やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに
 神馬征峰(東京大学大学院医学系研究科国際地域保健学教室)
 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)によって,グローバルヘルスは大きな変貌を遂げてきている.グローバルへルスの目的は地球規模での「容認しがたい不公平な健康格差の是正」である.COVID-19以前,その主たる活動の場はアジア,アフリカなどの資源が乏しい国や地域であった.しかしながらCOVID-19はイタリア,英国,米国など多くの富める国で広がり,国内格差も顕著となった.たとえば米国では,人種によってCOVID-19の死亡率に違いが生じた.日本も例外ではない.移民やホームレスのワクチン接種等に関する健康格差が生じた.そしてグローバルヘルスは高所得国内の格差対策にも取り組むべきという声が強くなった.一方国際格差も大きくなった.たとえば2021年末,高所得国では平均して83%の対象人口がすくなくとも1回のワクチン接種を受けていた.それに対し,低所得国では21%にとどまっていた.この傾向は2023年の春まで続き,COVID-19は「容認しがたい不公平な健康格差」を地球規模で広げた.
 さて,グローバルヘルスというカタカナ言葉がまだ一般的でなかった1986年,「国際保健医療」をキーワードに日本国際保健医療学会が設立された.当初,アジアやアフリカの貧しい国では健康格差是正のための介入に活用できるエビデンスが少なく,この分野で「教科書は役に立たないのではないか」といった議論がなされていた.しかしながら,研究が進むにつれ,同学会ではじめての教科書が2001年に発刊された.同書では,当時の島尾忠男学会理事長が,日本独自のグローバルヘルスの定義を提案した.その骨子は,(1)容認しがたい(健康)格差の特定,(2)生じた格差の要因解明,(3)格差是正の手段についての研究推進,というものである.
 その後改訂は繰り返され,2022年4月には第4版が『実践グローバルヘルス―現場における実践力向上をめざして―』(杏林書院)というタイトルのもとに発刊された.現場における実践力,あるいは現場力とはcompetencyの意訳であり,単なる知識や技術を超えた実践力を身につけてほしいとの期待を込めた言葉である.発刊と同年にはじまった今回の企画は,現場力を発揮してきた先達の声を聴く絶妙のタイミングとなった.
 「容認しがたい不公平な健康格差の是正」のためには,まずはサイエンスとしての最新の医学的知識や技術を身につけておくべきである.同時に,経験に基づいたアートとしての実践力・現場力もまた必要である.そのために取り組む課題は,人々が日々の営みを行う社会における格差の原因となりうる貧困,差別,環境,国家の政策,民族など多彩である.本書では,世界各地で「取り残されがちな人たち」の声を聴き,行動し,その人たちの健康とウェルビーイングの改善に尽力してきた現場主義の専門家たちのあゆみを分かち合う.そして「取り残されがちな人たち」の声を,彼らを通して聴き,私たちのあゆみの活力としていきたい.
 はじめに(神馬征峰)
感染症で苦しむ人々の声に応えて
 結核対策―世界戦略構築への現場からの発信(小野崎郁史)
 マラリア―伝統的知識からの解放(狩野繁之)
 タイ北部におけるHIV感染者ケア強化事業―サンパトンモデルの形成(北島 勉)
 NTDの苦しみ:死なないけれど―現場の視点から(一盛和世・森岡 翠・矢島 綾)
 コロナ渦中,ラオスにて村人の“現場力”から学ぶ(窪田祥吾)
母と子の声に応えて
 グローバルヘルスにおけるジェンダー平等と女性のエンパワーメント(勝部まゆみ)
 母子健康手帳を世界へ―一人ひとりに最初の一冊を(尾ア敬子)
 HIV母子感染―生き延びた青年たちがともに切り開く人生(大川純代)
 自分のいる場とグローバルの場の重なり(後藤あや)
 障がい児の療育―誰もが大切にされる社会を目指して(公文和子)
難民・移民の声に応えて
 戦禍のなかで誕生する新しい命―パレスチナからのメッセージ(藤屋リカ)
 コロナ禍でベトナム人技能実習生が自分自身の健康を守るためには(梶 藍子)
 傾聴の次に来るもの―先人から学び,先人を超える(本田 徹)
 コロナ危機・ウクライナ危機下のパレスチナ難民―今グローバルヘルスに問われているもの(清田明宏)
アジア・アフリカからの声に応えて
 アフリカにおけるポジティブ・デビエンス(小杉穂高)
 アジアで探る,真の看護とは何か?(虎頭恭子)
 ミャンマーの人々の団結と行動―コロナとクーデターの二重苦のなかで(宮野真輔)
 ガーナ―「生きる力」を育む母子手帳(萩原明子)