やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに
 この本を作成するにあたり,歯科医院内で発生しうる緊急事態に対して,歯科医師が独自の判断で対処することが可能である,または必ず対処しなければならないものとは何か?を考えました.そして,その考えに基づいて,それらの対処法の流れ図(以下アルゴリズムと言います)を作成しました.ここで示したアルゴリズムを構築するにあたっては,最近巷ではやっているアメリカ心臓協会(American Heart Association;AHA)の一次救命処置(basic life support;BLS)の考え方に基準をおいて,矛盾なくまた混乱のないようにつくることに重点をおいています.
 緊急事態への対処の基本とは
 (1)意識,反応を確認すること
 (2)呼吸を確認すること(気道の開放,自発呼吸の確認)
 (3)循環状態を確認すること
 という非常に古典的な流れで確認から始めて,そのアルゴリズムに従うことによって病態の診断がつくように考えています.「反応がなく,呼吸がない」という心肺停止状態では,そのままアメリカ心臓協会の示した一次救命処置のアルゴリズムに沿って,対処しなければなりません.最終的には自動体外式除細動器(automated external defibrillator;AED)の使用になります.
 では,歯科医院で発生する緊急事態とは何かを考えてみましょう.明らかに「意識・反応があり」であることが多く,ただ具合が悪いと判断されることが圧倒的に多いことは容易に想像できます.したがって一次救命処置を知っておくことはもちろん必要ですが,それに遭遇するのは,おそらく歯科医師が一生のうちで一度あるかないかでしょう.発生頻度から考えますと,遭遇しうる緊急事態とは多くが「意識がある」状態ですから,まずそれを即座にそして間違いなく分析し,対処できることが重要であると考えます.
 緊急事態に遭遇すると,頭の中が真っ白になり,何をどう考えていいかわからなくなりがちです.したがって,アルゴリズムはあまり深く考えなくとも,病態やそれに対応する処置を判断できるようにつくられたものです.大切なのは「いま自分が何をしているか,何を考えなくてはならないか」です.今自分がそのアルゴリズムのどこに相応しているかを常に考えて,次に進んでいくことを忘れないようにしなければなりません.
 さて,歯科医院で起こりうる緊急事態を考えますと,いくつか特徴的なことがあげられます.患者さん,またはその付き添いの方は歩いてまたは車椅子にて来院してくるのであり,決して瀕死の状態でまたは救急車で来院されているわけではありません.そこでは交通事故のように突然の大きな外傷が生ずることもありませんし,溺水などもありえません.産科救急もなく,万が一それが起きたとしても歯科医師が対処することは適当ではありません.こうしたまったくの専門外の事態には救急体制にいち早く連絡をとることが重要です.幸い日本では,119番に通報してから救急車が到着するまでには,長い時間を(10分もかからないであろう)必要としないことが多いので,例外的な場合にも一つひとつ備えるよりも,緊急体制をいかに早く呼ぶかを考えるべきです.緊急事態のすべてを網羅している分厚い救急蘇生学の教科書を端から順に読んで勉強しておくことは,決して悪いことではありませんが,実際的ではありません.また,おそらく一度理解してもすぐに忘れてしまいます.それに経験のない処置はできません.したがって本書で扱う緊急対応とは必要最低限とするほうがよく,混乱が少なく,わかりやすいようにしなければならないと考えました.また,医療関係者のための救急蘇生法は成人・小児・乳児の3つに分けて,それぞれについて講義実習が行われます.しかし本書では成人と小児を対象とし,乳児の蘇生法については補足としました.歯科医師が対処するのは主に成人と小児であり,これらについてしっかりと身につけていただければよい,と考えております.
 一方,歯科医師は急な患者の状態の変化に即座に対応して,静脈路を確保することは困難であることが多いようです.現在の大学における卒前・卒後の歯科医学教育の中で十分なトレーニングがなされていないことにもその原因があると言わざるをえませんし,毎日緊急の現場で処置を行っている医師・救急隊の方と同じに対応することは難しいと思われます.歯科医院で働く一人二人という少数の歯科医師が,そこにいるスタッフと一緒に確実に行えることに限定するほうが実践的と考えて,最低限の処置を厳選しました.これについては私が北米における歯学部での卒後研修制度の中で行われている救急蘇生講習会に参加して,そこで知り得たことを参考にしています.したがって,内容は北米方式に似たものになっているかもしれません.緊急対処に使用する薬剤の経済性も考えました.何でもかんでも薬を揃えていたのでは無駄であり,また使えない薬をもつ必要はありません.間違って使用したとして,害の少ないものを考えています.したがって,薬剤の種類も極力少なくするように心がけました.なお,今回本書で取り上げた緊急薬剤による対処法は平成17年度日本歯科医学会委託研究課題「歯科におけるBLSコース研修システム構築に関する研究」(仲西修ほか)において発表された内容とかなり一致した内容となっていたことをここに加えさせていただきます.こうした公の研究と本書における著者との考えに隔たりがなかったことは,今後の歯科医療における救急対処法に一つの方向性が確立されてきたことを示唆するものと思われます.
