やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

プロローグ
 その“不思議な教師”に初めて会ったのは,ある暑い夏の日で,先代から歯科医院を引き継いで2年が経った頃のことだ.
 僕はそれまでいくつかの歯科医院で働き,どの医院でもスタッフや院長と良好な関係を築いてきた.最後に勤めた医院では,副院長という立場で大勢のスタッフを率いていたし,退職の際には“世界一の副院長”として盛大なパーティで送り出してもらった.世界がすべて味方になってくれたような気分だった.
 ところが経営者になった途端,その世界はがらりと変わってしまった.
 とくに,それまで自分が仕事をするうえで常識と思ってきたことが,自分の診療室のスタッフにも患者さんにも通用しないことに愕然とした.イライラする毎日.僕は疲れはてていた.
 「経営者は孤独なんだよ」とは,以前にお世話になったベテランの院長のコトバ.自分が経営者になってみて初めて体感する,重みのある言葉だった.そんな頃,心理学を勉強し始めた僕は,ミルトン・エリクソン博士のことを知った.
 ミルトン・エリクソン博士(1901-1980)は,20世紀に活躍したアメリカの精神科医・心理学者だ.彼は心理療法の世界をたった一人で覆してしまった.博士の技法は独創的で,普通の会話をしながら絶妙な言葉のニュアンスを使って短時間,そして短期間で相手の心の問題に対処した.ときには,日常会話だけで相手を催眠状態に入れたこともあったという.
 博士のアプローチは死後になって,遺されたテープや記録,ビデオなどから弟子たちによって研究・分析され,多くの書籍が出版された.いまでは精神医学のみならず,カウンセリングや広告・プロパガンダ,そしてビジネスなど,“コミュニケーション”が関係するあらゆる分野に影響を与えている.]
 インターネットでいろいろ調べてみると,エリクソン博士の考え方をベースにした“メディカル・ダイアローグ”という医療者向けのコミュニケーションセミナーを見つけた.セミナーはインターネットでのみ不定期に告知され,あっという間に定員になるため,僕はさっそく申し込んだ.
 セミナー当日.教室に指定されたアパルトマンは,労働者や移民が多く住むエリアにあった.古い建物のかなりくたびれたエレベーターで5階に上がると,フロアの一番奥が,その“不思議な教師”の教室兼住居であった.
 僕は,勇気をふりしぼってドアのチャイムを鳴らした.
 中から出てきたのはもじゃもじゃ頭の大柄な,メガネをかけた青年.セミナーの主催者だった.ただ,短パンにTシャツという,医療分野のセミナーの教師としてはあまりにも開放的な恰好をしていた.
 セミナーはダイニングキッチンで“彼”を囲み,緑色のキャンプ用の椅子に座って行われる.部屋の広さをみると,せいぜい5人が限度だろう.正面にホワイトボードがあり,反対側の壁の本棚には,普段僕たちが目にすることなどない古今東西の心理学,精神医学から催眠療法をはじめとする心理療法の本などが並んでいる.そのほかにも現代思想や論理学,倫理学,そして哲学の本がぎっしり並んでいた.もじゃもじゃ頭の彼のイメージどおりなのは,本棚の隅にあった恋愛テクニックの本くらいだろう….
 部屋の隅の冷蔵庫の上には,受講生を見下ろすかのようにカエルの親子がベンチに座った金属製の置物がある.とても不思議な雰囲気の部屋だった.
 そして,僕たちはその日から数カ月間,この不思議な教室で,不思議な教師の話に笑い,驚愕し,納得しながら,患者さんとの関係を考えていくことになる.
 プロローグ
Lesson 1 “私”を知る―コミュニケーションの前に
Lesson 2 “無意識”を知る
Lesson 3 無意識下の“望み”を知る
Lesson 4 相手の望みを“訊く”
Lesson 5 意味不明・実現不可能な望みには?
Lesson 6 選択肢を提示する
Lesson 7 相手との関係を切らないためのスキル 1―イエスセット
Lesson 8 相手との関係を切らないためのスキル 2―2つのコミュニケーションを使いこなす
 エピローグ
 あとがき