やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに
 水澤英洋
 国立精神・神経医療研究センター理事長・総長
 小脳は,大脳の尾側かつ脳幹の背側に位置し,霊長類や哺乳類はもちろん魚類などにも共通にみられる重要な神経組織である.その組織構成は,皮質ではPurkinje細胞,顆粒細胞,登上線維,苔状線維,平行線維などからなるきわめて特徴的な構造をとり,シナプスでのトランスミッター,その放出や受容にかかわる分子なども多数明らかになっている.また,その機能も非常によく研究されており,体の平衡,円滑な運動,運動学習,認知機能などが知られている.ただし,ヒトでは小脳が障害されたときに診察でわかる症候として,ふらついてまっすぐ歩けない,文字が巧く書けない,言葉がもつれるなどの平衡の障害や運動失調症状が知られているものの,その他の機能障害についての症状は知られておらず,まだまだ研究が必要である.
 小脳障害の原因にはほかの部位と同様に,先天奇形,外傷,腫瘍,血管障害,感染や自己免疫反応を含む炎症,代謝障害,中毒,変性疾患などが知られている.変性疾患とは,血管障害や炎症などの原因がなく神経細胞が徐々に壊れていき,やがて細胞死に至る疾患であるが,わが国では全体として約3万人の患者がいると推定されている.他の領域と同様,近年の分子遺伝学の進歩により約30%を占める遺伝性病型について数十もの原因遺伝子が解明されている.日本では優性遺伝性病型がほとんどで,4疾患が大部分を占め,これらの頻度の高い疾患を中心に発症機序の解明が進んでいる.また,遺伝子診断はもちろんのこと,MRIやSPECT,PETなどの機能画像も含め,診断法も大きく進歩したといえる.
 しかし,治療についてはまったく不十分な状況にある.現在のところ,感染症ならその原因となる細菌に対する抗生剤など原因療法はあるものの,結果として発生した運動失調症という小脳機能の障害を回復する治療は十分に成功しているとはまったくいえない.その状況は,ずっと後になってから研究が進んだAlzheimer病においてさえ,4種類もの効果を実感できる薬物が開発されているにもかかわらず,脊髄小脳変性症の運動失調症に対しては,2種類の薬物は市販されているもののその効果はまだまだ十分とはいえない.
 この治療薬開発の遅れにはさまざまな理由があるが,その遅れを克服するためのひとつは,すべての関係者の緊密な協力であることに疑いの余地はない.すなわち,神経内科などの医師,小脳疾患の患者はもちろん,小脳研究にかかわる基礎研究者,研究や医療・福祉にかかわる行政関係者,薬物開発の産業界などがすべて協力して発症機序の解明を進め,それを克服する治療法を開発すべきである.本特集が小脳とその疾患に関心のある医師や研究者,そしてその研究や治療法の開発にすこしでも役立つことを切望するものである.
 はじめに(水澤英洋)
小脳は何をしているか:構造と機能の最先端
1.小脳の解剖(小葉構造)と基本的な機能局在
 (杉原 泉)
 ・哺乳類小脳の基本構築
 ・虫部の小葉構造
 ・半球部の小葉構造
 ・HX小葉(片葉)とHIX小葉(扁桃)の小葉構造
 ・小脳皮質の機能局在の形成基盤
 ・片葉(HX小葉)と小節葉(虫部第X小葉)の機能局在
 ・虫部の機能局在
 ・傍虫部と半球部の機能局在
2.小脳の血管解剖と血管分布
 (三木一徳)
 ・小脳に関連する椎骨脳底動脈系動脈の正常解剖 ・小脳動脈の灌流分水嶺域
 ・小脳動脈の発生 ・小脳の静脈解剖と静脈還流
3.Purkinje細胞の樹状突起形成機構―新しい方法で古い転写因子RORαの役割解明に挑む
 (竹尾ゆかり・柚ア通介)
 ・小脳の細胞構築
 ・Purkinje細胞の層形成と初期の突起退縮過程
 ・樹状突起成熟過程におけるRORαの役割
 ・Purkinje細胞のスパインおよびシナプス形成におけるRORαの役割
 ・Purkinje細胞の生存・維持におけるRORαの役割
 ・今後の展望―細胞外環境によるPurkinje細胞形態制御機構の解明
4.小脳の機能:平衡,協調運動機能
 (筧 慎治・他)
 ・平衡,協調運動機能にかかわる小脳の機能区分と入出力
 ・平衡,協調運動機能に共通する機能的要件
 ・今後の展望
5.小脳による運動学習の神経機構
 (永雄総一)
 ・視機性眼球反応(OKR)のゲインの運動学習の記憶痕跡の局在
 ・長期抑圧と小脳皮質の短期記憶の因果関係
 ・記憶痕跡の移動と小脳核の長期増強
 ・記憶痕跡移動の機能的意義
 ・手の到達運動のプリズム適応を用いたヒトの運動学習の定量化
6.小脳と高次機能
 (北澤 茂)
 ・サルの大脳-小脳ループ
 ・ヒトの大脳と小脳の機能的結合
 ・認知課題に伴う小脳の活動
 ・小脳性の高次機能障害の特徴
 ・今後の展望
小脳の病態:小脳疾患の診療の最前線
7.小脳障害の症候
