やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに
 野林厚志/のばやしあつし
 国立民族学博物館学術資源研究開発センター
 生物学的には同一の代謝メカニズムを持ったホモ・サピエンスの食生活が,時間的にも空間的にも多様であることはおおむね同意が得られることであろう.そのひとつの要因にあるのは,ホモ・サピエンスが食べ物を料理として摂取するからである.
 個体の咀嚼や消化を代替させるために外部のエネルギーを用いて加工するとともに,生態資源を組み合わせ,味つけをすることによって,食べることへの関心をホモ・サピエンスは高めてきた.また,料理とそれによって成り立つ食事は,人々の嗜好,経済状態,響宴や日常といった機会の種類,人間関係や分配の様式,信仰といった文化的,社会的要素によって規制され,それが継承されていくことによって,各社会における食の文化的ルールが確立していく.食の人類史の根幹は,食べるという生態学的な行為から,食事という満足感や幸福感を伴う文化的な行為への変換ともいえる.その結果,ホモ・サピエンスは地球上のあらゆるところに拡散し,そこで新たな文化を切り拓き,多様な食形態を生み出してきた.
 ところが,食の文化的ルールは時に人々を悩ませることがある.異なるルールを持つ集団や社会の成員が他のルールに出くわした時には,居心地も味わいもあまりよくない食事を強いられることになる.国や地域の違いは日常や特別な機会の食事だけでなく,たとえば目的が快復や健康管理といった同じ目的をもつ病院や療養施設といった空間においても,食事の矛盾やジレンマは生まれうる.最近では,医師の指示や食事箋をもとに,患者の好みや背景が考慮され工夫された病院食が日本では増えていると聞くが,“hospital,food“といったキーワードでインターネットを検索した時,世界中には実にさまざまなメニューがならぶ.日本ではあまりお目にかからない“ジャンク・フード”のようなものが提供されるところがある一方で,「健康的である」や「口に合わない」といった賛否両論の意見が存在することに気づく.多様な食文化,食習慣を有する人たちへの対応は観光の分野だけでなく,移民が増加する社会を見通していくことも必要であろう.
 本書では,(1)先住民族などのマイノリティの食生活,(2)ユネスコ無形文化遺産に登録された食文化,(3)人々の主食として暮らしを支える作物,の3つの観点から世界の食事の多様性と共通性を紹介する.治療や健康のためという目的的,課題解決的な食事のなかに文化としての食事を位置づけるきっかけを作ってみたい.
 はじめに(野林厚志)
先住民族の食生活
 カンガルーの冷凍しっぽ─中央砂漠に暮らすアボリジニの“伝統食”(平野智佳子)
 食は万病のもとか?─カナダ・イヌイット社会における食生活の変化(岸上伸啓)
 極北の実り─西シベリアの先住民族・ハンティの野生ベリー採集(大石侑香)
 カラハリ砂漠に暮らす先住民サンの食(池谷和信)
 ピグミー系狩猟採集民(中部アフリカ熱帯林)(彭 宇潔)
 生を支えるハル イッケウ(食の背骨)─日本の先住民族アイヌの食生活(北原 モコットゥナシ)
 台湾原住民族の食と変化(野林厚志)
 オラン・アスリの食生活(信田敏宏)
ユネスコ無形文化遺産の食文化
 トルコ人の社交のハレとケ─ケシュケキとトルココーヒー(田村うらら)
 食べるために生きる?─フランスにおける美食と健康の哲学(和田 萌)
 ブランド化した真っ赤なキムチ(林 史樹)
 地中海料理の挑戦─食と健康の関係を考え直す(宇田川妙子)
 国民文化としてのジョージア(グルジア)のクヴェヴリ・ワイン(前田弘毅)
暮らしを支える作物
 インドネシア・西ジャワ州のコメ食(小坂理子)
 サツマイモ(梅ア昌裕)
 キヌアの魅力とアンデスにおける食文化(佐々木直美)
世界の病院食
 世界の病院食─世界の病人は何を食べているのか(丸山道生)