やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに
 補綴はしばしば他の分野から批判されるようだ.その理由の一つは,「何十年も変わりばえがしないから」ということであろう.しかし考えてみると,接着,CAD/CAM,レーザー溶接,インプラントなど,私が入局したときに比べて,格段の変化が見られる.したがって,新しい治療技術や知識も取り入れてきたことは確かである.
 その一方で,変わっていないことは何か?一番変わっていないのは,全部床義歯の教科書であろう.では,なぜ変わらないのか?そこには普遍性があるからで,インプラント治療を含む補綴治療に関する基本的な内容が凝縮され,それを学ばなければ望ましい補綴治療ができないからだと思っている.
 もう一つ,揶揄される理由に,「補綴は科学的でない,論理的でない」ということがあるのだろう.
 しかし,過去10年で急速に進歩した先端科学といわれるゲノム研究においても,遺伝子の配列をすべて調べても本質には至らなかった.たとえばヒトと線虫を比べても,遺伝子の数に大差はないし,ヒトのみに存在する遺伝子はきわめて少ないこともわかった.脳研究においても,機能の局在化を突き詰めると同様のようであり,いわゆる物事を細かく分析し真理を探求する限界(モジュール化の限界)がいわれるようになっている.
 その一方で,「複雑系」といわれる多数の未知の因子が関係したシステムは,複雑そのものの振る舞いを観察することが重要とされる.補綴治療もそうである.考慮すべき因子が膨大で,取り巻く環境も不確実で,結果も何年後かに現れてくるので,フィードバックも得られにくい.細かな分類,一つの方法,一つの過程に注目しすぎると,全体のバランスを損なうことになる.
 「なぜ直感のほうが上手くいくのか?『無意識の知性』が決めているからである」というマックス・プランク人間発達研究所の所長の本が出版されている.統計の大家がいっているから,これもなるほどと思ってしまう.
 では,日々,どうしたらよいのだろうか?平凡な答えながら,まずは基本とされるしっかりした知識や技術の幹をつくることである.補綴治療成功のためには,この作りあげた基本を今度は素直に批判したりあるいは補ったりして,幹の枝葉を広げていくことが,遠回りのようで,実は近道と考えている.
 本書は,フルバランスドオクルージョンを突き詰め,最終的にリンガライズドオクルージョンに至り,体系化した松本直之の考えをもとに,リンガライズドオクルージョンというキーワードで咬合を俯瞰し,義歯とインプラントの両方の症例も加え,解説している.
 リンガライズドオクルージョンは,初心者にも理解しやすく,しかもその概念には,力学的な問題,舌房の問題,咬合位の修正,ロングセントリック,支持組織と対合歯の保護,リデュースドオクルージョンなど,さまざまな咬合に関する要素が包含されている.若い人の場合,義歯とインプラントは全く異質なように思いがちであるが,義歯もインプラントも咬合というもののうえでは,同じ俎上に載るというわけである.
 本書が「複雑系」であろう咬合を理解する1本の幹の形成と,義歯とインプラントの治療の判断を大きくまちがわない「無意識の知性」の形成に少しでも役立てば幸いである.
 平成22年9月 市川哲雄
I章 咬合の基本的なとらえ方
 補綴治療の成功のレベルと咬合
  1.補綴装置の安定を得ること
  2.咀嚼機能を回復させ,審美的にも患者を満足させること
  3.インプラントや義歯で回復した機能と形態を長期間維持させること
 どうして義歯で咬合が大切か
 どうしてインプラントで咬合が大切か
 咀嚼過程における咬合の意義
 治療過程における咬合の意義
 下顎運動における咬合の意義
II章 咬合の基本的な構成
 咬合の要件
  1.患者の許容できる咀嚼・嚥下(+構音)過程を発現できること
  2.患者の許容できる範囲内に義歯の動揺を減少させる要素をもつこと
  3.中心咬合位が顆頭安定位にあり,残存機能(および形態)と調和した人工歯の排列位置をもつこと
 咬合位
  1.咬合位と下顎位,中心位と中心咬合位
  2.中心位の定義
 咬合接触
 歯列の連続性
 咬合様式
 下顎運動と機能運動
 主機能部位と圧搾空間
 安定と遊び
 欠損の分類と咬合
  1.欠損の分類
  2.咬合三角での咬合接触の考え方
III章 診断用ワックスアップと咬合位の設定法
 診断用ワックスアップで何がわかるか
  1.診断用ワックスアップの有用性
  2.診断用ワックスアップの意義
  3.診断用ワックスアップでわかること
 咬合採得で何を考えるのか
 咬合平面の設定
 咬合堤の頬舌的位置関係/人工歯の頬舌的位置関係
 垂直的顎間関係の決め方
 水平的顎間関係の決め方
 咬合床の固定法/実際の採得手順
 フェイスボウ,顆路測定,咬合器装着
 チェックバイトとリマウント
IV章 リンガライズドオクルージョン
 なぜ,いま,リンガライズドオクルージョンなのか
 さまざまなリンガライズドオクルージョン
  1.PayneのModified Set−up法
  2.Poundのリンガライズドオクルージョン
  3.Gerberの顆路説とリデュースドオクルージョン
 リンガライズドオクルージョンの本質
  1.リンガライズドオクルージョンの利点
  2.リンガライズドオクルージョンの考慮点
 各種人工歯を用いたリンガライズドオクルージョンの排列と調整法
  1.リンガライズド臼歯
  2.デュラクロスフィジオ
  3.バイオリンガ
  4.e-Ha Qクワトロブレード
V章 咬合調整法の実際
 全部床義歯の咬合調整法の実際
  上下顎とも全部床義歯の症例
 遊離端義歯の咬合調整法の実際
 インプラント義歯の咬合調整法の実際
  1.下顎インプラントオーバーデンチャーと上顎全部床義歯の症例
  2.下顎ボーンアンカードブリッジと上顎全部床義歯の症例
  3.上下顎ともインプラントボーンアンカードブリッジの症例
  4.まとめ
COLUMN
 維持,支持,把持
 義歯は動いて力を負担する
 咬合紙
 顆頭点:蝶番軸,全運動軸,運動論的顆頭点,そして生物学的な顆頭点へ
 ニュートラルゾーン
 Dawsonの顎位誘導法
 咬合採得用リム
 ゴシックアーチ描記法
 6顆頭球咬合器とLL85咬合器
 咬合とEBM
 咬合干渉
 バッカライズドオクルージョン
 選択削合
 リジッドサポートの考え方

 引用文献
 さくいん
 あとがき