 (西澤正豊)
 ・古典的な小脳障害の症候
 ・小脳の随意運動制御機構と古典的な“小脳症状”
 ・古典的な“小脳症状”の限界と,あらたな評価法の開発
 ・小脳と高次脳機能障害
8.小脳イメージングの進歩
 (花川 隆)
 ・小脳イメージングの撮像法 ・神経疾患における小脳イメージングの進歩
 ・小脳イメージング研究の進歩
9.小脳の生理学的機能検査
 (松本英之・宇川義一)
 ・平衡機能検査 ・プリズム順応課題
 ・小脳磁気刺激検査 ・視線解析
 ・眼球運動課題 ・タッピング課題
【各論】
10.小脳疾患の診断の流れ
 (水澤英洋)
11.小脳の血管障害
 (岩澤絵梨・石橋 哲)
 ・小脳梗塞
 ・小脳出血
 ・小脳 posterior reversible encephalopathy syndrome(PRES)
12.小脳腫瘍
 (田中將太・斉藤延人)
 ・小脳腫瘍の疫学 ・小脳腫瘍各論
 ・小脳腫瘍による症状とその治療 ・分子遺伝学的診断の意義
13.小脳奇形―Chiari奇形を中心に
 (菅原貴志・他)
 ・小脳奇形 ・治療
 ・Chiari奇形の病態・定義
14.小脳の感染症
 (吉田邦広・佐藤俊一)
 ・急性小脳炎(AC)と急性小脳失調症(ACA)の疾患概念
 ・ACの臨床像,治療法,予後
 ・ACAあるいはAPCAの臨床像,治療法,予後
 ・自験例の提示
 ・その他の感染症
 ・小脳の感染症と鑑別すべき疾患
15.非感染性炎症性小脳失調症
 (南里和紀)
 ・非感染性炎症性小脳失調症の疫学 ・多発性硬化症
 ・診断と鑑別診断 ・シェーグレン症候群(SjS)
 ・グルテン失調症 ・CNSループス
 ・抗GAD抗体関連小脳失調症 ・神経ベーチェット病(神経BD)
 ・小脳失調型橋本脳症
16.脊髄小脳変性症の全体像
 (橋祐二・水澤英洋)
 ・脊髄小脳変性症(SCD)の分類と疫学 ・診断
 ・SCDの分子遺伝学 ・治療
 ・臨床症状 ・予後
 ・臨床検査
17.日本に多い優性遺伝性脊髄小脳変性症(SCA3,6,31,DRPLA)
 (石川欽也)
 ・MJD/SCA3 ・SCA6
 ・DRPLA ・SCA31
18.優性遺伝性脊髄小脳変性症のトピックス
 (池田佳生)
 ・わが国における常染色体優性遺伝性脊髄小脳変性症(SCD)の内訳
 ・SCAについての最近のトピックス
19.劣性遺伝性脊髄小脳変性症
 (他田正義・小野寺 理)
 ・常染色体劣性遺伝性脊髄小脳変性症(AR-SCD)の臨床病型と疾患分類
 ・AR-SCDの診断
 ・代表的なAR-SCD
20.多系統萎縮症
 (三井 純)
 ・多系統萎縮症(MSA)の臨床亜型,MSA-CとMSA-Pをめぐって
 ・孤発性MSAにおけるCOQ2遺伝子 ・孤発性MSAにおけるGBA遺伝子
 ・MSAの臨床診断の難しさと他疾患の混入 ・治療の試み
 ・家族性MSAとCOQ2遺伝子
21.皮質性小脳萎縮症
 (桑原 聡)
 ・皮質性小脳萎縮症(CCA)の疾患概念 ・診断基準の提唱と展望
 ・鑑別診断
22.遺伝性痙性対麻痺
 (瀧山嘉久)
 ・遺伝性痙性対麻痺(HSP)の概念・分類 ・痙性対麻痺の診断基準の提案
 ・HSPの分子疫学 ・治療
 ・HSPの分子病態
23.脊髄小脳変性症の薬物療法
 (矢部一郎)
 ・ヒルトニンおよびセレジストによる治療の現状 ・薬物療法の最近の試み
24.小脳性運動失調症のリハビリテーション
 (宮井一郎)
 ・小脳性運動失調に対する神経リハビリテーションにおける問題点
 ・脊髄小脳変性症に対する神経リハの効果
 ・集中リハ後の機能維持のための介入
 ・小脳性運動失調改善の神経基盤とあらたな神経リハ戦略への展開

 サイドメモ
  機能局在形成の基盤としての小脳の分子発現パターン
  小脳の入出力神経回路構築
  後下小脳動脈(PICA)起始部の破格
  長期抑圧(long-term depression:LTD)
  運動の脳内モデル(内部モデル)
  上肢小脳機能検査システムiPatax
  血液酸素化レベル依存(BOLD)コントラスト
  小脳の遠心路と求心路
  Head impulse tes(t HIT)
  NIHSS(National Institute of Health Stroke Scale)
  腫瘍随伴症候群−亜急性小脳変性症
  後頭蓋窩正中嚢胞−Utsunomiyaらの分類
  Hans Chiari
  現在のChiari奇形の分類
  ポリグルタミン病の病態機序
  DNA損傷修復機構の破綻による神経細胞障害
  Japan Spastic Paraplegia Research Consortium(JASPAC)
  Ashworth scale
  脊髄小脳変性症(SCD)における再生医療
  脊髄小脳変性症(SCD)におけるiPS細胞研究
  小脳性運動失調の臨床的評価