯科医療に心奪われて,幸せな日々を患者さんの感謝と希望に満ちた眼差しの中で過ごすことができました.
 感謝は胸一杯で溢れそうです.
 歯科医師と結婚した55 年2か月,泣いたことのないほど幸せに満たされていました.
 ともにミュージカルの中に居たのです.
 ある日,講演先で歯科医師の奥様で歯科衛生士の方からこんなお話を聞きました.
 「私はこんな小さな世界よりもっと大きな世界に出たい…」
 顎口腔系という小さな範囲ということ?
 そこには硬組織,軟組織,反射機能等々,全身的な健康状態,その方の生活状況から社会に至るまでの今を,そしてそこから世界を…….
 私は主人とともに無限の宇宙までを感じていました.

 歯科医療のもつ愛と,それを愛する患者さんとスタッフをこよなく愛した彼が,歯科医師の皆様に伝えたかったことをお伝えしようと思います.
 山田桂子

Special Thanks
 この本があなたの手に届いたのは,母であり父,山田康彦の妻であり,ともに歯科医療のステージに立ち続けた山田桂子の思いに他ありません.
 父とともに経験した歯科医療のシーンは,とてもドラマチックなものでした.
 父が他界した後,毎月母のもとに行くたびに話されるその物語(ナラティブ)は,歯科医療の本当の素晴らしさを語っていると感じました.
 その母の思いが,周囲を動かし,私を動かし,こうして書籍となったのです.
 それは,歯科医療に生涯を捧げた父の思いでもあるのです.
 母が,親として,妻として,歯科医療者として,歯科医師である父と私を支え続けてくれることに感謝しています.
 その母の近くでいつも母を気遣い支えてくれる妹の浩子の存在あってこそ,母が元気でいられるものと感謝に堪えません.
 父が出会いを与えてくれた先生方は,どなたも惜しむことなく歯科医療を語り,その情熱は若き歯科医師を奮い立たせました.
 時代をリードしてきた歯科医師は,周囲に大きな影響を及ぼすのです.
 それが,歯科医療の未来を創っていくのです.
 父から与えられた,この偉大な歯科医師たちとの出会いに感謝しています.
 また,臨床の傍ら大量の書籍に埋もれながら作業する私を気遣い,私以上に患者さんと真摯に向き合い,頑張ってくれるスタッフの存在がいかに大切であるかを痛切に感じ,感謝の気持ちでいっぱいです.
 そして,深夜,明け方まで明かりが消えない私を気遣い,そっと見守ってくれた家族に感謝.

 この本に関わったすべての方々に………「ありがとうございます」
 この本の執筆にあたり,古くから母の論文,書籍に関わり,今回の書籍出版の機会を与えてくれた医歯薬出版株式会社に感謝するとともに,母の書籍『笑顔と心と会話がつくる素敵な歯科医院 プロフェッショナルサービス&マナー』(2006 年出版)に続きこの本を担当して頂いた大城惟克氏には,父と母の大きな思いを形にするため,その監修に,至らぬ私に温かい期待の言葉をたびたび頂き,慌てず騒がず原稿の完成を待って頂いたことに感謝の思いは尽きません.
 Prologueプロローグ
  語り継がれる“伝説の歯科医療”に感謝の思いを込めて
  先ず,隗より始めよと
  歯科医療という素敵なステージで(山田桂子)
  Special Thanks
  Imprinting刷り込み
  この本の構成
Chapter 1 知られざる先人の教え
 現代日本の歯科医療を取り巻く環境(山田康彦)
 歯科医療への道 Part 1 “職人芸“から“医療”へ
  偉大なる歯科医療の改革者たち I─ D.R. Beach
   歯科医療の目的 HC-0
   Health Care-0
   歯科医療の5原則
  偉大なる歯科医療の改革者たち II─ L.D. Pankey
   パンキーフィロソフィ
   パンキーのデンタルIQエレベーション
 歯科医療への道 Part 2 “職人“から“医療者”へ
Chapter 2 Techniqueテクニック
  Episode-1 技術の習得
  Episode-2 経験と実績と
  Episode-3 技術の習得と歯科医療のセンス
  Episode-4 たかがスタディーモデル?
  Episode-5 「患者を殺してもいいから抜け!」覚悟
  Episode-6 歯を削ることの罪悪
  Episode-7 こうして治療技術は進歩した(1)
  Episode-8 こうして治療技術は進歩した(2)
  Episode-9 芸術家としての歯科医師
Chapter 3 歯科医療の自由を求めて
 自由への5ステップ The Winning Combination─ A Philosophy
 Section 1:Mission 使命
  Episode-10 「腕がよければ患者は集まる」という幻想
   COLUMN Why? がMissionを創り出す
  Episode-11 人間歯科医療の提唱(山田康彦)
  Episode-12 「患者さんに愛される歯科医になるのだよ」(山田桂子)
 Section 2:Philosophy 哲学
  Episode-13 経営者になる
   COLUMN 歯科医師の人生:Cross of Life,Cross of Dentistry
  Episode-14 覚悟を決める(山田康彦)
  Episode-15 至福の時
   COLUMN Professionプロフェッション
   COLUMN Cross of Dentistry
  Episode-16 ポリシー Policy(山田康彦)
  Episode-17 「先生」と呼ばれて
   COLUMN デンタルコミュニケーション P& IC(山田桂子)
  Episode-18 日本一の歯科医師(山田桂子)
   COLUMN あなたの患者を知りなさい
  Episode-19 患者の視点 医療消費者化する患者
 Section 3:Goal 目的
  Episode-20 権威の弊害
   歯科医療学のすすめ(山田康彦)
  Episode-21 患者は医院の鏡
   「歯科医療学」の成立(山田康彦)
  Episode-22 予防大国スウェーデンにて(山田康彦)
 Section 4:Target 目標
  Episode-23 初診時の患者さんとの対話
   第一印象は2度とない 一期一会(山田康彦)
  Episode-24 診療室内での対話
   緊急対応の効果
  Episode-25 1口腔1単位の治療
   Wチェック法によるCo-Diagnosis共同診査
  Episode-26 親子診療の悲劇
   患者中心=患者の言いなり?
   COLUMN 5つの歯科医療
 Section 5:Management 管理
   Father's Pick 待合室のイス(山田康彦)
  Episode-27 ある歯科医院での体験(山田桂子)
   Father's Pick 花を飾る(山田康彦)
   COLUMN インフォームド・コンセント
   患者をマネジメントする
   COLUMN “痛み”は患者の権利
   継承とは
   Father's Pick 医院衰退の徴候(山田康彦)
   Father's Pick 聞くことの芸術(山田康彦)
   歯科医療の証─揺るぎない経営基盤の構築
   Father's Pick 感情を明確化する訓練(山田康彦)
Chapter 4 行動変容理論のエビデンスが解明する“伝説の歯科医療”
   行動変容理論が歯科医療を変える
   変化のステージ Trans-theoretical model
   実例で示す行動変容
   行動変容のための5つのステージ
   ステージを登ろうとしている患者さんへの支援のしかた
   COLUMN 疾病構造の変化と超高齢社会
   COLUMN マズローの欲求論
   問診vsインタビュー:双方向性のコミュニケーション
   COLUMN “聴く”ことの難しさ
  Episode-28 治療計画提示の魔法(山田桂子)
   COLUMN Quid Pro Quo
  Episode-29 最高の歯科衛生士(山田桂子)

 Epilogueエピローグ あとがきにかえて