 本書の内容は病院の一線で活躍された後に,医院を開業された先生方には物足りなく,また歯科医師の技量を軽くみていると憤慨される方もいるかもしれません.しかしすべての歯科医師が行うべき最低限の処置であることを理解していただきたく思います.対処できない状態についてはすべて救急体制の呼び出し,具体的には119番へ通報することを最重要項目としますが,またある程度のところまで対処したら救急隊に適切に引き継げるようにするために必要なことは何かをも考えています.以上の点をご理解していただき,少しでも歯科医療の安全な遂行に寄与できることを期待いたします.
 最後に,本書を作成するにあたり,新潟大学大学院医歯学部総合研究科救命救急医学分野の遠藤 裕教授,新潟市民病院救命救急センターの田中敏春先生に多大なるご協力をいただきましたことに深甚なる感謝の意を表します.
 著者
 はじめに
I 緊急事態で使用できるように常に準備するもの
 1─歯科医院内で生じうる緊急事態に限って準備するもの
  1)器械
  2)薬剤(最低限の種類として)
  3)その他
 2─選ばれた器械,薬剤がどうして必要なのか,その理由?
  1)酸素ボンベ
  2)血圧計
  3)聴診器
  4)フェイスシールド
  5)点滴セット
  6)緊急薬剤
  7)オプション
II 「対処法の流れ」について
III 歯科緊急事態のアルゴリズムの説明
 1─まず意識の確認,しかしその前に
   要点 痙攣は,ぶつからないように保護.そして気道を確保
 2─意識レベルの確認
   要点 肩を叩いても反応なしはJCSで3桁の意識障害
   要点 ショック症状は顔面蒼白,ぐったり,冷や汗,弱い脈拍,息苦しさ
 3─自発呼吸の確認
   要点 あえぎ呼吸は呼吸ではない.人工呼吸が必要
 4─呼吸苦の確認
   要点 呼吸苦では,呼吸数,呼吸の深さ,頸部・胸部・背部の呼吸音をチェック
  1)アナフィラキシーショック
   要点 異物による気道閉塞は突然発症,気道浮腫による閉塞は徐々に進行
   要点 アナフィラキシーにはエピペン(エピネフリン)筋注も考える
  2)喘息発作
   要点 患者自身が喘息発作がでていることを確認でき,吸入器の使用の意志を確認できたら吸入させる
  3)過換気症候群
 5─胸痛の確認
  1)「胸部痛なし」の場合
   (1)低血糖発作
   (2)神経性(いわゆる疼痛性またはデンタル)ショック
    要点 神経性(デンタル)ショックは突然発症,一過性
   (3)脳血管障害
    要点 脳卒中は発見したら急いで病院へ
  2)「胸部痛あり」の場合
   ・以前にニトログリセリンを服用したかどうか?わからない人の場合
   ・以前にニトログリセリンを服用したことがある人の場合
    要点 以前にニトログリセリンを服用したことがあるかを確認
 6─AEDを使用した治療アルゴリズム
   (1)始める前に
   (2)意識の確認
   (3)119番通報とAEDの要請
   (4)気道を開放して,呼吸を確認
   (5)自発呼吸がある場合
   (6)自発呼吸がない場合
   (7)頸動脈の触知
   (8)脈拍あり
   (9)脈拍なし
   (10)AEDの到着
    要点 AED,初めに電源だけは確認
   ・電極を貼るときには
    要点 電極を貼る位置は大丈夫?何かあるか?濡れていないか?
   ・AEDの「ショックが必要です」
    要点 ショックの前に全員が離れていることを確認
    要点 ショックは1回,終わったらすぐ心臓マッサージ
   ・AEDの「ショックは不要です」
    要点 「ショックは不要です」は,必ずしも心拍再開ではない
 7─「意識なし」,「自発呼吸あり」の場合の進め方
   要点 緊急時の輸液は生理食塩水
IV アメリカ心臓協会の示した一次救命処置とは何か?
