やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに
 皆さんは「急に寒気がして熱っぽい.のども痛いし,気持ちが悪い.そういえば,昨日,商談をした相手がやたら咳をして,赤い顔をしていたな.こりゃ,風邪をうつされたかな?」と思ったらどうしますか? そうですね.まずは,今日は早く帰って,布団をかぶって寝てしまう,という方が多いでしょう.しかし,それでもよくならない,翌朝は熱が高くなって,起きるのもしんどい,となったら,どうしますか? おそらく,近くのお医者さん(医療機関・病院・診療所・クリニック・医院などと,いろいろ種類がありますが,要は医師がいて,医療を提供するところです.以下,「病院」で代表します)へ行かれる方が多いと思います.近くの病院へ行くと,待合室には同じように熱を出したり,咳をしている人が何人もいて,そこにおなかを壊した小さな赤ちゃんを抱いたお母さんや,リハビリをしに来たお年寄りも混じって,じっと座って順番を待っている,という光景がみられます.これらの子どもさんやお年寄りのなかには,今夜,家へ帰ってから同じように熱を出したり咳をするようになる人が何人か出るに違いありません.感染性の疾患にかかっている人とそうでない人が狭い部屋の中で一緒にいるということ自体,感染症が広がる条件の一つなのです.病院で風邪をもらってしまった赤ちゃんやお年寄りのなかには,命にかかわる重大な合併症を起こしてしまう人もいるかもしれません.そうなったら,その人たちにとっては,病院へ行ったことが取り返しのつかない大事件に巻き込まれてしまうきっかけとなってしまったわけです.このように,医療機関というところは,「たまたま,そこにいる」というだけで,運悪く感染症をもらってしまう場でもあるのです.
 「病院に行って,病気になる」ということはこの本を手にとられた一般の皆さんにとって,とても理不尽なことと思われるでしょう.病院は病気を治すために行くところであり,そこで新たに病気にかかる,それも他人からうつされた病原体によって感染症になるということは本来,あってはならないことだ,と思われる方が多いと思います.その気持ちは全く自然で,もっともです.ところが実は,病院というところは理論的にも感染の起こる条件が完全にそろった,非常にリスクの高い場所なのです.そしてもう一つ,意外なことを付け加えると,実際に病院で起こる感染症の大部分は,他人からもらった病原体によって起こるのではなく(もちろん,この例のような形のものもありますが),本来の病気に対する治療行為の結果,もともと自分の体の中に潜んでいた病原体が勢いを得て,感染症の症状を起こすようになったものなのです.このように言うと,医療従事者の言い訳のように思われるかもしれませんが,これは事実であり,このことをよく理解したうえで,本当に有効な予防対策を正しい戦略,戦術に従って実行しないかぎり,病院での感染(院内感染)を防ぐことはできません.そしてそのためには,医療従事者のみならず,患者として当事者となる一般の皆さんも一致協力して,感染予防対策に取り組むことが大事なのです.
 最初の風邪の例でいえば,風邪の患者とそれ以外の患者とを同じ待合室で一緒に待たせている病院の側に問題があります.感染症の患者とそうでない患者とは待合の場所を別々にする必要がありますが,それだけではなく,これから風邪症状でかかろうとする患者の側も,あらかじめ電話で症状を伝え,他の患者とは別の部屋で待てるよう,準備してもらうことが重要です.
 また,あなたが不幸にして,何かの病気で入院することになったとします.あなたにとって,自分が院内感染に遭わないということは切実な願いでしょう.しかし,病院というところは感染症の病原体がいて当たり前のところであり,注射にせよ,内視鏡検査にせよ,病院で行われるありとあらゆる検査や処置,治療という医療行為は,感染予防対策が正しく行われていない場合まさに感染を起こす危険そのものなのです.そこで,自分の体に加えられる医療行為について,ただ医療従事者まかせの受け身の姿勢であるだけでは,感染の危険を避けることはできません.
 これからこの本のなかで院内感染,すなわち病院でかかる感染症について,そのあまり知られていない事柄,特に結果ばかりが取り上げられるマスコミ報道では触れられることが少ない,感染成立の基本的メカニズムや実際の医療状況,そしてそうした理論と現実との相克のなかから導かれる望ましい感染予防対策のこと,さらには患者になる身として感染に遭わないために知っておきたい知識,感染を防ぐために必要なことなどについて,述べてみたいと思います.
 院内感染の予防は,患者のみならず医療従事者のすべてがそうありたいと願っている,病原体との戦いです.その戦いでの勝利をめざすということでは,患者と医療従事者の目的は完全に一致しています.この本を読んで,そのような気持ちで医療を見てくださるようになっていただけたら,筆者としてこれに勝る喜びはありません.
第I章 感染症はどうして起こるのか
 人類の歴史と感染症
 感染症はどんなときに起こるのか
 感染の三要素
 病院は感染の起きやすい条件がそろった場所である
第II章 病院でかかる感染症
 病院外から持ち込まれる感染症と病院内でかかる感染症
 どんな人がかかるか,による分類
 病院での感染はそこにいる全員で予防するもの
第III章 病院へ行くときには何に気をつけたらよいのか
 病院へ行って感染症をもらわないために
 感染症で病院へかかるときの注意
第IV章 感染症にかからないための一般的対策
 感染を予防する対策の考え方
 身を守るために自分で心がけること
第V章 病院内で注意が必要な特定の感染症
 メチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)感染症
 血流感染(点滴の感染)
 手術後感染
 肺炎
 尿路感染
 腸炎
 結核
 疥癬
 麻疹・水痘
 風疹
 肝炎ウイルスなどの血液感染性ウイルス疾患
第VI章 今,病院ではどんな感染予防対策が行われているのか
 感染を予防するための病院設備
 感染を予防するための器材・薬品
 消毒について
 抗菌薬について
 感染予防対策のソフトウェア
 感染に対する患者の意識の変化
 感染リスクマネジメントのために必要なこと
 介護療養型施設での施設内感染
第VII章 家庭でできる簡便な感染予防対策
 家庭で暮らす人は正常の防御力を持っている
 家庭での一般的感染予防対策
 病院から退院して家庭に戻った人についての注意
 家庭での口腔ケアについて
第VIII章 予防接種について
 予防接種の意義
第IX章 特別な感染予防対策〜新生児・未熟児および免疫不全患者について〜
 新生児・未熟児の場合
 免疫不全患者の場合
 熱傷患者の場合
第X章 望ましい院内感染予防対策とは
 これまでの感染予防対策の反省
 望ましい感染予防対策
・あとがき