    要点 “成人“とは思春期以降,“小児”とは1歳以上
   ・救命の連鎖
   (1)成人では
   (2)小児では
    要点 意識のない成人では通報が先,意識のない小児では心肺蘇生術が先
 1─救助する者が2人以上いる場合
  1)目前で倒れたとき
  2)すでに倒れていたとき
   (1)成人では
   (2)小児では
 2─救助する者が1人しかいない場合
  1)目前で倒れたとき
  2)すでに倒れていたとき
   (1)成人では
    要点 成人の心肺停止ならば,通報のために現場を離れ,戻ってきて心肺蘇生術
   (2)小児では
    要点 発見が遅れた小児の心停止には,心肺蘇生術を2分間行ってからAED
V 救命処置の実際
 1─成人の救命処置
  (1)始めるまえに
  (2)意識の確認
  (3)119番通報
  (4)気道の開放と,呼吸の確認
   要点 呼吸の確認は「見て」,「聞いて」,「感じて」
  (5)自発呼吸がない場合
   要点 呼気吹き込みは1秒で,吹き込みによって胸が確実に挙上していることを確認
  (6)脈の触知
   要点 脈拍の確認には5秒以上,しかし10秒以上はかけない
  (7)脈拍あり
  (8)脈拍なし
   要点 心臓マッサージは1分間に100回の速さ,押した後は確実に胸が戻るように
   要点 胸部圧迫は乳頭の中間,深さは4〜5cm
   要点 胸部圧迫の後には確実に胸が,元に戻るようにする
  (9)AEDの到着
  (10)救急隊の到着
 2─小児の救命処置
  (1)意識の確認
  (2)周囲に人がいるか,いないかを確かめる
  (3)気道の開放,呼吸の確認
  (4)2回の人工呼吸
  (5)脈の確認
   要点 小児の心拍数60以下は心停止へのプロローグ
  (6)脈がなければ心臓マッサージ(脈が60以下であるなら心臓マッサージ)
   要点 一人法は成人,小児とも胸部圧迫:人工呼吸=30:2
   要点 小児の二人法のみ胸部圧迫:人工呼吸=15:2
  (7)AEDがあったら使用する
  (8)救急隊の到着
 補足─乳児の救命処置
  (1)意識の確認
  (2)応援の確認
  (3)気道の開放,呼吸の確認
  (4)2回の人工呼吸
  (5)脈の確認
  (6)脈がなければ心臓マッサージ(脈が60以下であるなら心臓マッサージ)
  (7)人がいなくて応援を頼めなかったら,助けを求めに近くの電話まで走りましょう
  (8)絶え間なく心臓マッサージと人工呼吸を繰り返します
  (9)救急隊の到着
VI 気道異物の解除法
 1─成人,小児の場合
  1)意識がある場合
   要点 気道閉塞の質問はひとつ「詰まりましたか?」
   要点 剣状突起は決して押さない
  2)意識がなくなったら
   要点 口の中にむやみに指を突っ込まない
   要点 確実に呼気が入りますか?入らなければ頭部後屈のやり直し
 補足─乳児では
  1)意識がある場合
  2)意識がなくなったら
劇画「ある日歯科医院で」
 参考 歯科医師による救急救命処置及びそのための研修の取り扱いについて〔歯科医師法〕
 緊急対処備品チェック項目
 おわりに
 さくいん
Question
 Q─1 酸素ボンベの使い方は?
 Q─2 痙攣(けいれん)って何?
 Q─3 意識程度の判定とは?
 Q─4 死戦期呼吸って何?
 Q─5 喘息発作って何?
 Q─6 それ本当にアナフィラキシーですか?
 Q─7 エピペンって何?
 Q─8 座位って何?
 Q─9 サルブタモール吸入薬(サルタノール)とは?
 Q─10 正しいペーパーバック法とは?
 Q─11 胸痛とは?
 Q─12 脳卒中の臨床所見とは?
 Q─13 片麻痺って何?
 Q─14 脳卒中って何?
 Q─15 急性冠症候群(ACS)って何?
 Q─16 ニトログリセリン(ニトロペン錠)とは?
 Q─17 危険な胸痛とは?
 Q─18 AEDって何?
 Q─19 「ショックの適応ではありません」って?
 Q─20 回復体位(昏睡位)って何?
 Q─21 シンマって何?